![]() |
![]() |
![]() |
![]() | ![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
ロベルトが生まれたのは、それから百年以上経った後のことである(だから、ノルマン人というよりはフランス人と言ってもよいのではないかとも思う)。
ロベルトの父タンクレードは、ノルマンディーのオートヴィルという村の小領主だった。中世の領主たちは、貴族のイメージとは程遠く、意外に貧乏だった。だから、父タンクレードもかなり貧乏だったと思う。何しろ、オートヴィル村の位置も諸説あって、はっきりしていない。ちゃんとした記録が残っていないくらいに、ちっぽけな領主に過ぎなかった。加えて、タンクレードには子どもがやたら多かった。最初の妻との間に5人。そのあたりで打ち止めにすればよいものを、再婚した妻との間にさらに7人。総勢13名。子どもたちに分け与えられるであろう領地や財産などゼロに等しいし、そもそも、成人するまで養って行くだけでも大変だったと思う。
というわけで、タンクレードの息子たちは、次々と騎士として旅立ち、故郷を後にした。彼らが向かったのは、混乱が続く南イタリアである。
鉄腕グリエルモとメルフィの12人のリーダー
タンクレードの息子たちの中で、最初に南イタリアで活動を始めたのは、ロベルトの異母兄である鉄腕グリエルモ、ドローゴーネ、オンフレドたちだった。
当時のイタリアの状況は、歴史の本を何度読んでもわけがわからない。
西ローマ帝国滅亡後、イタリアの大きな歴史的事件だけでも、東ゴート王国建国、ビザンツ帝国ユスティアヌス1世による再征服、ランゴバルド王国建国、フランク王国宰相ピピンの寄進による教皇領成立、カール大帝によるランゴバルド王国の征服、そしてイスラム教徒によるシチリア征服…と続く。
ややこしいのは、次々とやってくる支配者たちが、完全な支配を確立できなかったことだ。ランゴバルド王国が滅びた後も、王国の飛び地のような部分が候国として残り、これがまた複数の候国に分かれたり、くっついたりした。ビザンツ帝国領が分裂したまま残存。いくつもの都市が事実上自治を獲得し、勢力を伸ばしていたから、これらも独自の支配勢力としてカウントしなければならない。要するに、単純じゃない。何が何だかわからない。当時の人たちもよく把握していなかったと思う。
あえて要約すれば、ビザンツ帝国、ランゴバルド系のサレルノ候国などの諸候国、アマルフィなどの都市国家、そしてシチリアのイスラム勢力がモザイク状に領地を獲得して争っていたのが当時の南イタリアだった。さらに、これに隣接して教皇領を有するローマ教会、そして名目上は南イタリアの支配権を有しているはずの神聖ローマ皇帝が絡んでくるから厄介な話となる。かなり複雑な政治状況下にあった。
ロベルトのようなノルマン人騎士たちは、こういった様々な勢力争いの中で、傭兵として活躍していた。彼らは、戦士として優れた才能を発揮し、傭兵として人気が高かったと言われている。
しかし、傭兵に過ぎなかったノルマン人たちにも、領主となるチャンスが巡ってくる。鉄腕グリエルモとその弟たちを含むノルマン人の12人のリーダーは、1042年、ランゴバルド系候国の一つであるサレルノ候国から、メルフィの町を与えられた。
このメルフィの12人のリーダーの中でも、鉄腕グリエルモが筆頭格だった。鉄腕グリエルモは、サレルノ候国(ランゴバルド系の候国)からプーリア伯としての地位を認められるようになり、名目的にもノルマン人の有力なリーダーとなる。もっとも、当時のプーリアのほとんどの地域はビザンツ帝国の支配下にあった。ノルマン人勢力は、メルフィを拠点として主にビザンツの領地を狙い、略奪と戦争を重ねながらその征服を進めていった。
