☆ 樋口範子のモノローグ(2011年版) ☆

更新日: 2010年11月28日  
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2011年12月

 中学一年の入学式、その日からずっと約半世紀友人でいるEさんのはじめての個展が、代官山のギャラリーで行われるというので、母と夫と3人で出かけた。水彩で描かれた植物画は、幾種類もの浦島草、しだ、わらびなど、普段あまり目立たない植物から、オーストラリア原産のめずらしい植物まで、ひじょうに多岐にわたっていて、その確かな観察と細かい描写に目をうばわれた。

 長年、ご主人のお仕事で海外生活を余儀なくされていた彼女が、オーストラリアを最後の赴任地として、やっと日本に暮らす拠点を得られた。その安堵感というか、充実感を、わたしはまず彼女の作品全体から感じることができた。辞令ひとつで、次の赴任地に出向くそれまでの暮らしでは、なにかに集中することができないと耳にしたことがあったが、じっさいそのとおりだと思う。いい文化的世界や師匠に出逢えても、物理的に継続できない環境は、彼女の好奇心や探究心に40年近くブレーキをかけていたにちがいない。

 そして晴れて、大地にしっかり足をつけ、庭いじりをし、彼女はそれまでに描きためた作品の世界をさらに広げることができた。それは、友人にとって喜びであり、個展会場に足を踏み入れたときの最初の感動だった。

 次の感動は、彼女の描く植物の内容だった。しだ、わらびの複雑にからまった根っこ、あるいは華やかなシャコバサボテンの絵に、すでに枯れてしぼんだ花弁もきちんと描かれている。植物をめでる大方の人間が、ほとんど眼にすることのない地中にある根っこや、ついつい摘みとってしまいたくなる花弁まで描く彼女の思いに、友人であることが誇らしかった。

 彼女自身、もともと美しい女性で、30代のころはまるでカトリーヌ・ドヌーブのようだとわたしは思っていた。真っ黒な大きな瞳は、還暦をすぎた今もかわらない。白髪を染めるわけでもなく、化粧をするわけでもなく、アクセサリーがぴかぴかしているわけではないのに、その瞳に見つめられると、なんだか周りの視界が一気に色あせてしまう。彼女自身が大輪の花なので、あえて色鮮やかな花を描かなくても、浦島草、しだ、わらびなどの地味な植物に、スポットライトが当たる。それを彼女自身が、まったく意識も意図もしていないことが、それがもしかして、今回の個展の、隠れた美のひとつだったかもしれないと、代官山の帰り道に気づいた。「魅惑の世界」と題された今回の個展の魅惑とは、植物と彼女と観覧者との、三つ巴の関わりを予感して、Eさんを良く知るどなたかが名づけたのだとしたら、実に的を得た命名だ。

 もうひとつ、思い出したことがある。それは、彼女がモスクワ赴任中に、たしか一時帰国していたときだったか、わたしの住む東京のアパートの一室に立ち寄ってくれた。互いに同年の乳児をかかえていたので、オムツ替えをしながらおしゃべりに夢中になった。

 狭いアパートの窓辺に、枯れた花の鉢がころがっていた。正確には、わたしが目をかけずに、ころがしていたのである。彼女がいち早く見つけて、「あら、かわいそうに」と言った。わたしは、ばつが悪くて、いやらしい言い訳をした。彼女は、あの大きな目をわたしに向けて「えっ? ただ、お世話しなかったからじゃないの?」と言った。そのとおり、図星だった。昔も今も、わたしは植物を大事にできないのだ。水をやり忘れる、あるいは水をやりすぎる、霜や雪にあててしまう、なのに陽に当てない、そして結果、枯らせてしまう。毎回〈うっかり〉を枕詞にしてきたが、ほんとうは自己中心的で、ずぼら以外の理由はない。

