最近行ったコンサート(1999年)

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イーヴォ・ポゴレリッチ(Ivo Pogorelich) ピアノリサイタル
(1999年11月20日、ノバホール)

曲目
ポロネーズ第4番
ポロネーズ第5番
ピアノソナタ第2番
マズルカ イ短調
マズルカ 変イ長調
マズルカ 嬰へ短調
ピアノソナタ第3番(以上すべてショパン Chopin 作曲)
私はD3のクソ忙しいはずの時に わざわざピアノを習いに行っていたにもかかわらず、 実はピアノに関する知識もあまりないし、 ピアノ独奏のCDも全所有CDの5%にも満たない有り様である。 それにもかかわらず、大阪のヨーヨー・マのコンサートから 中一日でわざわざつくばに戻って来たのは、 そんな貧しいピアノ経験の中でも、 ポゴレリッチのピアノにはかなり強い衝撃を受けたからである。

開演の30分前に開場だったのだが(もっと早く開けてほしかった)、 入ってみると、 「会場は暗くして演奏します」という掲示が出ていたり、 「まだホールには入れません」というアナウンスがあったりと、 いかにもピアニストらしい神経質さかい、と思わずにはいられなかった。 さらに、開演のブザーがなってもなかなかポゴレリッチが現れず、 周りでも「トラブルか?」という会話が出るといった異様な雰囲気であった (もちろん最後には現れたのだが)。

私は実は上に書いた通りショパンのCDもほとんどないので (ポゴレリッチが最近録音した ショパンのスケルツォのCDは持っているのだが、 今回のプログラムにはなかった)、 正直に言うと論評できるような立場ではない。 さらに告白すると、移動の疲れや寝不足のせいで、 半分寝かかっていた時もある。 それでも私がポゴレリッチのCDを聴いて受けた印象のうち、 「重層的な音の大伽藍」を楽しむことはできたのだが、 「一つ一つの音にこめられたすさまじい緊張感」 はCDの時ほどは強くは感じられなかった。

このようなコンサートとしては異例だと思うのだが、 アンコールは1曲も演奏されなかった。 それに、 挨拶に出てくるポゴレリッチの表情に 精気があまり感じられなかったことも考えると、 ひょっとしたらポゴレリッチはあまり調子がよくなかったのかもしれない。 あと、休憩の後と、コンサート終了時以外は、 曲が変わる時ですら拍手のできないような雰囲気であった。 ピアノのコンサートがすべてこのような作法ではないと思うのだが、 最初に書いた開演前のことも考えると、 やはりポゴレリッチはかなり神経質な人なんだろうか。

(1999年11月21日執筆)


ヨーヨー・マ 愛と幻想のタンゴ
(1999年11月18日、ザ・シンフォニーホール)

曲目
現実との3分間(Tres Minutos Con La Realidad)
ムムーキ(Mumuki)
カフェ1930(Cafe 1930)
ル・グラン・タンゴ(Le Grand Tango)
孤独(Soledad)
恐怖(Fear)
アディオス・ノニーノ(Adios Nonino)
3001年へのプレリュード(Preludio Para El Ano 3001)
チキリン・デ・バチン(Chiquilin De Bachin)
マティルデへの小さな歌(Pequena Gancion Para Matilde)
南に帰る(Vuelvo Al Sur)
リベルタンゴ(Libertango)
天使のミロンガ(Milonga Del Angel)
フガータ(Fugata)
スール、愛への帰還(Sur, Regreso Al Amor)
ミケランジェロ70(Michelangelo 70)
(以下アンコール)
オブリヴィオン
天使の死
私の死へのバラード(以上すべてアストル・ピアソラ Astor Piazzolla作曲)
演奏者
ヨーヨー・マ(Yo-yo Ma, Cello)
ネストル・マルコーニ(Nestor Marconi, Bandoneon)
キャサリン・ストット(Kathryn Stott, Piano)
フェルナンド・スアレス・パス(Frenando Suarez Paz, Violin)
オラシオ・マルビチーノ(Horacio Malvicino, Guitar)
フリア・センコ(Julia Zenko, Vocal)
パブロ・アスラン(Pablo Aslan, Bass)

