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03.02.21

「桃」はなぜ「モモ」か

 「山」はなぜ「ヤマ」というのか、「神」はなぜ「カミ」というのかといった、語源をさぐる研究はたいへんむずかしいようです。まったく研究されていないわけではありませんが、多くは「こうではないか」といった検証不能の仮説にとどまってしまい、研究をすればするほど仮説が増えるだけのようなところがあって、客観的な学問として成り立ちにくいのです。
 今回は、それを承知で、あえて語源探索といきましょう。
 「桃」はなぜ「モモ」というのか。これは、じつに多くの語源説があります。『日本国語大辞典』には、12の語源説が載っています。ここで僕が何か自説を述べると、13番目の珍説が付け加わるわけです。
 これまで出されている主な語源説をみると、まず、「マミ(真実)の転か」という説があります。なぜ「桃」が「まことの実」なのでしょうか。また、「実の赤いところからモエミ(燃実)」という説。赤い実ならば「アカミ」でいいではありませんか、どうして「モエミ」なのか。はたまた、大学者・新井白石の『東雅』には「実の多いところから、モモ(百)に通ず」とあるそうです。それなら、多く稔る果実はすべて「モモ」になってしまいそうです。

 もっとも、名古屋あたりでは、桃に限らず、他の多くの種類の果実を「モモ」というそうです。NHKで昔放送された井上ひさし脚本のドラマ「國語元年」では、明治の下級官吏の家庭が舞台になっていますが、名古屋出身の書生が、「西瓜(すいか)を切りましたよ」と老人を呼びに行き、つい国のことばで「モモ」と言ってしまったため、誤解が起こる場面があります。
 「なぜ『モモ』なんて言ってしまったのか?」と主人に怒られた書生(広澤)は、

広澤 はあ、それがナモ、名古屋では、瓜も西瓜も柿も通草(あけび)も、そいから梨も李(すもも)も、みんな「モモ」と呼ぶゼモ。ああ、やっぱり「スイカ」って言うべきやったキャーモ。ああ、おれはやっぱり馬鹿だがね、もろ。おおきに、ご無礼しました。(ドラマ人間模様「國語元年」第3回 1985.06.22放送)

と答えます(中央公論新社『日本語の世界』10に脚本が載っていますが、上はテレビを見て書き取ったもの)。
 『日本方言大辞典』によって調べてみると、「モモ」は「木や草の実。果実。果物」の意で、全国で使われています。これは名古屋に限りません。とりわけ、「幼児語」「児童語」とされている場合が多いのが目を引きます。青森県三戸郡・富山県東礪波郡・浜松市・彦根・香川県・千葉県上総・島根県八束郡などがそうです。

 これで思い出すことがあります。以前、中学のときの恩師に坊ちゃんが生まれたので、ご家庭に遊びに行ったことがあります(場所は香川県)。といっても、生まれてからすでに大分経ったころで、彼はもう片言をしゃべるようになっていました。
 お昼がすんだ所で、奥様が梨を出してくださいました。それを見て、坊ちゃんは「モモ、モモ」と言うのです。お母さんが「モモではないよ、これは梨」と教えても、やはり「モモ」と言います。「この子はね、何でも『モモ』なんですよ」と説明されるのを聞いて、おもしろく思いました。
 子どもが話し始めるころには、唇を使ったマ行、バ行の音がもっとも発しやすいと思われます。「ママ」「パパ」「マンマ」など、基本的なことばは唇音です。同様に、毎日食べる果物は、桃に限らず、梨でも何でも「モモ」になってしまうのでしょう。

 寺田寅彦の随筆に「花物語」(1908年発表)というのがありますが、そこで一家が庭の芭蕉の花を眺める場面があります。

妻は俊坊をおぶって縁側に立つ。「芭蕉{ばしょう}の花、坊や芭蕉の花が咲きましたよ、それ、大きな花でしょう、実がなりますよ、あの実は食べられないかしら。」坊は泣きやんで芭蕉の花をさして「モヽモヽ」という。芭蕉は花が咲くとそれきり枯れてしまうっておとうちゃま、ほんとう?」「そうよ、だが人間は花が咲かないでも死んでしまうね」といったら妻は「マア」といったきり背をゆすぶっている。坊がまねをして「マア」という。二人で笑ったら坊もいっしょに笑った。そしてまた芭蕉の花をさして「モヽモヽ」といった。(岩波文庫『寺田寅彦随筆集 第一巻』p.25)

 ここでは、お母さんが「実が食べられないかしら」と言ったのに反応して、坊やが「モモ、モモ」と言っています。芭蕉の実は食べられないそうですが、坊やにとっては、芭蕉の実でも何でも「モモ」であるようです。

 大昔、日本語が出来はじめたころの日本人(だか何人だか分かりませんが)は、現代の幼児と同じように、身近な木の実のことを、発音しやすい唇音を使って「モモ」と言っていたのではないでしょうか。それが、いつしか意味の縮小が起こって、peachの意の「桃」だけに限定されるようになったと解釈すれば、きわめて自然であると思います。
 もっとも、これは最初に言いましたように、検証しようがない仮説にすぎませんから、この文章は人心を惑わすものと言われても仕方がありません。

●この文章は、大幅に加筆訂正して拙著『遊ぶ日本語 不思議な日本語』(岩波アクティブ新書 2003.06)に収録しました。そちらもどうぞご覧ください。

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