<第8章>

マキャベッリの死、共和国の死


私は、これが天国へ行くための正しい道であると思います。
すなわち、地獄から逃れるために、地獄への道を学ぶことです。−グッチャルディーニへの手紙

グッチャルディーニ像 晩年のマキャベッリの友人に、フランチェスコ・グッチャルディーニという人がいる。
マキャベッリの生家のあるグッチャルディーニ通りの名前は、グッチャルディーニ家の邸宅がその通りにあったことから付けられた。要するに、フィレンツェの名門中の名門ということ。フランチェスコは、法律家としてエリートコースを歩み、フィレンツェ政庁や法王庁の要職を歴任してきた人物である。「イタリア史」や「リコルディ」を執筆した著述家としても知られ、その日本語訳もちゃんと出ている。

マキャベッリは、法王庁のロマーニャ総督の地位にあったグッチャルディーニの下で、再び政治の世界に返り咲くことになる。1525年頃のこと。
当時、彼に「フィレンツェ史」の執筆を依頼したジュリオ・デ・メディチは、クレメンス7世としてローマ法王の地位に就いていた。マキャベッリは、執筆を終えた「フレンツェ史」を法王に献上し、その際、法王との謁見のチャンスに恵まれる。このとき、メディチ家御曹司らしいお気楽な気まぐれからか、クレメンスはマキャベッリに対し、グッチャルディーニを補佐するように命じたのである。

マキャベッリ像(ウッフィツィ美術館の回廊) 1525年という年は、イタリアへの覇権を争っていたスペインとフランスが激突し、フランスが大敗した年である。その後、敗者フランスと法王庁ほかイタリア各都市が手を結び、強大なスペインに対抗するという動きが出てくる。この対スペインの同盟の中核にあったのが、グッチャルディーニだった。
マキャベッリは、この重要な使命を帯びていたグッチャルディーニを補佐することになり、また、その後フィレンツェにおいても、市壁補強委員会の委員長に就任し、念願の政庁復帰を果たす。

しかし、マキャベッリという人はとことん運の悪い人なのか、この仕事は成果を挙げられずに終わっただけでなく、後には、彼にとって不幸な結果をももたらす。
スペイン・ドイツ連合軍がイタリアを荒らしまわっているというのに、クレメンス7世が講和にこだわり続け、グッチャルディーニが擁していた大軍は動かせないまま。そうこうしているうちに、1526年、暴走したドイツ軍団がローマを攻撃し、徹底的な破壊行為に及ぶ。結局、両者の全面的な決戦のないまま、クレメンスは降伏し、以後、イタリア全土がスペイン・ハプスブルグ家の影響下に入ることになった。

一方、クレメンス7世が敗北したことを受けて、フィレンツェはメディチ家をまたも追放し、実質的な共和政を取り戻す。
そして、反メディチの陰謀によって追放されていた「オルチェラーリの園」のメンバーもフィレンツェ復帰を果たす。マキャベッリにとっても、共和政権での政庁復帰のチャンス到来である。少なくとも、彼自身はそう期待していたのだろう。
ところが、彼が立候補した政庁書記の選挙の結果はさんざんだった。マキャベッリは、大差をもって落選してしまう。市壁補強委員会の委員長の職も失う。ちなみに、この仕事はあのミケランジェロが引き継ぐことになった。

マキャベッリの墓標 おそらくは、この落選結果はマキャベッリにとってかなりのショックだったろうと思う。かつて、反メディチの烙印を押され、政庁から追放された彼だが、今度はメディチに近すぎるという理由で落選させられたのである。
マキャベッリは、この落選の報を受けた直後に病に倒れた。そして、1527年6月22日、帰らぬ人となった。
彼の遺体はサンタ・クローチェ教会の墓地に埋葬された。この教会には、マキャベッリの立派な墓標が設えられている。

マキャベッリが58歳の生涯を閉じたその3年後、フィレンツェもまた、共和国としての歴史を閉じる。スペインを後ろ盾とするメディチがまたも復帰し、トスカーナ公国という君主国に衣替えすることになった。
自治都市が経済力を蓄えて王侯貴族に対抗し、市民たちが文化・芸術をリードするという時代は終わったのである。マキャベッリが夢見ていた古代ローマ共和政の理念の再興は、ここで封印された。

サンタ・クローチェ教会

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マキャベッリが息子グイードに宛てた最後の手紙が残っている。
山荘で飼っている騾馬が暴れるので困っているという息子からの相談に、返事を書いたものである。

「それを自由にしてやり…轡と端綱をはずし、自力で食べて狂気を取り除くために、行きたいところに行かせなさい。国は広く、その動物は小さい。何も害することもない。」

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