いまつくばに住んでいるにもかかわらず、 さらにつくばの友人に「なんてミーハーな奴だ」と言われたにもかかわらず わざわざ大阪まで行ってこのコンサートを聴いたかというと、 名古屋に住んでいる時に (この時には11月に自分がつくばにいるなどとは全く予想していなかった)、 「チケットなんて取れんやろうな」 と思ってホールに電話したら、 あっさりと、しかもJ列20番というド真中の席が取れてしまったからである (今まで何度もシンフォニーホールに通って一度も取れなかった最上の席を 他人にあっさり売り払うのは、あまりにも惜しかった)。

実際このJ列20番という席に座ってみて、 視界を遮るものもない自分の真正面にアーティストが陣取る様に、 まるでホール全体が自分のためにあるような錯覚すら感じた。 この席に座れただけでも来た価値があったと思わずにいられなかった。

クレーメルのピアソラを聴いた時にも書いたが、 偉大な芸術は多様な解釈を許し、 その多様な解釈を吸収することでよりその偉大さを増すのである。 さらに、逆に再生芸術である音楽は、 偉大な解釈者が存在することが偉大な音楽たる必要条件と 言っても言い過ぎではない。 そういうことを踏まえると、 ピアソラはヨーヨー・マという、 その音楽自体は想定していなかったであろう (現にピアソラがチェロで演奏されることを想定して書いた曲は 多くはないはずである)傑出した解釈者を得て、 その偉大さをさらに増したのではないかと思えてならない。 逆にヨーヨー・マとピアソラによって、 チェロという楽器の可能性もさらに広がったと言えるのではないだろうか。 ヨーヨー・マという超一流の奏者の演奏を生で体験できたというだけでなく、 そのように音楽芸術の可能性を広げた現場を体験できたという点でも、 今日のコンサートに行けたのは非常に好運だったと思う。

現に、ピアソラは非常に切々とした哀感の漂う旋律を多く書いている。 それはヨーヨー・マの手にかかると、 チェロで演奏されるのを待っていたかのような感じすら抱かせるくらい、 チェロという楽器にぴったりの旋律なのである。 「ムムーキ」や「天使のミロンガ」などはまさにそのような 印象を抱かせる演奏であった。 またヨーヨー・マは時には演奏が楽しくて仕方がないというような 余裕を見せる時もあれば (そういう時も一瞬の弛緩もないのがすごいところなのだが)、 チェロの限界を極めるかのような鬼気迫るような表情を浮かべることもあった。 特に「ル・グラン・タンゴ」 (ちなみに、この曲は実際にチェロのために書かれた曲である) をすさまじい緊張感をはらんで演奏するヨーヨー・マの姿は、 神々しいとしか言いようがなかった。

さらにヨーヨー・マは自分で、しかも日本語でMCをやっていた。 クレーメルの時も思ったのだが、 超一流のアーティストは超一流のエンターテイナーでもあるということを 改めて認識させられた。

あと、 このコンサートはヨーヨー・マが主役ということになっているが、 他の奏者も非常に高いレベルの人たちばかりであった。 特にピアノのキャサリン・ストットは、 高い技術に裏打ちされた非常に薫り高い演奏をしていた (何でも、去年もヨーヨー・マは彼女と一緒に演奏会をしたそうだ。 それを知って、去年聴きに行かなかったことを非常に後悔した)。 あと、ボーカルのフリア・センコも、聴くものをとらえて離さない 痛切な歌唱が非常に印象的であった。

このコンサートも完全にアコースティックではなく、 スピーカーが使われていたのだが、 前の小松亮太の時 と違ってほとんど違和感が感じられなかった。 たぶん席がド真中というのがよかったのだと思う。

それでも不満がないわけではなかった。それは「リベルタンゴ」。 サントリーのCMでも演奏され、 クラシックを知らない人にもヨーヨー・マを認知させる きっかけになった曲でもあるが、 オリジナルのこの曲は非常に魅力的なピアノソロで始まるにもかかわらず、 ヨーヨー・マが演奏するバージョンではなぜかカットされているのである。 それはCDだけのことだろうと思っていたのだが、 今日のコンサートでもカットされていた。 他のすべての曲では、チェロの魅力を存分に発揮する、 しかも原曲の魅力を損なうことのないいい編曲がなされているだけに 非常に残念であった (ちなみにプログラムでは編曲者に関する言及は一切 (名前の記述すら)なされていなかった。これは編曲者に対して失礼だと思う)。