 若いときには気づかなかったけれど、Eさんは、植物を自分の命と同じように考えられる人。個展会場で夫が撮ってくれた彼女との写真を見て、しみじみそう思った。


2011年11月

 数年前に、このモノローグ上でも言及したのだが、店をはるというのは、複数の人生が行きかう交差点に立っているようなものだ。店の前を、人々が、それぞれの人生を背負って、無言であるいは言葉をのこして通り過ぎる。

 店としても、無言で見送ることもあるし、少々の言葉かけをすることもあるし、おおいに共感して盛り上がることもある。

 つい先日、雨のブランチタイム、わたしと同世代のご婦人三名がみえて、そのうちのおひとりが、拙店の店名の由来をたずねられた。〈あみん〉という拙店の店名は、さだまさしの某作品の詩中にある〈喫茶店あみん〉から頂戴したのであるが、もうひとつは、ヘブライ語でアーメン、つまり信じられるものという意もある。

 よくきかれる質問なのだが、相手が明らかにクリスチャンとわかっている場合には、後者でお答えするが、一般には、前者のさだまさし関連でお答えすることにしている。自分たちがクリスチャンではないので、〈あみん〉を糸口にした場合、どちらかというと、さだまさしを話題にするほうが、双方にとって楽しいのではないかと思っている。

 その日も、「実はさだまさしの」、と言いかけたところで、店内から歓声がとんできた。その婦人のお客さんは、わたしより数倍熱心なさだまさしファンで、ほとんどの歌詞を暗唱できるほどだった。

 わたしが、さだまさしの歌に夢中になったのは、彼もわたしもまだ20代の初期のころだったが、実際あのころの彼の作品は、以後30数年間におよぶ全作品の中でもとくに優れていて、この時期の彼の感性とその完成度がいかに高いか、だれもが認めるところである。昨今の彼の作品には、あまりピンとくるものがないので、最近はほとんど聴くことがなかったが、ファンであることには変わりない。20代のころのさだまさしは、一種の天才だと、今でもそう思う。

 ファンというのは、世間でヒットした曲には、あまり惹かれないのが常で、そのお客さんとわたしが、双方で挙げたベストスリーも、けっして目立たない、一般には売れない部類だった。しかし、久しぶりに記憶をよじのぼってきたその数曲は、しばらく眠っていたわたしのなにかを、コンコンと叩いていったように思う。

「甲子園」「住所録」「肖像画」「風にたつライオン」「檸檬」「主人公」どれも、素晴らしいを超えて、すごい! 作品ね、と婦人のお客さんと共感しあった。お名前もうかがわなかったけれど、まさに一期一会のご縁、きょうの彼女にありがとう、といつになく昂揚しつつ店を閉めた。

 店というのは、たしかに人生の交差点であるのだが、いつのまにか、通り過ぎる人々の中に自分も交じっているのが、これまた味のある発見だった。


2011年10月

 山中湖畔のホトリニテという、若い村人が運営する宿のシアターで、「カンタ・ティモール」という、東ティモールのドキュメンタリー映画を観た。あまりにも感動して、連夜通い、最終日には若くて美しい広田奈津子監督のレクチャーまで拝聴することができた。

 この映画は、インドネシアの制圧で、まだ傷の癒えない東ティモールの独立(2002年)後を撮ったフィルムだが、街角の歌声や合奏など、音楽を切り口にしており、そこに人々のインタビューや実写記録をもりこんだ珠玉の110分。

 24年間に、なんと人口の3分の一が殺され、9割の建物が破壊されたという悲惨な歴史的事実が、わずか10年前だから、あらためて自分たちの無知を恥じた。そして、彼らのその慟哭が報復ではなく、敵を憎まず、忍耐、ゆるしとして平和提案されるに至っては、同じアジア人として深い畏敬をもたざるを得ない。

 恵まれた天然資源(主に油田)もあだになり、400年間にわたりオランダやポルトガルの植民地で翻弄され、カトリックに触れたにもかかわらず、今なお自分たちの自然信仰や文化を守り、貧しくとも笑顔で唄い踊り、楽器を奏でる彼らにおおいに励まされた。