このようなノルマン人領主の出現は、敵味方に別れて戦っていたノルマン人たちに求心力を与えた。ノルマン人集団は、さらに政治的な独自性を強め、最終的にロベルト・ギスカルドの時代には、それまでの雇い主であった支配勢力をほとんど南イタリアから一掃してしまうことになる。
鉄腕グリエルモのプーリア伯の地位は、彼の死後、弟のドロゴーネ、オンフレドに引き継がれ、そしてロベルト・ギスカルドがその後継者となった。
そして、1057年、鉄腕グリエルモから数えて三代目のプーリア伯、オンフレドが死んだ。その後継者に名乗りをあげたのがロベルトだった。彼は、他のライバルたちを押さえ、メルフィにノルマン人を集合させると、自分をリーダーとして認めさせた。1059年には、教皇からもプーリア、カラブリア及びシチリアの公として認められ、名実ともに南イタリア最高の地位を獲得する。
この頃、ロベルトの元に、弟ルッジェーロ(後のシチリア大伯ルッジェーロ1世)がノルマンディーからやって来る。ルッジェーロもまた、戦争と政治に才能を発揮した騎士で、後に実質的にシチリアを支配するのはルッジェーロである。ロベルトは、この有能な弟の力を借りて、南イタリア征服の完成を目指すことになる。
カノッサの屈辱とロベルト
高校で世界史を習ったとき、妙に印象深く覚えているのが「カノッサの屈辱」という事件である。この事件が起きたのは1077年。ロベルトが活躍していた頃と同時代の出来事だ。
教会改革を推し進めていたグレゴリウス7世は、世俗権力による聖職者の叙任権を認めず、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ4世が激しく対立した。グレゴリウスは、ハインリッヒを破門。これによってドイツ諸候の支持を失ったハインリッヒは、粗末な衣服を着てグレゴリウスが滞在していたカノッサ(トスカーナ伯マチルデの居城)を訪ね、破門を解いてもらえるよう懇願する羽目になった。ハインリッヒは、極寒の中、素足で城門の前に立ち、ただひたすらグレゴリウスの許しを待ったと言われている。
この一件は、教皇権力が強大であったこと、破門が皇帝をも屈服させる強烈な措置だったことを示すエピソードとして知られている。
この事件が起きた頃、ロベルトもまた、グレゴリウスと対立関係にあった。ロベールが征服を推し進めていた南イタリアと教皇領は隣り合わせ。油断すれば互いに何をされるかわからない。仲が悪くて当然だ。
そんなわけで、ロベルトは、カノッサの屈辱事件の直前にも直後にも破門されている。ところがである。ロベルトの方は、破門されてもお構いなしに征服活動を続けている。破門されても全然困らなかったらしい。もともと下級貴族の出身で、権威とは関係なく実力でのし上がって来たロベールだったし、もともとビザンツ帝国の支配地だったカラブリアやプーリアではローマ教会の影響は弱かったのだろう。破門はロベールには全然効き目がなかったのである。こういう無頓着な人もいた。
さて、カノッサの屈辱の一件には第2ラウンドがある。ドイツでの地位を固めたハインリッヒは、雪辱を晴らすべく大軍を率いて南下し、1084年には教皇軍を打ち破ってローマを占領する。ハインリッヒは対立教皇を立ててグレゴリウスの廃位を宣言。グレゴリウスは、サンタンジェロ城に籠城するも、孤立無縁となった。そこで援助を求めた先が、何と仲がずいぶん悪かったはずのロベルト・ギスカルドだった。
ロベルトは当時、南イタリアの征服をほぼ完成させ、ギリシャ遠征に打って出ていた最中だったのだが、イタリアに戻ってグレゴリオ救出に馳せ参じる。グレゴリウスとロベルトは、前に述べたように対立関係にあった。しかし、北のハインリッヒが力をつけてくるにつれ、ローマ教会としては南との関係改善を図らなければならない状況となっていた。そこで、グレゴリウスとロベルトは、1080年に和解していたのである。ローマ教会は、このようにドイツ勢力と南イタリア勢力との間にあって、北と仲たがいすると南と結び、南と仲たがいすると北と結ぶということをよくやる。そのバランスを保つことで教皇領の保全と拡大を図ってきたとも言える。
