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 ことばをめぐるひとりごと  その36

すむと濁る

 濁点が付くか付かないかで文章の意味が変わってしまう、という話です。
 井上ひさし氏は『巷談辞典』(文藝春秋、1981)で、次のようなざれ歌を書いています。

世の中は澄むと濁るで大ちがい
人は茶をのみ 蛇は人をのむ
世の中は澄むと濁るで大ちがい
福は徳なり 河豚は毒なり
世の中は澄むと濁るで大ちがい
刷毛に毛があり 禿に毛はなし
世の中は澄むと濁るで大ちがい
墓におまいり 馬鹿はおまえだ〔後略

 井上氏の歌は、一部は創作でしょうが、おおかたは古い文句を踏まえているのでしょう。「世の中はすむと濁るの違ひにて 刷毛に毛があり禿に毛がなし」とも言うようです。「墓におまいり 馬鹿はおまえだ」というのはやや苦しく、「墓は霊殿 馬鹿は零点」とでもしたほうがいいのではないかと思いますがね。
 岡島昭浩氏にご教示いただいた『文字と鬪ふ』(大阪毎日新聞社校正部編、1940)に次のような話が載っています。

 むかし、武田方から上杉方へ
  松枯れて竹たぐひなきあしたかな
といふ句を贈つたら
  松枯れで竹だくびなきあしたかな
と、濁点を打ちかへて返答したといふ話がある。

 「松枯れて」が「松枯れで(枯れないで)」、「竹類いなき」が「武田首なき」などと、濁点を打つことで意味が反対になっています。もっとも、異伝では、贈った句が「杉枯れて」となっているものもあり、上杉を指すとすればこちらのほうが通りがいいようだ。「松枯れて」の句は、武田が徳川家康(松平だから)に贈ったのだという話もあり、やや混乱気味です。
 同じ本には「のどかなる林にかゝるお庭松」を、「のどが鳴る早死にかゝる鬼は待つ」と読んで気をわるくした話も載っています。似たような話は、十返舎一九の『続膝栗毛』(六上)にもあって、「のどかなる霞ぞ野べの匂なり」を「咽が鳴る粕味噌の屁の匂なり」と読んでしまうのです。
 国語学者の佐伯梅友は、昭和24年に東京文理科大学の卒業生の謝恩会で酔いつぶれ、そのまま部屋で寒い一夜を過ごしました。そのとき、

百伝ふ五十を過ぎてうつつなく酒につぶれてあるべきものか

という歌を詠みました。「五十歳を過ぎて、正体なく酒につぶれていていいものだろうか」という意味です。ところが、これを脇から見た人が「『つぶれて』の『て』は濁るべし」と言った。つまり「酒につぶれあるべきものか」(酒に酔いつぶれずにいられようか)となり、そのほうが先生にふさわしいだろう、という冗談です(『佐伯博士古稀記念国語学論集』1969、p.730)。
 こういった「て←→で」のいたずらには、古典を読む際にときどき悩まされます。岩波文庫で今度復刊された『沙石集』(鎌倉時代)には、次のようなエピソードがあります(第七・嫉妬の心無き人の事、下巻 p.34)。
 ある男が妻を離縁しようとした。妻が実家に帰る日、雨が降っていたので、夫は「今日は雨だからここにいなさい」と声を掛けた。しかし妻は、

ふらばふれふらずばふらずふらばとてぬれてゆくべき袖ならばこそ

と詠んだというんですね。夫はこの歌に感激して離縁をやめたとあるのですが、さて、この歌の意味が分からない。
 そのまま読めば、「雨が降るなら降ればいい、降らなければそれでも良い、雨が降ったからといって、もともと袖を濡らしてゆくはずの旅でもないから」とでもなりましょうか。いったい、何が言いたいのか。
 いろいろ考えた末に、「これはもしや、『ぬれゆくべき』とすべきではないか」と気が付きました。そうすると、「雨が降ってもかまいません。どうせ、もともと涙で袖を濡らさずにゆけるはずの旅でもないから」となって、意味が通るのです。校訂者が参照した板本に濁点が打ってあったかどうか知りませんが、岩波文庫にするときには、きちんと濁点を打つべきでした。
 じつは江戸時代初期の『醒睡笑』にも似た話があって(巻之五、岩波文庫 p.352)、そこでは

降らばふれ曇らば曇れ照るとても濡らさで行かん袖ならばこそ

とあり、いっそう意味がよく分かります。「もし晴れていても、涙で袖を濡らさずにゆけるわけでもないから」となります。『醒睡笑』の作者は、元の分かりにくい歌を、分かりやすいように改作したのかもしれません。
 なお、「て・で」については岡島昭浩氏のこのご文章に啓発されました。

(1998.03.14)


追記 「日国.NET」の「小林祥次郎の 発掘日本のことば遊び」第11回、「名歌のパロディ」にも豊富な例があります。「松枯れて」の話は『要篋辨志』に載っているとのことで、ただ脱帽のほかありません。この文章に紹介されている清濁が問題になる文句の例を列挙します(問題箇所を太字で示します)。詳細はもとの文章をご参照ください。
 ・庭の雪に我が跡付け出でけるを 飛れにけりと人や言ふらむ(『新撰狂歌集』1629以後)
 ・我が心慰めかねつ更級や 姨捨山に照る月を見(小山田与清『擁書漫筆』1816、および、大田南畝『一話一言』五 天明2〔1782〕以前)
 ・さかうのはなにきてなけほととぎす(『塵塚物語』一 1552)
 ・松枯れ竹類(たぐひ)なき朝(あした)かな(『要篋辨志』1806序)
 ・松風にたけたぐひなき朝かな(『甲陽軍鑑』17世紀初)
 ・まづ類ひなき朝かな(『鹿の巻筆』三 1686)
 ・長閑(のど)なる囃子にかかる松右衛門(『けらわらひ』上 1680)
 ・咽(のど)鳴る粕味の匂ひなり(『続膝栗毛』六上〔1810-22〕)
 ・ただいまもちをまきかけて候へば まきはて候ひてまゐり候ふべし(『古今著聞集』1254)
 ・「かねこめすりや」(『きのふはけふの物語』上〔1614-24頃〕)
 ・「大ふへん者」(『常山紀談』一六 1804-30頃)

 また、清濁ではなく句読点が問題になるものとして、
 ・ふたへにまげてくびにかけるやうなじゅず(薄田泣菫『茶話』大正六年一一月二七日)
 この最後のものについては、岡島昭浩氏により、早く岸上操『内外古今/逸話文庫 第五編』博文館(明治27)、高島平三郎『逸話の泉』(大正4)に載っていることが報告されています。(2003.12.24)

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