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01.07.28

丁寧体の中の「が」

 戦前の小学生・豊田正子の作文をまとめた『綴方教室』には、丁寧体(敬体)の中に普通体(常体)が混ざっているという話を以前書きました。
 そのひとつとして接続助詞「が」の例も挙げました。たとえば、「うさぎは、ちょっとの間、きょろ\/していたが、やがて、小さな木と木の間からくびをだしました 」とあるのは、「きょろ\/していましたが」とするのが今の感覚だ、当時はこれで普通だったのか、と疑問を呈しておきました。
 その後、ちょっと気をつけて見ていましたが、こういった「が」にはときどきお目にかかります。
 たとえば、戦前の国定教科書。『尋常小学修身書 巻四』(大正2年翻刻印刷とあるので、いわゆる第2期の国定教科書でしょう)に、次のようにあります。

そのうちに人人がかけつけて犬を打ちころし、おつなをかいはう〔介抱〕して主人の家にかへらせました。子供にはけががなかつたが、おつなのきずは大へんに重くて、そのために、とうとう〔ママ〕死にました。之を聞いた人人はいづれも感心して、おつなのためにせきひ〔石碑〕を立てました。(p.19-20)

 主家の子どもを身を挺して猛犬から守った「おつな」という召使いのエピソードです。今であれば、「子供にはけががありませんでしたが」となりそうなところ。「です」「ます」で続く文章の中にポコッと「〜なかつたが」と出てくると、違和感があります。
 あるいは、昔、講談社(大日本雄弁会講談社)が出していた「幼年クラブ」1949.01でも、次のようにあります。

みなさん、おげんきで、よいとしをおむかえになったでしょう。ぼくのうちでもおとうさんはいないが、みんなじょうぶで、お正月をおいわいしております。ことしはうしどしなので、うしのように、さいごまで、へこたれずにがんばろうと、はしなあっています。(グラビアページ)

 戦後間もないころの雑誌ですから、父親が戦争で亡くなった家庭がごく当たり前に登場して胸を衝かれます。
 それはともかく、ここに出てくる「おとうさんはいないが」というのは、今ならば「おとうさんはいませんが」となりそうです。
 これらを、単に「丁寧体に普通体が混ざっている」と判断するのは早計かもしれません。昔のこのような「が」の用法は、ちょうど今の「けど」に当たるようなものだったのかもしれないと思います。
 「けど」は、丁寧体でも、必ずしも直前に「です」「ます」を必要としません。

 私たちは日本のすばらしい伝統に改めて感動しました。決して光を浴びることはないけど、日本の伝統を支え、一生懸命頑張っている伯父さんやAさんを、心から応援したいです。(朝日新聞 1997.09.04 p.5)

 これは高校生の女の子の投書ですが、「けど」の場合ならば、「決して光を浴びることはありませんけど」と丁寧体にはしなくてもいいのですね。ただし、「〜けど、〜応援したいです」という言い方は幼い感じがします。
 あるいは、「ものの」を使う方法もあります。「お父さんはいないものの、みんなじょうぶで、お正月をおいわいしております」はごく自然でしょう。かえって「お父さんはいませんものの……」とするほうが不自然です。
 このように見てくると、同じ逆説の接続助詞でも、直前に「です」「ます」を付けたほうがいいものもあれば、付けないほうがいいものもあるようです。この差は、その接続助詞が文相当を受ける性質を持つのか(その場合は前に「です」「ます」を付けたほうがいい)、句相当を受ける性質を持つのか(その場合は付けないほうがいい)、という違いによるのでしょう。詳しくは話がややこしくなるので略します。
 接続助詞「が」は、以前に比べて文相当を受ける性質が強くなったため、丁寧体の文章では「〜ですが」「〜ますが」としたほうが自然になってきたとも考えられます。

 余談ですが、引用した「幼年クラブ」という雑誌には「テレビジョンをけんがくして」という訪問記事が出ていたりして、時代を先取りしたところも見せています。「テレヴィジョン」は獅子文六『自由学校(1950)にも出ていますが、それよりも早い例ということになります。


関連文章=「「綴方教室」の文体

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