<第4章>

免職、投獄、追放


ジュリアーノよ、わたしは皮帯で脚を縛られ、六本の縄が肩に絡められている。

プラート 1512年、スペイン軍の後押しを受けたメディチ家は、18年ぶりにフィレンツェ復帰を果たす。
スペイン軍はフィレンツェ近郊プラートの街を攻撃し、これに呼応したフレンツェ市内のメディチ派が動いた。メディチ派の市民が政庁に押し掛け、大統領ソデリーニに政権委譲を迫る。ソデリーニは亡命し、共和政権が崩壊。こうしてメディチ派はフィレンツェ政権の掌握に成功する。
ロレンツォの残したメディチ3兄弟のうち、長男ピエロは追放中に死んでいた。ピエロの息子はまだ幼く、残された次男の枢機卿ジョバンニと、末弟のジュリアーノが共同統治にあたることになる。フィレンツェ市民は、このメディチ兄弟を歓呼をもって迎えたのだった。
そして、この政変によって、マキャベッリはフィレンツェ政庁書記の職を失うことになった。

バルジェッロ宮 さらにマキャベッリは、その後間もなく、人生最大の危機を経験することになる。
翌年の1513年、反メディチの陰謀に加担したとして、逮捕投獄されてしまうのである。証拠は、ある若者のポケットから落ちた紙切れ一枚。陰謀者の名簿に違いないというわけである。その紙切れにマキャベッリの名があった。
この紙は、反メディチの陰謀を計画していた者が、味方になってくれそうな人物名を書き連ねたものに過ぎなかった。だから、マキャベッリの逮捕は、明らかに冤罪だった。しかし、疑わしきをとりあえず罰し、怪しき者を処刑するのが当時のやり方。マキャベッリは、バルジェッロ宮の地下牢に放り込まれ、拷問を受ける羽目になった。

バルジェッロ宮地下のドア バルジェッロ宮は、現在、彫刻のコレクションを展示する美術館となっているが、当時はここが司法警察関係の役所だった。
マキャベッリが投獄されていた地下の部分は公開されていないが、あまり快適な場所でなかったことは容易に想像できる。光も通気もない部屋だったに違いない。

反メディチの陰謀の首謀者2名は、斬首刑となっている。マキャベッリも、事の成り行き次第ではやはり死罪の可能性があったと言える。
政変のたびに、有力市民の追放と処刑を繰り返してきたのがフィレンツェの歴史である。大統領ソデリーニが亡命したのは、明らかに生命の危険があったからだ。そしてマキャベッリは、ソデリーニの側近中の側近だった人物。それだけでも、マキャベッリは、メディチ家から疑惑の目で見られ、危害が加えられるおそれがあった。陰謀容疑は簡単には晴れなかったのである。

マキャベッリ像 この危機からマキャベッリが生還できたのは、メディチ家に起きた幸運のおかげだった。枢機卿ジョバンニ・デ・メディチが、法王(レオ10世)に選出されたのである。この慶事の大赦によって、マキャベッリは釈放される。
おかげで、1ヶ月程度の獄中生活で済んだ。

とは言え、政庁の職に復帰できるわけではない。しかも、収入が途絶えたうえに、第2書記局長時代の年収の10年分にも及ぶ罰金を課せられている。経済的危機が彼を襲う。
と、踏んだり蹴ったりの目に遭ったマキャベッリは、フレンツェから追われるようにして、近郊の山荘に引き籠もってしまう。サンタンドレア・イン・ペル・クッシーナという長い名前の村に、マキャベッリ家の山荘と農園があった。
ここから、マキャベッリの第2の人生が始まる。



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