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98.09.02

「振り返れる」は「ら抜き」か

 塩田丸男『死語読本』(文春文庫)を読むと、「〜はもはや死語だろうが」といった言い回しが毎日のように新聞・雑誌に表れていることに気づかされます。著者は「死語だろうが」と言われることばにはどういうものがあるかに着目し、丹念にそういう言い回しを集めています。そして、「院外団」「カフェー」「黒眼鏡」などのことばについて、「『○○ということばはもう死語らしい』と××誌に書かれていた。このことばのそもそもの意味は……」という具合に続けます。
 何しろ取り上げられたことばが多岐にわたるので、著者が主張するようには、これらの「死語」を通じて「この社会にどんな変化がおこったか」「将来、われわれの社会構造はどんな変貌を遂げるか」がすっきり説明されたとは言いがたいと思います。その意味ではこの本は失敗しています。ただ、いろんな新聞・雑誌が引用されているので、用例集として役に立つことは間違いない、と言ったら著者はご不興でしょうか。
 さて、そういう博引のなかで、いわゆる「ら抜きことば」もご多分に漏れず取り上げられている。しかも雑誌「諸君!」(1993.09)に掲載された「雅子妃殿下の「ら」抜き言葉」という高貴なお方の使用例です。諸井薫・山川静夫両氏の対談が引用されています。

諸井 たとえば、「ら」抜き言葉ですが、婚約記者会見における雅子さんの、「いい人生だったと振り返れるようにしたいと思います」という発言を、朝日新聞はそのまま「振り返れる」と報道し、読売では「振り返られる」と直して報じていましたが、「NHK」はこのことについてどう思います?
山川 アナウンサーは「見られる」「食べられる」です。〔以下略〕(『死語読本』 p.247に引用)

 あとしばらく引用が続き、塩田丸男氏は「山川氏も諸井氏も六十代だが、「『ら』抜き言葉」容認派のようだ。/「見られる」が死語になる日はそう遠くはないのではないか。」と書いています。
 どうも、立論の前提が違っているなあ。「振り返れる」は、「ら抜きことば」ではないのです。昔から認められた語形だ。諸井薫氏も、「諸君」も、塩田丸男氏も、うっかりしていたらしい。
 「振り返ない」「変わない」「太ない」のように、「ない」をつけたときに直前が「ら」(ア段音)になる動詞は、江戸時代から「振り返れる」「変われる」「太れる」のように言うことができた。これは今いわれる「ら抜きことば」とは違うものだ。
 もちろん一方で「振り返れる」「変われる」「太れる」と、「ら」を抜かさない言い方もあった。どっちでも可能を表せるが、むしろ今では前者のほうが優勢。
 これに対し、「見ない」「食べない」「来ない」のように、「ない」を付けたときに直前が「ら」にならない動詞は、伝統的には「見れる」「食べれる」「来れる」と言ったのだが、共通語でこれらの「ら」が落ちる傾向が大正・昭和あたりから目立って来だした。これが「ら抜きことば」。
 対比的にいえば、「(過去を)振り返れる」は「ら抜きことば」ではないが、「(郵便で)振り替えれる」は「ら抜きことば」だ、と説明することもできます。
 ことばについての著書をものするならば、こういう基本的なことは押さえておいてほしいところ。ほかにも「昔の女房詞で腹のすいたことを「ひだるい」と言った」(p.211)のような誤解もある。そうじゃない、「ひだるい」(空腹だ)を「ひもじい」と言ったのが女房詞なのだ。
 日本語研究者が今よりももっとアンガジュマン(社会参加)を実現すれば、こういった記述はなくなるのではないかと思います。


関連文章 「「ら抜き」チェック法」(ら抜きことばの見分け方に関して)

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