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99.08.24

文法家の「ら抜き」

 「見れる」「来れる」といった「ら抜きことば」は、世のうるさがたの批判にもかかわらず定着しつつあります。可能の意味をはっきり表すことができ、便利でもあるので、この流れは止まらないだろう、というのが、研究者の一致した見方です。
 僕もまったく同感ではあるけれど、自分自身では「正式な文章では使いにくいな」という感じがまだ残っています。論文には用いない、目上の人に書く文章にも用いないなど、自分なりに、いちおうの「歯止め」があります。
 ところが、日本語研究の論文の中ですら、こういう言い方は使われるのですね。最近読んだ文法の論文集の中で、たてつづけに二人の人の文章で「ら抜き」を使っている例に出会いました。

したがって,(1)判断の問い掛け文のガ格には,総ての人称の名詞が来れる,(2)判断の問い掛け文にはテンスの存在・分化がある,(3)判断の問い掛け文は,推量系の判断のモダリティ形式を共起させうる,(4)判断の問い掛け文は通常題目を有している,といった特徴を示すことになる。(仁田義雄氏の論文。仁田・益岡編『日本語のモダリティ』くろしお出版、1989 p.29)

こうして,まず,それぞれの形態的な共起関係から,三つの類が分類されるのである。なお,前に名詞がそのままこれるか,あるいは,名詞+ダがこれるか,などという問題が議論されることもあるが,それは,個々の形式の形態的な起源との関係が深く,特に意味的な問題に関与が深いとは考えられない。(森山卓郎氏の文章。同上書 p.67)

 くしくも、両方とも「名詞が来れる」という言い方で出てきます。もちろん、伝統的には「来られる」というところです。
 後者の森山氏の文章では、「他の人がこういう問題について議論している」ということなので、森山氏自身の言い方なのかどうかは、よく分かりません。
 文法家ほどことばに敏感な人はいませんから、うっかりミスということはありえない(ただし、印刷所が誤植することはありうる)。これには、何か意味があるのでしょう。何かの誤解を避けるために、あえて「来られる」を使わず「来れる」にしたということも考えられます。でも、ここは「来られる」としても問題はないように見えます。
 あるいは、仁田氏・森山氏とも、「ら抜き」をあえて積極的に使って、より定着させようという、戦略的な考えを持っているのでしょうか。「『ら抜きことば』は日本語の乱れだ」と批判する世のうるさがたも、「文法家も『ら抜き』を使っている」ということになれば、多少軟化するという効果はあるでしょう。
 文法の論文を、それほど読んでいるわけではないので、どれほど使われているのかは知りませんが(というより、ほとんど使われていないと思いますが)、僕なんぞが真似しても、「日本語を知らないやつだ」と思われるのがオチでしょう。


追記: 渡辺実『国語構文論』(1971)の181ページにも
  ヨーロッパからすら十数時間で帰って来れるのです。
とあります。これは「すら」の用例を示すためのもので、渡辺氏が作った文だと思います。

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