ない国語力と語彙を絞り出して上のように色々書いたけれど、 実際のコンサートでは、「あんたほんとにすごいよ」 という全くもってprimitiveな言葉しか出てこないほど 圧倒されたということを述べて、この文章の締めにしたい。

(1999年11月18,20,21日執筆)


ベルリンフィルヴィルトゥオーゾ
(1999年11月10日、ノバホール)

曲目
モーツァルト セレナード第13番「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
モーツァルト 交響曲第29番
モーツァルト ディヴェルティメント第11番
チャイコフスキー 弦楽セレナード
つくばに来て初めてのコンサート。 つくばにいる数少ない友達が誘ってくれたこともあるのだが、 ベルリンフィルのメンバーによる弦楽のアンサンブルなら 確実に楽しめるだろうと思って行くことにした。

ベルリンフィルは何度か生で聴いたことがあるのだが、 弦楽のセクションは (聴いたのがほとんどマーラーだったからというのもあるかもしれないが) 厳格にコントロールされた非常に硬質なものという印象が強かった。 しかし今回の弦楽アンサンブルは 非常に柔らかい音で、何か余裕のようなものすら感じさせる響きであった。 正直言ってかなり肩すかしだったのだが、 冷静に考えてみれば、 モーツァルトをそんなバリバリの緊張感で演奏しても 仕方がないということなのかもしれない。 チャイコフスキーはまだ かなり張りつめた解釈も許す曲だとは思うが、 そのような緊張とは無縁な、 かなり余裕を感じさせる演奏であった (実はアンコールはチャイコフスキーの第2楽章がもう一度演奏されたのだが、 アンコールの方がよりきびきびしたメリハリのある演奏に思われた。 ひょっとしたら意図的に解釈を変えたのかもしれない)。

聴くことに自然と緊張を強いられるような演奏ではなかったので、 聴きながらいろいろなことを考えてしまったのだが、 特に考えたのが「音楽を楽しむ環境としてのつくば」 「一流の演奏者がモーツァルトを演奏する意味」である。 まず前者。ここにはこのコンサートの会場でもある 「ノバホール」といういいホールがあるのだが、 当然来るアーティストも限られるし、 何より演奏される曲目もメジャーなものに限られてしまう。 コンサートの機会が少ないと、 どうしても曲目も最大公約数的なものになってしまうからである。 最近はどメジャーな作曲家の曲をあまり聴かなくなってしまっている 私としては非常に辛いものがある(つくばでウェーベルンなんて聴けるのか?)。

それから後者。 音楽界もユニバーサル化が進み、 演奏に「独特の薫り」 といったものを求める傾向がそれほど強くない現代においては、 超一流の演奏家は、 その持てる技術を発揮するべく、 高い技術を要求するような曲を演奏すべきだというのが私の持論である。 「解釈」や「読み」はCDなどの再生技術である程度共有することはできても、 「音」自体が高い技術に裏打ちされているかどうかは やはり生でしかわからないからである (例えば、ベルリンフィルがその「技術」という意味で どれだけすさまじくレベルの高いオケであるかは 生で聴かないと絶対にわからないと私は堅く信じている)。 もっと単刀直入に言えば、 そのような高い技術を持つ演奏家は もっと(高い技術を要求する)近現代寄りの曲を演奏してほしいのである。 その方が 「こいつはすごい」ということがよくわかるからである。 そういう点では、今回のコンサートは正直満足できなかったし (繰り返すが、演奏自体が悪かったからではなく、 演奏家としてのすごさが容易にわかる選曲でなかったからである)、 そういう意味で満足のいくコンサートは、 これからつくばではなかなか巡り合えないのではないかと思うと 辛いものがある。

(1999年11月13日執筆)


サマープロジェクト
(1999年7月20日、ザ・シンフォニーホール)

ヴァイオリン
古澤巌
ギターデュオ
アサド兄弟(セルジオ&オダイル・アサド)

