<第3章>

書記官マキャベッリ


君主よりは人民をはるかに信頼するにたる、と私は信じる。「政略論」

シニョーリア宮 マキャベッリがフィレンツェ共和国政庁の第二書記局長として働いていたのは、1498年から1512年まで。サヴォナローラ失脚後の共和政権で、重要な役割を果たす。

当時、小国分立状態だったイタリアは、ローマ教会、ヴェネチア共和国、フィレンツェ共和国、ミラノ公国、ナポリ王国が互いに勢力争いを繰り返していた。そして、イタリア諸国同士の戦争のため、フランス、スペイン、ドイツといった大国の軍隊を招き入れてしまい、イタリア全土に悲劇の時代がやってくる。イタリアは、これら大国の領土的野心の対象となり、大混乱に陥った。
イタリアルネッサンスは、一気に崩壊し、そして終焉へと突き進む。マキャベッリが書記官として働いたのは、そんな時代のただ中だった。

マキャベッリの仕事は、主として外交と軍事。
フィレンツェは独自の軍隊を持たなかったため、軍事力は傭兵に依存していた。これで絶え間ない戦争を乗り切っていたのである。しかし、傭兵とは戦争あっての商売である。戦争が終わると失業してしまう彼らは、勝ち負けのない馴れ合いの戦争しかやらない。その傭兵をとりまとめる傭兵隊長なる者が、これまたイタリアの小国の領主だったりするから、とても信用ならない連中である。雇い主の国を乗っ取りかねない。とはいえ、彼らに祖国の運命を託さざるを得ないのが当時のフィレンツェの実状だった。
外交はと言えば、フィレンツェは、サヴォナローラの時代から親フランス政策をとり、この大国の後ろ盾で他国からの攻撃をかわそうとする。しかし、フランスも、所詮はイタリアに領土的野心をもっている大国の一つでしかない。脅かされて大金を払わされるだけの同盟関係しか結べないのである。
百合の間 また、追放されていたメディチ家も復帰をねらい、フィレンツェ内部の支持者と通じつつ、共和政権に揺さぶりをかけてくる。
まさしく内憂外患。こうした困難な状況の下、祖国存亡をかけた外交と軍事に、マキャベリがあたるのである。小国の領主と傭兵契約を交渉し、フランス王やドイツ皇帝に謁見し、フィレンツェの立場を訴える。困難な使命を帯びての出張を繰り返す、東奔西走の毎日だった。

彼の職場だったシニョーリア宮(ベッキオ宮)は、今も当時と同じ外観を残している。
内部は、後のトスカーナ大公国時代に大改装されており、マキャベッリが使っていたであろう事務机などは残ってない。改装後の”百合の間”と呼ばれている場所に、当時の書記局があったと言われている。
この建物は、今も現役の役所として機能しており、ちょうど私が見学した土曜日には、結婚式が行われていた。

結婚式を終えたカップル マキャベッリは、「政略論」(ディスコルシ、ローマ史論)を読めばわかるように、古代ローマの共和政を理想と考えていた人である。フィレンツェの共和政の伝統を愛していた人でもある。後にフィレンツェに復帰し、再び独裁者となったメディチ家に対し、彼は、フィレンツェには共和政がふさわしいと意見してはばからなかった。筋金入りの共和主義者だったようだ。
けれど、マキャベッリは、この仕事を通じて、フィレンツェとイタリアが置かれている危機的状況を直視せざるを得なかった。この危機に直面し、マキャベッリは共和政の限界を見てしまったのかも知れない。
彼は、後の著作の中で、当時の指導者たちの優柔不断さを厳しく批判している。時間をかけて大勢の意見を採り入れ、利害を調整するやり方は、即時の対策実行を求められる危機管理の手法としては適さないことがある。日々押し寄せてくる危機に対し、当時のフィレンツェ共和政権は決断力を欠き、臨機応変の対応ができなかったのである。

シニョーリア宮・入口 彼の愛した共和政は、1512年、メディチ家の復帰によってあえなく崩壊してしまうことになる。マキャベッリによれば、当時の大統領ソデリーニが打つべき対策を怠った結果だったという。指導者の優柔不断が招いた、共和政権の崩壊だった。
そしてこの年から、マキャベッリ個人にとっても、悲劇と不遇の時代が始まった。


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