平成5年度指定
洪山宗範墨蹟 上堂語
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福岡市博多区千代四丁目7番79号 宗教法人 崇福寺
臨済宗大徳寺派横岳山崇福寺に所蔵される第三十二世洪山宗範(文保2年・1318〜応永3年・1396)の墨蹟です。崇福寺は仁治元年(1240)太宰府僧随乗坊湛慧が大宰府横岳に創建、翌年聖一国師円爾弁円が開堂、文永9年(1272)大応国師南浦紹明が開山となった禅宗寺院です。寛元元年(1243)後嵯峨天皇の勅命によって官寺となり、室町時代には諸山・十刹の寺格に列せられました。天正14年(1586)兵火に罹り多くの堂宇・什物を焼失、慶長5年(1600)福岡藩初代藩主黒田長政によって現在地に移転再建されました。
住持が正式に法堂(はっとう)の座に上って説法することは上堂といわれ、なかでも結夏(4月15日)・解夏(7月15日)・冬至(11月中旬)・年朝〈1月1日)の定時の上堂は四節上堂といわれ禅林の重要行事とされています。修行僧の首席である首座(しゅそ)は結夏と冬至には住持に代わって修行者のために説法することが規式であり、それを秉払(ひんぽつ)といいました。本墨蹟は自分に代わって修行僧に説法した前堂・後堂の両首座への謝辞として、住持洪山宗範自らが上堂して述べた法語で、秉払をつとめた流首座の需めに応じて後日書き与えられたものです。秉払をつとめたことで官寺の住持資格ができるので、それを証明するこのような秉払法語、秉払謝語とよばれる法語は将来官寺の住持に出世するために大切にされました。
形状・品質 紙本墨書、掛幅装
一文字・風帯 浅黄地金襴
中廻 茶地花文鍛子
上下
軸 紫檀印可象牙象嵌
法量 横83・3cm 竪34.7cm
銘文・他 【落款・印章】
「至徳蒼竜乙丑冬節後三日書干
円通閤下以塞 流首座請并露醜悪耳
寓横岳老衲洪山叟宗範
(失鼎印)(朱文方印)
〈印文不詳〉〈宗範〉」
【桐箱蓋表墨書】
「洪山範和尚墨蹟 謝両堂首座上堂」
【桐箱蓋裏墨書】
「崇福寺常住」
【桐箱貼紙墨書】
「洪山宗範和尚
當山丗二世住聖福
塔日天得 秀崖宗胤和尚法嗣
秀崖和尚嗣法国師嘗入元國」
【巻留墨書】
「洪山□尚真蹟」
【墨書】
「横嶽山崇福寺常住
表具補之 江月叟
(失文鼎印)
〈江月〉」
そもそも墨蹟は参禅修行の証拠として入宋・入元の禅僧によって鎌倉時代の中ごろ請来されましたが、わが国においても法系を重視する禅宗寺院で師から弟子へ与えられる印可の証として尊崇され、さらにまた、室町時代に茶の湯が盛行すると茶席の掛物の第一とされ(『南方録』)貴重されたものです。本墨蹟も以上のような経緯を経て本寺に伝来したかと想像されますが、詳細は不明です。
筆者洪山宗範(文保2年・1318〜応永3年・1396)は信州の生まれ、秀崖宗胤(大応国師南浦紹明の法を嗣いで鎌倉の壽福寺、筑前の崇福寺、聖福寺を歴住)の下で剃髪得度し、その衣鉢を嗣いで鎌倉の浄智寺、次いで筑前の崇福寺第三十二世、後に聖福寺第四十九世の住持となった南浦紹明の法孫です(『聖福寺史』)。鎌倉・南北朝・室町時代の崇福寺は大応派の中心的寺院として全国から多くの参学者を集めたものと思われます。(『東福寺文書』『禰寝文書』『妙興寺文書』)。
本墨蹟は至徳2年(1385)、冬至の上堂で秉払をつとめた流首座に書き与えられたもので、現存作品が少ないといわれる秉払謝語に相当します。文中にみえる「此君亭」、「円通閣」はそれぞれ近世地誌類に伝えられてきた横岳の八境とよばれた境致であり往時の風致を偲ばせます。史料に乏しい大宰府横岳時代の崇福寺の面目を示す墨蹟であり、本市にとって貴重な文化財です。