会場は補助席まで出る満員で、古澤巌の人気の高さを示していたのだが、 祝日の昼ということもあってか、 客層が普通私が行くコンサート(主に暇のある若者と金のあるおっちゃん) と違い、やたらにおばちゃんが多いのがまず目についた。

曲目は映画音楽をアレンジしたもの(これは最近CDになっている) とピアソラの音楽が中心になっていた。 古澤巌を生で聴くのは今回が初めてなのだが、 CMなどで聴いている音と幅広い活動から来るイメージとして、 かなり鋭い音を出す人だと思っていたのだが、 実際に聴いてみると、 それとは全く正反対の非常にやわらかくふくよかな音を奏でているのが 非常に印象的であった (ピアソラの音楽では、 もっと鋭い音を出してほしいと思わないでもなかったが)。 それから、 当代最高の評価を不動としているアサド兄弟のギターデュオも、 まるで一人で弾いているように思われる完璧な合奏と、 その非常に繊細な音色には形容の言葉もないほどであった。

古澤には悪いが、当日の白媚はやはりピアソラがアサド兄弟に捧げた 「タンゴ組曲」であろう。 素人でもその難しさがわかるくらいの超絶技巧を要するこの曲を 完璧に、情感豊かに演奏していた。 あと、兄のセルジオ・アサドが作曲した、「夏の庭」のための曲も、 涼風が吹き抜けるような非常にやわらかで繊細な曲であった。 他にも 「ピアノレッスン」 のための曲もギターの特質を見事に生かした曲に仕上がっていた (この曲もギターデュオのみのために編曲されていた)。 ただ、私は映画にそれほど詳しくない上に、 かなり古い映画で使われていた曲が多く、 自分の知らない曲がほとんどだったので、 CDを買って予習しておいた方がよかったかとかなり後悔した。

あと、2、3曲演奏するたびに古澤のトークが入るのは、 普段クラシックのコンサートに行くことの多い身には新鮮であった。 一番面白かったのは、3人で京都観光をしていた時に、 自分たちが音楽家だと行ったらタクシーの運ちゃんに 「どこのクラブでですか?」と聞かれたという話であった。

このコンサートは、どちらかというと古澤よりもアサド兄弟が 目当てだったのだが、 それはまだ京都にいた時に ある助手の人がアサド兄弟のことを非常に高く評価していたのを 聞いていたからである。 このコンサートに行って、 その助手の人に改めて感謝したとともに、 「福田が言うのなら間違いないだろう」 と人に言ってもらえるくらいに、 自分も芸術に対するセンスを磨きたいと思った。

(1999年7月23日執筆)


名古屋フィルハーモニー交響楽団定期演奏会
(1999年6月17日、名古屋市民会舘)

曲目
R.シュトラウス 13管楽器のためのセレナード
シェーンベルク 「浄夜」
マーラー 交響曲第4番
とりあえず、名古屋に来たのなら一回は名古屋のオケも聴いておこうと 思って、今回のコンサートに行った次第。 私がマーラーをこよなく愛していることは 私と少しでも関わりを持っている人ならよく知っていると思うのだが、 今回の目当てはマーラーでなく、 (少なくとも私が知る範囲では) なかなか聴くことのできないシェーンベルクの「浄夜」。 この曲を知らない人のために簡単に解説しておくと、 女が恋人に他人の子どもを身籠ったという告白をするも、 最後に浄化されるという、なかなかぶっとんだ内容の リヒャルト・デーメルの同名の詩にinspireされて作曲された、 弦楽合奏(オリジナルは弦楽六重奏のための曲で、 作曲者自身によって後で編曲された)のための曲。 シェーンベルクが12音音楽に走る前の、 詩の内容そのままのドロドロの後期ロマン派の曲である。

なかなか聴けん曲が聴けるという過剰な期待を抱いていたせいか、 「浄夜」についてはどうも納得できんものがあった。 決して下手というわけではないのだが、 どうもこう、切れば血が吹き出るような壮絶な緊張感というものが 感じられないのだ。 日本のオケというのは、 どうしてこう技術とは別のレベルの、 表現力というところで弱いのかと改めて思わずにはいられなかった。