 監督の広田さんは、300時間におよぶ撮影フィルムを8年間もじっとあたため、慎重に編集、いよいよ公開の場と方法を模索中とうかがった。

 もともと、映画をつくるためにこのフィルムを撮ったのではなく、したがって、映画監督になろうとしたわけではない彼女の普段着の姿勢が、かえって真実味を伝える。さらに、文字をもたない口承文化のもつ言葉の美しさは、翻訳をへても、みゃくみゃくと観客に伝わってくる。

 子どもたち、おばさんたち、そして老人たちがいい! 彼らの歌声もいい! 田んぼで泥んこになりながら、牛追いの歌を唄う農民、その歌声で、牛たちは田んぼでしろをかく。この農民の声は、おそらく山中湖畔から石割山の頂上まで届くにちがいない。

 まだ具体的な公開方法は決まっていないが、来年の6月にはリリースだという。ぜひとも、カンタ・ティモールで検索を、そしてご観覧をおすすめしたい。音楽は命の力!を、実感されたし。1000年に一度の地殻変動を体験しつつある自分たちに、内面エネルギーの蓄積も、必要だと思う。


2011年09月

 大震災以来、ざわざわするこころをかかえて、それでも朝が来て、昼が来て、夜を越えなくてはいけない、この酷な日常を、はたして、みんなはどうやって過ごしているのだろう? と、自分も独り暮らしの母を、毎週東京に見舞う暮らしにシフトしつつ、思いめぐらしていた。

 自分たちは、直接の被災者ではないが、自然の猛威を目の当たりに見てのショックで、食欲は落ち、気もちはどんどん沈んでいくばかりの春だった。さらに余震と原発事故の不安と恐怖で、ざわざわするこころは、ちっとも復興しなかった。

 毎食、夫婦ふたりで向き合う食卓に、個食の人たちも迎えられたら、自分たちの内面も同時に少しずつ復興していくのではないかと思い立ち、月に一、二度のごはん会を企画した。おかず一品もちよりのポットラックで、参加者はひとり500円を義援金箱に入れ、それを特定の避難所やボランティア運動に役立ててもらおうとの、いわば自他ともの復興を願った一石二鳥の合理的案。

 ルールは、ノンアルコール。と、もうひとつ、政治や宗教の主義主張をさけた話題で、食卓を囲みましょうという簡単なもの。

 呼びかけた友人の協力もあって、すでに9回を数え、避難所やボランティア運動に、わずかだが義援金を3回も活用できた。7月には、避難所からTシャツの希望があったので、数枚だが購入して送ると、ちゃんと受け取りましたという連絡までいただいた。8月は、現金をボランティアの移動費に活用してもらった。

 月に一、二度とはいえ、都合がつかなければ食卓を囲めないので、10数人の参加者のときもあるし、夫婦ふたりだけのときもある。我が家では、かならず自宅で夕食をとるので、ごはん会が流れることはない。最低ふたりでも催行できるのが、この会の強みだと自負する。

 そして先週、夏休み中ということもあり、福島から自主避難中の家族も参加してくださり、郷土料理であるシソの味噌巻き揚げをもちよられて、みんなの好評を得た。彼らは、忍野村にあるお寺に、数日間滞在していて、そこの住職と拙店との信頼関係で、ごはん会に参加してくださったのだ。全参加者19名という、店に入りきれないほどの人数だったが、さいわい真夏なので、テラスにもテーブルを出して、小学生、中学生もふくめてにぎやかな晩だった。

 食事をはじめて数分たったころ、福島からの家族の末っ子の幼稚園生だろうか、その坊やがきゅうに「おかあさん、きょうはここに泊まるの?」と心細そうな声できいた。

 その場にいただれもが、一瞬胸をつまらせたにちがいない。そのおかあさんが言うには、3人のこどもたちは、震災後の事情がよくつかめなくて、家族で長い旅行をしているのだと思っているという。幼稚園生ならなおさら、そうだろうなと思う。目に見えない放射能汚染から避難しているとは、なかなか考えにくい。なぜなら、行く先々では、みんな家があり、職場もあり、学校や幼稚園に通い、ふつうの暮らしをしているのだから。

