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03.02.19

「栄花物語」か「栄華物語」か

 高校生のころのことです。定期試験が終わり、国語の授業時間に答案が返ってきました。その中に文学史の問題があり、僕が
  栄華物語
と書き入れてあった解答に×がつけられていました。
 問題文は忘れましたが、たとえば、「最初の歴史物語で、藤原道長の時代を中心に賛嘆を込めて叙述している作品の名を記せ」というようなものではなかったでしょうか。当時使っていた教科書に、そのようなことが書いてあるからです。
 「あれえっ。『栄華物語』じゃなかったのかなあ」
 僕は驚いて、どうして間違いなのか、先生に尋ねました。当時国語を教えてくださったのは、関西の大学を卒業して間もない女の先生でした。
 「字が違っています。教科書をよく見てごらんなさい。『栄花物語』と書いてありますよ」
 なるほど、その通りでした。「華」ではなく「花」。古典文学には自信のあった僕でしたが、こんなうっかりミスをするとは。しかし、いつか図書室で見た日本古典文学大系には、「栄華物語」と書いてあったような気がしたんだけどなあ。
 そのような、ぼんやりした記憶に基づいて、先生に
「でも、日本古典文学大系では『栄華』となっています
 断定的な口調で抗議しました。先生は、そのもっともらしい言い方に気圧されたように、「そう、では○をあげましょう」と答えて訂正してくださいました。
 あとで図書室に行って確認すると、あにはからんや、日本古典文学大系も同じく「栄花物語」となっていました。まあ、今から思えば当然のことでした。僕は結果的にうそをついてしまったわけですが、事実を先生に申告することはせず、そのまま点をいただいてしまいました。

 結論から言うと、「栄花物語」「栄華物語」どちらでも正しいのです。『広辞苑』『大辞林』『日本国語大辞典』でも両様の表記を認めていて、心強いかぎりです。僕は必ずしも、ズルをして点をせしめたとは言えないのです。
 『大字源』によれば、「花」という漢字は、「六朝りくちょう時代に、『華』の『盛美ではなやか』の意と区別して、『草木のはな』の意を示すため作られた字である」とのことです。このような関係にある字を「通用字」と言うこともあります。

 日本古典文学大系『栄花物語』(底本、三条西家旧蔵本)によって調べてみると、「栄華」という用字の例は本文中に1つも見当たりません(ただし、漢字が忠実に活字化されているならば、の話ですが)。他の単語に関しても、今日ならばふつう「華」を使うところにも「花」をよく使っています。たとえば、「蓮華」1例に対して「蓮花」8例、「華厳」0例に対して「花厳」2例、「法華」11例に対して「法花」21例など。
 どうやら、「栄花物語」の書き手(書写者)は「華」と「花」とを混用していて、しかも、どちらかといえば「花」の字を好んだようです。そこで題名もたまたま「栄花」と書いたにすぎないというのが事実に近いでしょう。これを現代のわれわれが「花」の通用字である「華」を用いて「栄華物語」としても、ちっともかまわないでしょう。
 ちょうど、森鴎外の史伝「澀江抽齋」を、「渋江抽斎」と書いてもかまわないのと似ています(これは異体字の問題ですが)。

 「栄花物語」に限らず、多くの古典作品で「華」と「花」とは通用して使われています。
 「今昔物語」にも、「栄華」という文字はなく、代わりに「栄花」が10例出てきます(「栄花ヲ棄テ」「栄花ヲ好ム」など)。また、「蓮華」が11例であるのに対し「蓮花」は87例。「華厳」13例に対し「花厳」17例。そして「法華」26例に対し「法花」は実に736例と、ずいぶん多くなっています。「今昔物語」では「法華経」ではなく「法花経」、「法華会」ではなく「法花会」と書くのが常識なのです。

 「華」と「花」とがいつごろから厳密に書き分けられるようになったかは、僕には知るよしもないのですが、江戸時代までは比較的自由に通用していたと言いうるのではないでしょうか。明治になると、さすがに例は見つけにくくなります。とはいえ、現代でも

芥子を焚く黒いけぶりが恋に破れた女人を包む。降魔秘法の香りは平安の世、芥子から採られた。純潔の白い百合、芳しいユウカリの葉もいまは薄墨色。夏の薫物{たきもの}は蓮花の香に似た荷葉{かよう}であったものを。(中川幸夫「週刊朝日」1994.07.01 p.178)

というふうに、「蓮華」でなく「蓮花」が用いられることもあります。現代にあっても、「栄華」と書かず「栄花」と書いても、またはその逆でも、間違いではないのです。ただし、現代中国語では、ふつう「花」を第1声で、「華」を第2声で発音しているようです。

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