平成11年度指定

有形文化財・彫刻
銅造日蓮上人立像 1躯

福岡市博多区東公園7番11号 宗教法人日蓮聖人銅像護持教会

 明治21(1888)年、湯地丈雄(1847〜1913)が主唱した元寇記念碑建設運動に、佐野前勵(日菅、1859〜1912)が共鳴したことに端を発して建立が進められたものです。
 明治25(1892)年4月東公園で起工式が行われ、明治37(1904)年完成、同年11月8日除幕式が行われました。
 製作を引き受けたのは東京美術学校(明治20年設置、同22年開校、現東京芸術大学)校長であった岡倉天心(1862〜1913)、その図案懸賞には明治27年に同校を卒業する下村観山(1873〜1930)のデザインが一等賞を受け(その図案が採用されたか否かは不明)、原型(木型)製作を木彫科初代教授竹内久一(1854〜1921)、鋳造を同校鋳金科教授岡崎雪声(1854〜1921)が行いました。
 鋳造は困難を極め、結局東京での鋳造は頭部と両手首のみで、本体部の鋳造は佐賀藩の御用鋳物師の伝統をもつ佐賀市の谷口鉄工所で行われました。
 奈良の大仏(14.87E)、鎌倉の大仏(11.44E)に次ぐ、国内第三位の巨大青銅像です。

  • 重量 19800貫(74250L)
  • 像高 3丈5尺(10.6E) 
    首  6尺5寸(1.97E) 
    耳  2尺1寸5分(0.65E) 
    口  1尺3寸7分(0.42E)
  • 首廻り1丈4寸2寸(4.3E) 数珠7尺2寸(2.18E) 袖1丈3尺5寸(4.09E)
  • 裾廻り5丈7尺(17.27E) 台座3丈5尺(10.6E)
  • 分割された30個近い各ブロックをボルト・ナットで継ぐ、ボルトの数は推定400〜500個

      (出典)中牟田佳彰・田中一幸・木下禾大
          『福岡市東公園 日蓮上人銅像 制作工程と歴史資料』
          西日本新聞社 1986 48p・60pより


 銅造日蓮上人立像の制作は日蓮宗改革運動を展開していた佐野前勵(日菅、1859〜1912)が、明治21(1888)年、湯地丈雄(1847〜1913)が主唱した元寇記念碑建設運動に共鳴したことに始まります。当初の元寇記念碑は北条時宗の騎馬像であり、その記念碑中に日蓮の肖像をはめ込む計画でしたが、他宗派の反対で実現しませんでした。以後湯地の元寇記念碑建設とは袂を分かち、日蓮一宗での日蓮銅像単独建設となりました。明治23年、福岡市橋口町勝立寺に銅像建設事務所設置し、明治24年に内務省の建設許可を受けました。明治25年、東公園にて起工式、亀山上皇像の起工式におくれること二年、この年東京美術学校に五十分の一模型を委嘱しました。明治37(1904)年完成、同年11月8日除幕式。

 本像原型を制作した竹内久一(東京美術学校木彫科初代教授)は、古社寺の古彫刻の修復を多く手がけ、古彫刻の研究とその創造的復興を試み、後に古社寺保存会委員に任じられた理想派彫刻家の代表者(岡倉天心の評)です。
 本像の両手と頭部を鋳造した岡崎雪声(東京美術学校鋳金科教授)は、本像鋳造前年(明治30年)、上野公園の西郷隆盛像(原型は高村光雲)・皇居前広場の楠木正成像(原型は高村光雲他)を手がけるなど当代鋳造界の第一人者でした。
 また、胴体の鋳造にあたった谷口家(谷口鉄工所)は、江戸初期には英彦山神社の銅鳥居(重要文化財)鋳造をはじめ、幕末には日本最初の熔鋼反射炉製作に参加するなど、佐賀藩の御用鋳物師としての伝統をもち、明治維新後にはヨーロッパの近代工業技術を駆使して、殖産興業の一翼を担った鉄工所ででした。
 鋳造に関しては、度重なる失敗のため型持が多用された岡崎雪声担当の頭部・両手部分と、谷口家が担当した型持を見出し得ない銅体部との間に伝統的技術と近代的工業技術の差異があることがわかります。しかしまた、分鋳した各部分をボルト・ナットで結合する方法は、岡崎雪声がアメリカで学んできた技法であり、本像全体としては伝統的技術と近代的工業技術との折衷・融合の上に成立したものと見ることができます。
 なお、台座のレリーフは近代洋画史の欠史部分を補う絵画資料となっています。原画を画いた矢田一嘯(1858〜1913、横浜生れ)は日本におけるパノラマの普及に力あった洋画家。博多に居住し、人形師に人体・骨格・筋肉・絵の具の着色法・溶解法などを指導し、玩具的な博多人形から美術的な博多人形へ飛躍する基礎を作った恩人とされています。白水松月は小島与一(1886〜1970、人間国宝)の師である白水六三郎、年少の与市を引き連れ矢田に学んだ博多人形師の一人です。鋳造にあたった深見家は福岡藩時代以来の博多鋳物師ですが、その遺品は多くは残されていません。
 烈風に法衣を翻し、理想を護持して堂々と厳しく屹立し、加えて人間味ある親しい像容を表現した本像は、奈良・鎌倉時代以来第三番目の巨大鋳造事業の作例として、また、伝統的「仏師」が近代的「彫刻家」として再誕する過程の作品として、さらには鋳造法における伝統と革新を示す作例として、近代彫刻史上「銅像の時代」と言われるこの期を代表する作品であり、本市のみならず全国的にも極めて貴重な鋳造彫刻です。