逆にそんな風に全く期待せずに聴いたせいか、 マーラーについては健闘してるように思われた。 さすがに高いレベルの緊張感は感じられなかったが、 結構な水準には達していたと思う。

私は普段コンサートでは一番高い席に座ることにしているのだが、 今回は金を惜しんで3階席に行ったところ、 ステージがあまりに低いところにあって、 この選択を後悔せずにはいられなかった。 しかもこの3階席はがらがらで、 「こんなんで運営大丈夫なんか?」と要らぬ心配をしてしまったのだが、 1階席はかなり埋まっていたし、 パンフレットに載っている定期会員、賛助会員の数が 京響や大阪フィルよりはるかに多いのには驚かされた。 実は名古屋は文化に対する意識が他の街より強いのだろうか。

(1999年6月19日執筆、2000年11月5日一部加筆)


エマーソン弦楽四重奏団
(1999年5月27日、愛知県芸術劇場コンサートホール)

曲目
ベートーベン 弦楽四重奏曲第11番「セリオーソ」
ショスタコービッチ 弦楽四重奏曲第3番
シューベルト 弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」

それにしても、 プログラムが何で1000円もするのよん。 世界に冠たるアルバン・ベルクQのプログラムでも500円やったっちゅうのに (いやまあ、エマーソンSQも世界に冠たるカルテットなのだが)。

このコンサートホールは初めて来るのだが、 何で2階席なのにS席なのよとブー垂れながら行ったら、 私の席は1階席より50cmくらい高いだけで、 しかも(端の方だったが)ステージのどまん前であった。 このホールなんか構造が変。

今まで弦楽四重奏団のコンサートは何回か行ったことはあるのだが、 いつも(たとえアルバン・ベルクQのコンサートでさえ) どうも音が薄いような感じを禁じ得なかった。 CDでは厚い音に聴こえても、 所詮4つしか楽器はないのだから、 生演奏では オーケストラのような分厚い音を期待する方が無理なんだよなと思いながら このコンサートに臨んだのだが、 今日は違った。 生演奏でも、4つしか楽器がなくても、 非常に厚みのある音が出すこのカルテットの技量にはつくづく感心させられた。 特にチェロの低音が非常にしっかりした印象を与えていた。

ベートーベンとショスタコービッチは聞いたことのない (少なくとも覚えのない)曲であったが、 2曲とも強い緊張感に貫かれた名曲であったし、 演奏も十二分に満足ができるものであった。 特に、ベートーベンの弦楽四重奏曲は 何度CDで聞いてもピンと来ないことが多かったので、 新たな認識を与えてくれる演奏であった。 ショスタコービッチも、彼にしか書けないironyに満ちた曲であった。

私の目当てだったのは「死と乙女」。 この曲は全楽章が短調で書かれている異常な緊迫感に貫かれた名曲で、 弦楽四重奏曲の中でも(少なくとも自分の中では)特異な地位を占めている。 その自分にとっても思い入れの強い曲が どう演奏されるのか非常に楽しみだったのだが、 エマーソンSQ(前2曲と違って、1st vn. と 2nd vn. が入れ替わっていた) は一瞬の弛緩もなく、がっちりと、普遍的なスタイルのもとに この曲を提示していた。 もちろん高い評価を得られるべき演奏であったと思うし、 いちゃもんをつける必要は全くないのだが、 最近のクラシックの演奏の風潮として、彼らに限らず、 普遍性を第一に考える演奏が多いよなと改めて認識させられた。 昔の演奏家は逆に独特の間やテンポの取り方を主張し、 それが強烈な個性として説得力を持つということが多かったように思う。 しかしこうした演奏はどうしても「当たり外れ」がありうるわけで、 最近はそういう強烈な個性の主張をしないで、 普遍的な評価を得ることを主眼とした演奏が多い。 もちろんこれも立派な立場の1つで、 私も最近はこういった演奏を好む傾向が強いが、 どこか強烈な個性を主張する演奏家が出てきて、 今までにない斬新な解釈を示してほしいということもやっぱり思うのである。

