98.07.24
安部公房のことば
この連載では、手元に溜まった用例の整理を兼ねるつもりなので、ときどき(いつも?)脈絡のない話になります。というわけで、今日は突然ですが作家の安部公房のことばから、いくつかおやっ、と思った(僕にとって)面白いことばを出してきました。順不同で並べてみましょう。
(1)白っぱくれる
「あの船は、いったい何です?」なぐりつけてやりたくなるのをこらえながら、私は白っぱくれて尋ねました。(「ノアの方舟」1952.01・『水中都市・デンドロカカリヤ』新潮文庫 p.161)
僕は「しらばっくれる」は使いますが「しらっぱくれる」は知らなかった。ところが、調べてみると石川啄木や川端康成も使っています。いっぽう、森鴎外・夏目漱石は「しらばっくれる」派のようです。語源的には、「白・化くれる」の字を宛てるのがいいようで、とすれば、どっちの形でもいいわけだ。
(2)いたたまらない
灰色の種属には、自分以外の人間が、赤だろうと、青だろうと、緑だろうと、灰色以外の色をもっていると想像しただけで、もういたたまらない自己嫌悪におちいってしまうものなのだ。(『砂の女』1962.06・新潮文庫 p.93)
僕の使うのは「いたたまれない」のほう。これも両方あるようです。尾崎紅葉・志賀直哉などは「いたたまらない」で、夏目漱石・島崎藤村は「いたたまれない」を使っているようです。
(3)もつらせる
ずるい獣のように、吸いつく砂。足をもつらせながら、闇の中に、かろうじて戸口をさぐり当てた。(『砂の女』 p.104)
自動詞の「もつれる」に、使役の助動詞を付けた形は「もつれさせる」がいいと思います。「もつる」という五段動詞があれば「もつらせる」もありえるけれど。
ただ、安部公房が「もつらせながら」と書いた気持ちは分かるので、「〜を〜ながら」という形では、五段動詞が使われることが多いんですね。「目を輝かせながら」「息を弾ませながら」などのように(なぜ五段動詞が多く使われるかは、考えてみると面白い)。まぁ、それに引きずられたんでしょう。
(4)まのがれる
それでいいのだ。やっと溺死{できし}をまのがれた遭難者でもないかぎり、息ができるというだけで笑いたくなる心理など、とうてい理解できるはずがない。(『砂の女』p.223)
これは現在では「まぬかれる」「まぬがれる」両形があります。僕は「まぬかれる」。「日本国憲法」前文でも「ひとしく恐怖と欠乏から免かれ」だ。
では、「まのがれる」はないかというと、『広辞苑』でも初版から「まの〜」の形を載せていて(ただし「まぬ〜」のほうを見よ、とある)、実際、平安時代初期には「まの〜」があったようなので、間違いではありません。勢力としては、弱いと思いますが。
(5)てんとう
と、いきなり何者かに声を掛けられたのだ。その声があまり近くだったことと、まるで予想外だったために、僕はすっかりてんとうして、しばらくはその声の方を振り向けないほどだった。(「異端者の告発」1948.06・新潮文庫『夢の逃亡』p.58)
「てんとう」は「転倒」ですが、ひっくり返ったのではないから「どうてん」(動転・動顛)がいいのではないかと思った。ところが、これも調べてみると、僕が知らないだけで、「転倒」で落ち着きを失う意味があるのですね。近松門左衛門「心中天の網島」にあるし、夏目漱石も使っている。
結論としては、自分の使わないことばだからといって、「そんな言い方はないだろう」とか、「誤用だろう」とか、安易に決めつけてはいけない、ということですね。
ちなみに、今言った「決めつける」も、「断定する」の意味で使われるようになったのは比較的新しく、『広辞苑』では、この意味は1983年の第三版からようやく出ています。もともとは「きびしく叱りつける」ということで、安部公房も古い意味で使っています。最後に例を掲げて終わりにしましょう。
夜になると今度は老人が外に出て寝るようになった。夜通し咳込みながら、別に不平も言わず、ひたすら死の訪れを待っているらしかった。僕はそれに気づくとたまらなく不快になって、老人をきめつけてやったことがある。ところが老人は、俺は食わしてもらっているんだ、と薄笑いを浮べたままそっぽを向いてしまったのだ。(「異端者の告発」1948.06・新潮文庫『夢の逃亡』p.56)
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