平成5年度指定

南方録

宝永二年乙酉臘月実山校合奥書
(寧拙書写本)

7冊

福岡市中央区御所ケ谷123−1(福岡市博物館保管) 立花俊彦

 形態 紙本墨書、袋綴
 員数 7巻7冊
 法量 竪25.1cm 横17.4cm
 墨付 「覚書」26枚 「会」36枚 「棚」24枚 「書院」16枚 「台子」57枚
    「墨引」63枚 「滅後」95枚

 福岡藩士立花実山によって書写された利休秘伝書である『南方録』(実山書写校合奥書本)を、宝永2年(1705)実山の弟である寧拙(〜延享2・1745)が書写したものです。圓覚寺に相伝されている実山書写校合奥書の『南方録』と同じ体裁と内容で、本文の異同もほとんどありません。各巻末(「滅後」を除く)には実山が校閲したことを示す奥書が記されているほか、紫墨書の注記が加えられています。昭和47年(1972)に発行された日本思想体系(岩波書店)所収の『南方録』はこの立花家の寧拙書写本を底本としています。

 『南方録』の披見は誓紙・血判をとったうえ読み聴かせる形で、極めて限られた範囲の中で厳重に行われたものでした(立花実山『岐路弁疑』)。
 容易に見ることは許されなかったものの、宝永2年(1705)、「南方の清風」が断絶することを怖れた立花実山は本書発見時からの僚友衣斐了義と図って、実弟である寧拙(延享2・1745没、享年73)、衣斐固本(衣斐了義の息)、大賀如心、立花道(実山の嗣子)の4名に書写を許し伝授しました。
 本書はこの時寧拙が書写したものであり、上記4書写本のうち、現在立花家に伝えられたこの寧拙書写本のみ所在が確認されています。
 寧拙生前の享保3年(1718)、如心・道と協議の上、書写を許した笠原道桂から立花増昆(福岡藩家老、4千石、文政4年・1821没)をはじめ立花家一門並びに藩外へその道統は継承されたようですが、寧拙没後の本書の伝来については不明です。
 後に実山の伯父重興の系統であり、実山関係文書の収集に努めたとみられる茶人立花有得(武義 530石 文化3・1806〜明治26・1893)から有得の孫である貫一郎、貫一郎から妻愛子に伝えられ、現在に至ったものです。

 本書は、江戸その他各所に流布した『南方録』の写本類の多くが単なる転写本・抄本とみられるのに対して、実山から書写相伝を許された現存する唯一の伝授本として、また、その付加された紫墨書の注記とともに江戸その他各所に流布した転写本の原典として高い資料的価値をもつものです。