アンコールはベートーベンの弦楽四重奏曲第13番からプレスト、それから ウェーベルンの弦楽四重奏のための5つの楽章op. 5 から第3楽章。 どちらも他の曲と同様強い緊張感に満ちた演奏であったし、 ウェーベルンをやってくれるあたりはさすがと思わずにはいられなかった。

(1999年5月27日執筆)


大府市楽友協会管弦楽団 第10回定期演奏会
(1999年5月16日、大府市勤労文化会舘)

曲目
ニコライ 歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲
グリーグ 「ペール・ギュント」第1組曲
チャイコフスキー 交響曲第4番
指揮
吉住 典洋

名古屋に来てから初めて足を運ぶコンサートであり、 さらに今年になってから初めてのオーケストラのコンサートである。 前に聴いたオーケストラがベルリンフィル であったので、 どうしてもあら探しをしながら聴いてしまう自分が少し悲しかった。 金管楽器はアマチュアオケにしてはかなり健闘していると思ったのだが、 弦楽器がどうも合っていないのが非常に気になった。 何か旋律を奏でるときに妙なうなりのようなものが聴こえるのだ。 もちろんアマチュアオケは合奏の精度がどうとかいうよりも、 アマチュアの人たちへの演奏の機会の提供という 役割も非常に大きいのだろうから、 こういう論評は本当はまずいのだろうが。

それから、印象に残ったのはオーボエの女性奏者が非常に格好良かったこと。 楽器を演奏する女の人は、 特にその真剣な目がいいといつも思わされますね。

(1999年5月16日執筆)


ギドン・クレーメル&クレメラータ・バルティカ (1999年2月15日、ザ・シンフォニーホール)

曲目
シュニトケ 合奏協奏曲第1番
ヴィヴァルディ ヴァイオリン協奏曲集「四季」
ピアソラ(デシャトニコフ編曲) ブエノスアイレスの四季
独奏者
ギドン・クレーメル(Vn.)
タチアナ・グリンデンコ(Vn. シュニトケ)
弦楽合奏
クレメラータ・バルティカ
日記で何回かピアソラに言及したことがあるが、 私がピアソラを知ったきっかけはクレーメルが演奏したCD 「ピアソラへのオマージュ」がきっかけであった。 しかしこのCDは私には全くピンと来ず、 ピアソラを再発見したきっかけはNHK教育でのピアソラ特集であった。 その後ピアソラ本人の演奏するCDなどを買ったりして、 クレーメルのCDを聞き直すと、はっきり言ってクレーメルへの評価はかなり下がった。 それでも今回のコンサートに行ったのは、 やっぱりそれでもクレーメルを「見たかった」からである。 そしてこれから述べるように、 クレーメルとその仲間たちは、 私の想像をはるかに凌駕する才能を私の眼前に突き付けてきたのである。

最初のシュニトケは、 本当はストラヴィンスキーの曲を演奏する予定が変更になったもの。 この曲はCDを持っていて少しは知っていたのだが、改めて聞いてみても、 俗っぽくてわかりやすい旋律と、 すさまじい緊張感に満ちた不協和音が入り乱れるわけのわからない曲であった。 クレーメルはここでは、 どちらかと言えばもう1人の独奏者グリンデンコをサポートするような感じで 演奏していた。 グリンデンコはクレーメル以上に一瞬の弛緩もない見事な演奏をしていた。 この曲を聞いて、音楽とは「対話」なのだと改めて認識させられた。 あと謎だったのがプリペアドピアノ。 ピアノの弦にコインなどをはさんで細工をしたものらしいが、 どうやったらブリキの缶を叩いたような音が出るのか非常に不思議であった。 シュニトケの後、 クレーメルとグリンデンコはアンコールに答えていた。

後半はヴィヴァルディとピアソラ。 2つの「四季」をテーマにした曲を交互に演奏するという (ヴィヴァルディ「春」、ピアソラ「夏」、ヴィヴァルディ「夏」、、、 ピアソラ「春」)、 クレーメル以外には誰も思いつきそうにない奇抜なアイデアの元に演奏されていた。 プログラムにも書いていたのだが、 ヴィヴァルディは普通の演奏とは、 装飾音符やチェンバロの扱いなどがかなり異なるものであった。 驚いたのは、 普通は雪がしんしんと降るように演奏される「冬」の第2楽章が、 倍くらいの速さで演奏されていたこと。 でもこれはこれで解釈としてありなような気もする。 やはりクレーメルが普通にヴィヴァルディの「四季」を演奏するはずがないのだ (クレーメル許すまじと思ってた人もいたとは思うが)。

