<第1章>

グッチャルディーニ通り18番地


わたしは、貧しく生まれた。だから、楽しむよりも先に、苦労することを覚えた。

グッチャルディーニ通り ニッコロ・マキャベッリは、1469年5月3日、フィレンツェに生まれた。

父は弁護士ベルナルド・マキャベッリ。マキャベッリの家族は、有名なベッキオ橋に近いグッチャルディーニ通り18番地の家に住んでいた。
この家は、第二次世界大戦中に破壊されるまで残っていたそうだが、今はない。現在、この場所は一階が陶器店、その上が住宅となっている。家の残骸の一部が、この場所に飾ってあって、マキャベッリの家があったことを示す金属製のパネルが貼ってある。
何と、こんな地味な場所ながら、日本から来た団体旅行客が観に来ていた。ガイドさんの説明ありである。まあ、ベッキオ橋からピッティ宮殿とのちょうど真中にあるため、移動中のちょっとしたオマケ観光といったところなのだろう。ちなみに、私はここの陶器店でおみやげを大分買った。

サンタンドレア・イン・ペル・クッシーナ マキャベッリの生まれた家は、今風に言えば少し裕福な中流家庭といったところだろうか。父ベルナルドは、弁護士ではあったが、その方面での収入はあまりなかったらしい。
”少し裕福な”と書いたのは、農園主でもあったことを考慮に入れてのこと。マキャベッリ家は、郊外のサンタンドレア・イン・ペル・クッシーナに所領をもっていて、農園で収穫したブドウでワインを造っていた。書物を買うときの代金として、ワインを書店に持ち込んでいたとか。
金持ちの街フィレンツェの市民としては、あまり冴えない感じではある。とはいえ、それなりに余裕のある生活ではなかったかと思う。当のご本人は、”貧しく生まれた”と書いておられるけれど。

陶器店 マキャベッリは、近くのサントリニタ橋あたりのラテン語の教師のところに通ったりしながら幼年期の教育を受けている。
しかし、その後大学へは入学していない。彼の著作には、ローマ時代の歴史を中心に膨大な古典知識が散りばめられており、また、ダンテ、ペトラルカといったルネッサンス文学への言及も数多い。学識において、他の人文主義者にひけをとらない彼だが、その学問の基礎は、大学教育によるものではないのである。
マキャベッリは、正式の教育によらず、父ベルナルドの蔵書を通じて、独学でほとんどの知識を吸収していたのだろう。父ベルナルドは、弁護士業に関わる法律学関係だけでなく、古典を中心とした広い分野の書籍を蒐集していた。
ルネッサンスは古代ギリシャ・ローマ時代の学問、芸術を復興した時代だと言われるが、ルネッサンスを根っこから支えたのは、当時の市民たちである。父ベルナルドは、当時まだ高価だった書籍を次々と買い集める。母もまた、詩作をたしなむ文学好きな女性だった。父母ともに、学問と文学に熱心なルネッサンス市民だったのである。

梁 こうした学問と文学を愛する家庭の雰囲気の中で、マキャベッリは育てられた。
彼自身もまた、やがてこの家で家庭をもち、この家で死んだ。

マキャベッリは、生涯を通して、まっとうな家庭生活を営んだ人でもある。あのルソーが、マキャベッリを「立派な市民であった」と書いているのは、そういう意味も込められているのかも知れない。ルソーの方はと言えば、貴婦人の愛人としてメシを食い、生まれた子どもを孤児院に入れ、とにかくハチャメチャな人生を送った人であった。


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