<第7章>

メディチとの微妙な関係


共和国は、名声のある市民がいなくては成り立たないし、りっぱな政治が行われない。
だが一面、この市民の名声が、共和国にとって専制政治を生む原因をつくる。「政略論」

メディチ礼拝堂 メディチ家というのは、何とも奇妙な一族である。
メディチがフィレンツェの支配権を掌握するのは、15世紀半ばのコシモ・デ・メディチの時代。それ以来、何度か追放を経験しながらも、メディチはフィレンツェの支配者の地位を保ち続ける。しかし、この一族は、あからさまな”君主”となることを避けてきた。歴代のメディチ当主たちは、事実上は君主と変わりないのだが、形式的には一市民として振る舞い、”共和国”の根本的なシステムには手をつけなかった。当主が政庁の重要ポストに就任した例も少ない。16世紀半ばにトスカーナ大公国が成立すると、メディチは名実ともに君主となるのだが、それまでは一市民としての立場を崩さなかったのである。
メディチ独裁のシステムは、議会や重要な政庁ポストをメディチ派で独占することで成り立っていた。議会もあれば選挙もある独裁政権。フィレンツェには軍隊というものがなかったから、軍事力を背景にした圧力というのもない。だから、多くの市民たちは、メディチの支配下にあっても、フィレンツェが歴とした”共和国”だと信じ続けてきた。
シン・デ・ジミントーやノボル・デ・ジミントーが、ヨトー派を操り、事実上の独裁政治が行われているというのに、ほとんどの国民が自国をちゃんとした民主国だと信じているどこかの国に似たシステムだったのである。メディチ家が”君主”となることを意識的に避けてきたのは、目立つ人物の足を引っ張りたがるフィレンツェ人気質を考慮してのことだと言われている。こうした人々の気質も、何だかどこかの国と似ている。

メディチ宮 メディチ家のフレンツェ支配を支えていたのは、銀行業で蓄えた財力もさることながら、それより増して、民衆の人気と市民の支持だったと言える。メディチ家は、もともと評判の良い一族だったわけではなく、むしろ粗暴さで知られ、かつては評判が悪かった。しかし、下層民衆が起こしたチョンピの乱の際には民衆側に付き、それ以来、”民衆の理解者”というイメージが定着した(という趣旨を、マキャベッリは「フィレンツェ史」で述べている)。
コシモの孫ロレンツォ・デ・メディチを評して、マキャベッリの友人でもあったグッチャルディーニは「愉快な独裁者」だと言っていた。ある人は、メディチに反感を持ちながらも「快適な独裁者」と言っている。メディチとは、民衆の理解者にして愉快で快適な独裁者なのである。

マキャベッリが関わったのは、このように奇妙な独裁者たちだった。そして、彼とメディチとの関係は、常に微妙なものだった。
マキャベッリが政庁書記として活躍していた頃は、メディチがフィレンツェから追放されていた時期にあたり、彼の仕事の中にはメディチ復帰を阻止する政略が含まれていた。それだからこそ、1517年のメディチのフレンツェ復帰の際には、政庁書記を解任され、反メディチの疑いで投獄までされる羽目になったのである。その後、マキャベッリは「君主論」をメディチに献じるが、全く相手にされなかった。

オルティ・オルチェラーリ通り この関係が改善されるようになったのは、「オルチェラーリの園」と呼ばれる文化サークルのような集まりにマキャベッリが参加するようになってからである。
このサークルは、名門ルチェライ家が主催していたもので、メディチ派有力市民の御曹司たちが多数参加していた。ここで、マキャベッリと若者たちとの文化交流が始まる。若者たちとマキャベッリの間には、一種の師弟関係のようなものが生まれるようになった。そして、若者たちは、マキャベッリの働き口を求めて運動を始める。
彼らのメディチへの働きかけのおかげで、マキャベッリは、ジュリオ・デ・メディチ(後の法王クレメンス7世)から「フィレンツェ史」の執筆を依頼され、執筆活動中も報酬を受け取れるようになった。
ちなみに、これに恩義を感じてのことか、「政略論」(ローマ史論)をはじめ、マキャベッリの著作の多くは、このサークルのメンバーである20代の若者たちに捧げられている。

こうしてメディチとの関係が修復に向かったものの、マキャベッリとこの若者たちとの師弟関係は、ある悲劇で終焉してしまった。
「オルチェラーリの園」の若者たちは、マキャベッリの共和主義に過度に共鳴してしまったのか、無謀な反メディチの陰謀を企て、1522年にこれが発覚する。ある者は処刑され、ある者は外国逃亡を余儀なくされる事態となってしまった。
ジュリオ・デ・メディチ殺害を狙ったこの陰謀には、「政略論」(ローマ史論)を捧げられたザノービ・ブオンデルモンティも参加していた。「政略論」は、共和政を論じたもので、陰謀に加わった若者たちの思想的指導者はマキャベッリだったと言える。だから、マキャベッリにも嫌疑がかかっておかしくない状況だった。現代の独裁政権下であれば、逮捕ぐらいはされていただろう。
ところが、ここでもメディチ特有の奇妙な側面が発揮されたのか、今回は全くお咎めなし。

サン・マルコ美術館 かつて、サヴォナローラの件でも、ロレンツォ・デ・メディチは理解しがたい対応をしていた。
激しいメディチ批判を展開するサヴォナローラに対して、ロレンツォは弾圧的な措置を全くとっていない。これが後のメディチ追放の一因になり、彼の神権政治時代を招いたとも言えるのだが、ほとんど放置していたのである。ロレンツォは、サンマルコ修道院をうろちょろし、修道院長サヴォナローラと話し合う機会を持とうとしていたと伝えられているが、修道院長の方はこれを無視。それでも、金持ちけんかせずを通したのであった。
マキャベッリは、一度反メディチの嫌疑がかかったことがあるいわば前科者である。その人物に影響された若者たちがジュリオ殺害の陰謀を企てた。それなのに、ジュリオは「フィレンツェ史」の執筆をマキャベッリに続けさせ、報酬も払い続けたのである。何とも奇妙な一族。深い考えがあったのか、それとも何も考えていなかったのか、よくわからない。

いずれにせよ、この一件で、マキャベッリとメディチとの関係は再び微妙なものとなった。
彼が望んでいた政治の現場への復帰は、また遠のいてしまったのである。


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