ピアソラは、もともと5重奏 (バンドネオン、ヴァイオリン、ギター、ピアノ、ベース) のための曲をヴァイオリン+弦楽合奏用に編曲しただけに さすがに最初は違和感があり、 なんか久石譲の曲を聞いてるような感じがする時すらあった。 しかし、オリジナルのことを考えず、 もともとヴァイオリン+弦楽合奏のための曲と考えたら かなりよくできた曲だと考えを直した (これに関しては完全に意見の分かれるところであろうが)。 完全にやられたと思ったのが、「夏」 でカデンツァ風にヴィヴァルディの「冬」が聞こえてきたこと。 後でプログラムを見てみたら「ヴェネチアとブエノスアイレスの季節の違いから 夏−冬の対応がつく」とあって、一本取られた感じ。 「春」の最後でも、チェンバロでヴィヴァルディの「春」がリフレインしていた。 こういうことなら、 ヴィヴァルディとピアソラを交互にやるということとの統一が 完全に取れていることになる。

先に書いたことの繰り返しになるが、 クレーメルの流儀でピアソラを演奏することや、 ヴァイオリン+弦楽合奏に編曲したりすることに強い反発を覚える人もいるとは思う (実際一番最初に書いたように、私もクレーメルのCDは評価できなかった)。 しかし、 「多様な解釈を許容する」という、 偉大な芸術なら必ず持っている性質を確かにピアソラの曲が持っているという点では、 やはりここはまずピアソラを高く評価するべきであろう (もちろん、ヴィヴァルディもそうである)。 さらに、そういうピアソラ/ヴィヴァルディを評価した上で、 自分の解釈を世に問うたクレーメルを、 私はこのコンサートを聴いた後では高く評価したいと思った。

「四季」が終った後の聴衆の拍手はすさまじく、 アンコールは2曲。 しかもクレーメルは、アンコール曲をメモを見ながら日本語で説明していた。 1曲目はアレキサンダー・バクシ(私も初めて聞いた名前)の 「返事のない電話」。 弦楽合奏と携帯電話(の電子音)のための曲というすごい取り合わせ。 クレーメルが携帯電話を耳に当てながら舞台を歩き回ったり、 コントラバス奏者が楽器を置いて電話を取り出したりと、 視覚的にも楽しめる曲であった。 作曲者はコンサートで鳴る携帯電話に怒ってこの曲を書いたのかと考えてしまったが、 真意はわからない。 2曲目は、クレメラータ・バルティカの誕生日を祝ってとのことで (「作曲依頼のために、ハイドンに手紙を書いて、 ベートーベンにFAXを送って、、、」 などとすごいことをクレーメルは言っていた)、 Happy Birthday の主題による変奏曲(とでも言えばいいのかな)。 これもウィンナワルツ風、ベートーベン風とかなり楽しめた。 しかも最後は有名なブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」のパロディで、 客席大笑い状態であった。

アンコールの後も、客席は総立ちですごい興奮状態であった。 それに答えてか、なんと3曲目のアンコール。 さすがにクレーメルもカンペを用意してなかったのか、 いきなりピアソラの「エスクアーロ(鮫)」の演奏を始めた。 これは私のかなり好きな曲の1つなので非常に嬉しかった。 しかも、足踏みでリズムを取ったり、 くるっとチェロを回したりと芸も細かく、 演奏とともに視覚的にも存分に楽しませてもらった。

日本語でのアンコール曲の紹介といい、 クレーメルがここまでエンターテイナーだとは思わなかった。 超一流のアーティストの余裕なのだろうかと思わずにはいられなかった。 このコンサートのチケットの値段は咋秋のベルリンフィルの1/4であったのだが、 ベルリンフィルの4倍以上楽しませてもらった。

(1999年2月15,16日執筆)


最近行ったコンサート
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