HOME主人敬白応接間ことばイラスト秘密部屋記帳所

「ひとりごと」目次へ
前へ次へ
きょうのことばメモへ三省堂国語辞典
email:
03.09.30

ことばをたく

 筒井康隆氏の『小説のゆくえ』(中央公論新社2003.04)には、筒井氏自身が選考委員を務める三島由紀夫賞の選評が収録されています。第9回(1996年)の受賞作品、松浦寿輝『折口信夫論』に関して、筒井氏は「ことばをたく」(言葉お宅)ではないかと思った、と述べています。

 どうでもいいと思えるような擬態語をとりあげて論じはじめる冒頭部分では、なんだこれは一種の「ことばをたく」ではないのかなどと思ったのだが、次第に日本語の本質――というより小説の文章としての日本語の根源を深く論じてゆき、おれ自身もまた「ことばをたく」の一種であったことを否応なしに思わせられるほどの共感があった。(p.135)

 ここで、僕ははたと立ち止まります。
 小説でさまざまな言語実験を行っている筒井氏のことですから、もともと、ことばには人一倍の関心があるはずです。その筒井氏が、侮蔑の感じをこめて「ことばをたく」という言い方をしている。僕もことばの研究をしている一人である以上、この表現は読み流すことのできないものです。
 「ことばをたく」は、単に「ことばに関心を持っている人」ということではないらしい。「ことばをたく」とそうでない人とは、どこで線引きがされるのでしょうか。関心の程度の深浅? 僕自身は「ことばをたく」といういやな響きをもつ人のグループに入るのか、それとも入らないのか、気になります。

 筒井氏の記す「ことばをたく」とはどういうものかを確かめるため、『折口信夫論』を手に取ってみました(なぜかすでに絶版だったため、図書館で借り出し)。この評論は、主として折口の小説「死者の書」を取り上げて論じたものです。
 「死者の書」は、日本の古代を描いた作品ですが、オノマトペ(擬声語・擬態語)に工夫をこらしています。たとえば、水の垂れる音は「した した した」、足音は「つた つた つた」という具合。松浦寿輝氏はそれらのオノマトペを論の中心に据えています。

 「つた……」とは、当麻の庵室に籠もった藤原南家郎女{ナンケノイラツメ}のもとについに「彼の人」滋賀津彦{シガツヒコ}が訪れる、その接近{2字傍点}の音であった。実際、「つた」は動詞「伝ふ」にも通じているはずであり、「耳に伝ふやうに来る」音の至純形態にほかなるまい。(p.20)

 筒井氏が「どうでもいいと思えるような擬態語をとりあげて論じ」ていると記したのは、このような部分のことでしょう。僕も、ほぼ同様の感想をもちます。折口は、たしかにオノマトペに工夫をこらしているけれど、松浦氏のように「つた」に「伝ふ」を結びつけるのは過度の意味づけというべきでしょう。
 オノマトペについての松浦氏の論は冒頭部分だけにとどまらず、後のほうでは極論に近いものになります。すべての擬声語は跫音(あしおと)であると述べます。

 擬声語とは――「つた つた つた」のみならず、「ぽたぽた」であろうが、「ひらひら」であろうが、「ぬめぬめ」であろうが「さやさや」であろうが、ありとあらゆる擬声語は、すべて跫音なのである。生と死との間をさまよっている者の足が、そのゆるやかな歩みの一歩ごと、言語という「基底材」を蹴ってゆくにつれて、そのつどそこに生起しては消えてゆく音が、オノマトペなのだ。日本語のオノマトペが、「ぽ・た」なり「ひ・ら」なり、多くの場合二音を単位として反復されるのはいったいなぜなのか。それが跫音だからなのではないだろうか。(p.146-147)

 これは一種の比喩なのでしょう。しかし、仮に比喩であるとしても、納得しがたい比喩だし、評論の大事な部分を比喩ですませてしまうというのは賛成できません。「ありとあらゆる擬声語」とありますが、だいたい古代の日本語では「はらら」「とどろ」「はだら」「ほどろ」など、必ずしも2音を単位としないオノマトペが多かったし、現在でも「ひんやり」「ぐったり」「どっと」「わっと」などのような系統のオノマトペがあります。松浦氏は一時の思いつきと比喩によって論を進めているといっては言いすぎでしょうか。
 もとより、文芸評論には素人の僕ですから、松浦氏の論を文芸評論として正しく評価する才能も資格もありません。しかし、ことばについての考察の部分に関しては客観性を欠いていると思われます。そして、このことは、評論全体から見ても、大きな欠点となるはずです。
 ここから、「なんだこれは一種の「ことばをたく」ではないのか」という筒井氏の当初の感想が出てきたものと推測します。ここでいわれている「ことばをたく」とは、ことばの考察に客観性が欠けていることを指したものでしょう。
 筒井氏は、後のほうでは見方を改め、「日本語の本質――というより小説の文章としての日本語の根源を深く論じ」ていることに「共感」したとのことです。僕はあまり共感できなかったという点が、筒井氏との違いです。

 昔から、「ムネ(胸)」ということばは「群がる骨」がつづまったのだとか、「ハラ(腹)」はものを食べると「張る」からそう言うのだとか(これらは江戸時代の『日本釈名』にある説)、ことばについて客観性に欠けること(肯定も否定もしがたいこと)を主張する人々は多くいました。そういった昔の人々も、さしずめ「ことばをたく」(ことばについて客観性に欠けることを言う人)の範囲に含まれるでしょう。

 さて、僕は以上のような意味での「ことばをたく」の一員であるのかどうか。これは自分自身をよく反省してみなければ分かりません。また、「おたく」ということばの意味についても、論じ尽くしたとは言えません。また改めて考えてみるつもりです。

「ひとりごと」目次へ
前へ次へ
きょうのことばメモへ ご感想をお聞かせいただければありがたく存じます。
email:

Copyright(C) Yeemar 2003. All rights reserved.