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 ことばをめぐるひとりごと  その7

恐ろしくてやさしい人

 石坂洋次郎の『青い山脈』は、映画にもなった戦後の人気小説ですが、その中に、こういう一節が出てきます。ヒロイン新子のまま母を描写したところです。

継母は物腰から言葉つきから、恐ろしくやさしい、昔風のおとなしいタイプの婦人で、新子とはまるで姉妹のような態度で接している。

 まま母の物腰やことばつきが、どうだといっているのでしょう?「恐ろしく」「やさしい」とありますが、この女性は、恐ろしい女性で、しかもやさしい女性なのでしょうか。そんなわけはありません。もちろん、この「恐ろしく」は、やさしさの程度を強調しているのですね。
 どうしてわたしたちが、こういう文を誤解なくすっと読めるかというと、たぶん、自然に法則ができているからでしょう。つまり「おそろしく」が、ほかの形容詞・形容動詞(「やさしい」など)の前に来るときは、本来の意味ではなく、下の語の程度を表す、というような法則があるようです。
 ですから、次のような紛らわしい文も、考え込む人はあまりいないと思います。

おどろいてふりかえると、それはこのゲル村にいつの間にか住みついたノラ犬、ウダとガワであった。我々の村を守っている黒くてむくむくしたモンゴル犬で、こいつはおそろしくタフで礼儀正しい(椎名誠『ネコの亡命』)

 犬の話ですから、恐ろしい(ドウモウな)犬で、しかもタフで、礼儀正しいという解釈はありうるでしょう。でも、それは間違いで、ふつうに読めば、「たいへんタフで……」となりますね。やはり、「おそろしく」が、ほかの形容詞や形容動詞の前の位置にあるからです。
 同じようなことが、古文にも言えます。「いみじく」「あやしく」「あさましく」「こよなく」などの形容詞は、下に形容詞類が来るとき、本来の意味とやや違って、程度の大きさを示す役割をすることが多いようです。
 この原理を応用してみましょう。「源氏物語」に、浮舟というきれいな女性を描いた部分があります。

 身にもし疵などやあらん、とて見れど、ここはと見ゆる所なく美しければ、あさましくかなしく、まことに、人の心まどはさむとて出で来たる仮の物にや、と疑ふ。(源氏物語・手習)

 これを、ある注釈書では「ここがと思われるところもなくきれいなので、嘆かわしくもありいたわしくもあり」と訳しています。たしかに、「あさましく」のもとの意味は「嘆かわしく」でいいのですが、ここは、下の形容詞「かなしく」の程度を示しています。ですから、
  「嘆かわしいほどいたわしく」 または 「たいへんいたわしく

とするのが正確な訳だと思います。

(1997年記)

●この文章は、大幅に加筆訂正して拙著『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波アクティブ新書 2003.06)に収録しました。そちらもどうぞご覧ください。

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