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 ことばをめぐるひとりごと  その22

「ユリシーズ」の訳を検証する

 丸谷才一氏らが翻訳したジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』が昨年、集英社から刊行されました。これは旧版の河出書房版(1964年)の改訳で、好評を博しています。この第II巻に含まれる「太陽神の牛」は、原文がイギリス古典文学のパロディなので、日本語訳も日本の古典の文体を下敷きにしているということで、新聞などで称賛をもって迎えられました。旧版のときももちろん話題になっています。
 この「太陽神の牛」は丸谷氏が訳したわけですが、確かに、彼以外の訳者にはこのような至芸は不可能だと思います。何しろ、古代英語ふうの個所は日本の「祝詞」や『古事記』の文体で訳し、マロリーは『源氏物語』、エリザベス朝散文は『平家物語』ふうに訳す、というのです。イギリス文学・日本文学の両方に通暁していなければならないわけです。「太陽神の牛」を訳すためには、丸谷氏ほどの適任者は、将来100年は出ないのではないでしょうか。
 しかし、さしもの丸谷氏も、純粋に語学的に検証してみれば、必ずしも日本の古典として自然な文体で訳しているとは言い切れない部分があります。それは原文のジョイスだって、イギリス古典に忠実かどうか分からないし、パロディだからある程度はご愛敬なんですが、やはり気になるのは仕方がない。
 つや消しな試みかもしれませんが、以下、『源氏物語』ふうに訳した個所を例にとって、おかしな所を指摘してみましょう。
 まず、この訳では意味が通らないところの例を挙げます。たくさんありますが今は一例だけ。たとえば「産婦が上にいて、もうすぐ子どもが産まれますから」という個所で、

女君、うへにありて、産{わざ}も早せちなれば

と丸谷氏は訳していますが、これは変だ。「わざ」というと、普通は仏教の行事を連想するのです。「せちなれば」は、丸谷氏は「間もないので」という意味で使ってるのでしょうが、今で言えば「切実なので」というような意味だから、ちょっと違う。実際の『源氏物語』をみると、こういう出産の場面では「ほどなく生まれたまひぬ」(葵)などと言っていますから、これを応用すれば、「ほどなく生まれぬべければ」とでもしたほうが自然でしょう。
 『源氏物語』は平安時代の宮廷女性のことばで書かれているはずですが、それにしては、丸谷氏の訳には、奈良時代のことばや後世のことば、男性の漢文系のことばが多く出てくるのですね。たとえば、

「いま生{あ}れしにや。あまりてなどか久しうこそ思はゆれ」など、あやしび給ふ。

という部分。「生{あ}る」は『万葉集』などによく出てくることばですが、ちょっと古いので、平安時代には「生{う}まれしにや」で問題がないでしょう。「思はゆれ」も奈良時代のことばですね。「おぼゆれ」と直したいところ。
 あるいは、

またこなたは年長{かみ}にておはすれば、いとねもごろに聞え給ふ。

の「ねもごろ」。これも何回か出てきます。『万葉集』では「ねもころ」ですが、平安時代ならば「ねんごろ」でいいと思います。
 そのほか、

・神の御いつくしびにより出産{わざ}をすませ

・「いさ、飲まむ」とて、たぶやかに〔杯を〕参り給ふ。

・上なく優におだひかなる方におはし、


などはそれぞれ、「御うつくしみ」、「いざ……あまたたび参り給ふ」、「ことに心にくく重りかにおはしまして」ぐらいに訳すといいのではないでしょうか。
 このように一行一行考察してゆくと、とてもこのコラムでは収まりませんから、これでやめておきます。最後に、丸谷氏がどうも勘違いしているらしい語法を一つだけ指摘しておきましょう。それは助動詞「べし」の使い方です。これが「べう」の形で何回か出てきます。

産婦{うぶめ}と子のいづれをわきに〔旧版は「わきて」〕救ふべうにやの品さだめ、おのおのし給ふを

われらが夜な夜な、勢ひなきものになし果つる、神の御力にて勢ひあるべう魂はいかに。

汝、男{をのこ}のなすべうことなべてなすは、人みなの承{う}くるところ

 これは誤りといえます。「べう=べく」はいわゆる連用形ですから、「魂」や「こと」といった名詞に続くはずがない。それぞれ、「べき」または音便形の「べい」(「べいこと」の形でよく使う)でなくてはおかしいのです。
 助動詞の接続のしかたは、高校生でもよく勉強しているはずですが、なぜ丸谷氏がこういう勘違いをしたのでしょうか。上手の手から水が漏れたというべきでしょうか。

(1997.03.14)

関連文章=「小砂眼入調とは

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