和解によって教皇に忠誠を誓うことになったロベルトは、律儀にもグレゴリウスを救出するためにローマへと向かった。
ハインリッヒは、ロベルト・ギスカルドの接近を知ってさっさとローマから退却した。結局ハインリッヒ皇帝軍とロベルトとの決戦はなかった。そして、グレゴリオは救出されるのだが、ローマに留まることはできなかった。
もともと、後にその教会改革への姿勢が高く評価されることになるグレゴリオ7世も、当時のローマ市民からは評判が悪かった。皇帝と喧嘩ばかりするため、ローマ市民は常に戦争の恐怖にさらされていたからである。そこに加えて、ハインリッヒの皇帝軍が去ったというのに、ロベルトの軍隊はローマで略奪と虐殺を行い、グレゴリオの救出作戦はローマを焼け野原とする結果を招いてしまった。おまけに、ロベルト・ギスカルド軍には多数のイスラム教徒兵士が含まれていた。ローマ市民にしてみれば異教徒による略奪を受けたことになる。そんな悲劇を呼び込んでしまったグレゴリオに対し、もはやローマ市民が支持などするわけがない。支持がないということは生命の危険があるということだ。
グレゴリオはロベルトとともにローマを脱出し、最終的に当時のロベールの本拠地だったサレルノに落ち着く。そして、1085年、「正義を愛したがために、流浪の身で死ぬのだ」という言葉を残し、サレルノで永眠した。ロベルトが建てたサレルノの大聖堂には、グレゴリオの墓所が設けられている。
ロベルトの南イタリア征服の完成の足を引っ張っていたのは、繰り返されるノルマン人貴族の反乱だった。ロベルトと血縁のある身内たちも、鉄腕グリエルモ以来のプーリア伯の地位を相続できなかった不満から度々反乱を起こす。征服されたはずの都市の市民が反乱に加わり、大規模な反乱が何度も起きている。
しかし、ロベルトの強さにかなうものはなく、結局鎮圧されてしまうのだが、ロベルトは反乱者をむやみに殺さなかったし、追放処分もしない。それまでの領地保有を認めてもらった者も多いようだ。だから、同じ連中が同じ場所を根城にして反乱を起こすわけである。仏の顔も三度までと言うが、ロベルトは二度、三度と許してしまう。自分の支配権を認め、税金を払ってくれさえすればよく、見せしめや報復的な処分をすることがなかった。
これと同じように、都市包囲戦で勝利した場合でも寛容な措置をとり続けていた。
ビザンツ帝国勢力の最後の砦となったバーリの市民は、ビザンツの加勢も受けて激しくロベルトに抵抗し、互いにかなりの損失が生じていた。ロベルトは、かなりの年月を費やし、犠牲を払ってバーリ攻撃を続けていた。しかし、バーリがいったん降伏すると、市民の生命を保証し、ロベルトが占領していた城外の土地も市民に返してしまう。
シチリアのパレルモの場合、住民の多くはイスラム教徒だったが、ロベルトが激戦の末に勝利した後も、イスラム教の信仰が認められ、改宗が強要されることはなかった。この人はほんとにキリスト教徒だったのか?と思えるほど、イスラム教に対する措置が柔らかいのである。そのため、イスラム教徒は、その後も永らくシチリアに住み続け、官僚として、あるいは商人として活躍することができた。
