<第2章>

謎の10年間


古代ローマでは年齢が問題とされたことなど、ただの一度もなかった。
むしろ、つねに要求されたのは、老若をとわず備えていなければならない力量であった。「政略論」

サンタ・マリア・デル・フィオーレ マキャベッリの18才から29才までの経歴については、何も資料が残されておらず、謎のままだ。

18才までは父が残した覚書の資料がある。しかし、その後、彼が29才のときに突如フィレンツェ政庁の第2書記局長としてその名前が歴史に登場するまで、全く記録が残っていない。記録に載らないほど無名の存在だったのである。
一時、商会のローマ支店に勤務していたという資料が発見されたものの、すぐに同姓同名の別人であることが判明し、再び藪の中。
そんなわけで、彼の青春時代に関しては、いろんな人が勝手に想像していろんなことを言っている。サヴォナローラに傾倒していたのではないかとか、ホントは大学に行っていたのではないかとか…。

メディチ=リッカルディ宮 何しろ、大した家柄の出でもなく、大学も出ておらず、戦争で手柄を立てたわけでもない彼が、若干29才にしていきなりフィレンツェ政庁の第二書記局長に任命されたのである。他にも有力な候補者がいたのだが、国会の投票結果はマキャベッリが一位だった。
無名の若者が抜擢されたからには何かしら理由があるに違いない。だが、その理由の手がかりとなる経歴が全くわかっていない。謎の10年間なのである。

しかもこの時期、フィレンツェでは、世界史的事件が多発していた。あれこれと想像をかきたてる材料には事欠かない。
フィレンツェのルネッサンス文化が最も華やかだったのは、15世紀後半。ロレンツォ・デ・メディチが事実上の支配者として君臨していた頃のことである。ボッティチェルリが「春」を描き、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロのような天才が登場してきた時代だ。
ウッフィツィ美術館 ところが、ロレンツォが1492年に死ぬと、フィレンツェは迷走を始める。この頃には、メディチ銀行の倒産に象徴されるように、フィレンツェの経済は急激に力を失い始めていた。そして、1494年、フランス王シャルル8世によるイタリア侵入を契機に、イタリア全土が騒然とした雰囲気に包まれる。このとき、ピエロ・デ・メディチがフランス軍への対応を誤って失脚し、メディチ家は追放となった。
そして、修道士サヴォナローラの指導の下で共和政が復活する。華やかなフィレンツェの街は一変し、”虚栄の焼却”の炎の中に、人々は美術品や書物を投げ込んだ。しかし、神権政治を目指したサヴォナローラも、1498年、市民からの支持をたった一日で失い、火刑となってしまう。

そんな時代のただ中、マキャベッリは何をしていたのだろうか。
私も勝手な想像を言わせてもらうと、父ベルナルドの弁護士業を手伝っていたのではないかと思う。マキャベッリの著作には、法律家的なセンスが感じられる。それに、政庁書記という行政官の仕事は、法律学の知識がなければ、決してつとまらない。加えて、論理的な文章を書く技術、交渉技術といった実務能力が求められる。彼は、弁護士業を通じて、その高い能力をもって知られていたのではないかと思う。

サヴォナローラ火刑跡 マキャベッリが政庁書記として歴史にその名前が登場するのは、サヴォナローラの火刑の直後である。
マキャベッリは、ルネッサンスの最も華やかな時代と、サヴォナローラの禁欲的な神権政治の両方を青年期において経験したことになる。
順序が逆だったら、幸せな人生だったのかも知れない。けれど、マキャベッリは絶頂期から混乱へと向かうフィレンツェに生まれてしまった。


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