おそらく、この寛容政策は、ロベルトが単身で複雑な状況下にある南イタリアにやってきたという事情によるのだろうと思う。当時の南イタリアには、イスラム、ビザンツ(ギリシャ)、ランゴバルドといった異なる人種、文化、宗教が混在していたけれど、ロベルトの仲間のノルマン人は極端な少数派だった。それに、ロベルトの側には、ヨーロッパよりも格段に先進的なビザンツやイスラムの文化を圧倒する文化的背景もない。先住の人々や既存の支配者を排除してしまえば、途端に秩序の崩壊と文化レベルの低下を招いてしまう結果となる。また、ノルマン人の反乱者を排除してしまうと、ロベルトたちはますます少数者に落ち込んでしまうという状況にあった。従来の支配者層や統治システムは変えようにも変えられないし、身内の反乱にも我慢しなければいけない。悔しくても寛容になれなければ統治はままならなかったのだろう。
ただ、そういった現実にあわせ、寛容政策をとることができたのは、やはりロベルトや弟ルッジェーロの才覚だったと思う。
このような寛容政策が後々に実を結んだのがシチリアである。実質的な支配者はロベールの弟ルッジェーロだったが、彼はイスラム教徒やギリシャ人による官僚組織を温存させ、結果的に強固な支配システムを確立した。もちろん、宗教差別が全くなかったわけではなく、その後イスラム教徒の流出が続くことにはなる。しかし、この措置はイスラム世界との強い繋がりを継続させることになり、シチリア繁栄の基礎となるのである。
ロベルトは、戦士として優れた能力を発揮できたものの、政治や文化の面ではあまり芳しい業績を残していない。戦争に明け暮れた人生、ほとんど何も残さずに死んでしまった。例えば、彼が残した城や教会といった遺構はあまりみられない。弟のルッジェーロが官僚システムを育成し、後に強固な地盤を固めたのに対し、ロベルト方は、相次ぐ反乱を鎮圧することだけでしか支配権を保持することができなかった。
ただ、軍事一点張りというわけでもない。ロベルトが東方の先進文化に触発され、何らかのアクションを起こそうとしていたことは確かなように思う。例えば、彼は本拠地サレルノに医学校を開設している。この学校は発展することなく消滅してしまったのだが、これはヨーロッパ最古の大学とも言われている。中世の大学は、学生または教師の組合が発展して成立した例がほとんどで、ロベルトのような王侯による大学創設は非常に珍しい。その意味では、当時のヨーロッパの中で、進んだ考え方をもっていた君主だったのかも知れない。もっとも、外科を中心とした医学を選んだあたりが戦士ロベルトらしい。
さて、ロベルトの後継者となったのはロベルトの子ルッジェーロ・ボルサ。しかし、父ほどの軍事的才能に恵まれなかったルッジェーロ・ボルサにとって、父から受け継いだその権力基盤は非常に弱いものだった。南イタリアの実質的な権力は、ロベールの弟、シチリア大伯ルッジェーロ側に移行するようになる。
そして、ルッジェーロの後を継いだのは、その子ルッジェーロ2世である。ルッジェーロ2世は、他のライバルを押さえて南イタリア全域の支配権を確立する。そして、1130年、教皇からシチリア王位を認められ、ここにシチリア王国が成立する。
シチリア王国は、イスラム教徒やギリシャ人などから官僚を登用し、当時のヨーロッパの中では進んだ政治システムを採用した。王国では、アラビア語やギリシャ語が公用語として用いられ、ルッジェーロ2世自身もこれらの言語に堪能だっと言われる。イスラム世界との強いつながりは莫大な富をシチリアにもたらした。そして、その富のもとで華やかな文化が謳歌することになる。ちなみに、イタリアにルネッサンスの時代が訪れるのは200年も後の話である。
シチリア王国の繁栄期は、ヨーロッパ全体が十字軍の熱狂の中にあった時代でもある。そんな時代の空気に流されず、シチリア王国はむしろイスラム世界との関係を大事にしてきた。暗黒の中世と言われる時代に、多種多様な人々がともに暮らし、そして繁栄する王国が出現したのである。
ロベルト・ギスカルドと弟ルッジェーロが征服過程でとってきた寛容政策は、こうして実を結んだ。”狡猾な奴”と呼ばれた男は、意外にいい人だったのかもしれない。