ケガをしているわけではない、病気にかかっているわけではない、暴力で追われているわけではない、ましてや家庭不和でもない、なのに家を捨て、学校や幼稚園を後にして、こうやって転々と避難生活を強いられている彼らの状況を、子どもに理解せよと言っても無理にちがいない。

そのおかあさんは、苦笑しながら坊やに答えてやった。「このおうちで夕飯をいただいて、またお寺にもどるのよ」

坊やは、納得したのか、しないのか? でも、みんながにこっとしたので、少なくともその場だけは安心したにちがいない。やっと箸をすすめた。

やがて、にぎやかな夕食会が終わり、みんなはそれぞれ震災後の感想をのべて、散会した。片付けをしながらも、またその翌日になっても、「おかあさん、きょうはここに泊まるの?」という坊やの声が、耳からはなれない。

第二次大戦中のヨーロッパ、ナチに追われて村から村へと逃げまどう家族、ロシア革命以前にロシアから追われてアメリカに渡ったテヴィエ(屋根の上のヴァイオリン弾き)の家族を彷彿とさせた。

なのに、まだ若い福島のおかあさんは、多くの避難者が出たために、存続が危ぶまれることになった福島県の幼稚園の今後を心配しているのだ。そして、彼女たちがその避難者の一部であることに、後ろめたさを感じている。その尊い思いは、3月11日以前の世の中では、あまりにも真っ当だった。でも、あの日を境に、世の中の支軸がかわった。人情よりも、経済よりも、効率よりも、人との和よりも、なによりも放射能から逃れること、自分をふくめた人類と地球の安全が第一になった。

その渦中にいる人に、「どうか、前を向いて」とは、とても言えない。しかし、少なくとも自分の内面は、こういう出会いの積み重ねによって、明らかに元気になりつつある。それは、内心期待はしていたが、ごはん会を経ての、大きな気づきである。


2011年08月

 昭和30年代の新宿、大久保駅と高田馬場駅の中ほどにあった広大な都営団地で、わたしは育った。通学した区立の小学校は、全校生徒1200人というマンモス校で、一学年6クラスはあった。

 生徒たちは、その都営団地、やはり広大な公務員住宅、そしてその団地の隙間に建てられた、いわゆる戦後のバラック住宅の3種の地域から、ほぼ同数ずつ同じ小学校に通っていた。今からふりかえると、同じクラスに外務省の帰国子女がいたり、運動靴も買えない貧しい家庭の子がいたりしたが、休み時間も放課後もいつも混ざって遊んでいた。

 教師たちはだれもが熱血漢で、担任のクラスや学年の境を越えて、全生徒たちと交流があり、それは生徒たちの社会的背景、経済的格差をじゅんぶんに考慮したうえでの教育方針だったのかもしれない。

 とにかく、教師たちのフットワークがよかったので、教科の授業などは彼らのごく一部の仕事で、課外活動や地域活動にも積極的、わたしたち生徒は教師たちといっしょに、地域をよく歩き回り、緑陰子ども会をたちあげたり、他校の部活動の応援に出かけたり、教育図書や図鑑の出版資料集めに奔走したりした。

母親たちも積極的に校内活動に参加し、超大型厨房から熱々の脱脂粉乳を各階に運ぶ毎日の給食配膳作業にも、当番製で来校し手をかしていた。教師と母親たちの文化活動もさかんで、句会やコーラスなど、まるでだれが生徒かよくわからないほど、教師たちは熱心に指導した。

そんなわけで、校舎内では毎日、大人や子ども1200人以上が生き生きと動き回り、昼間の職員室はほとんど空っぽ、学校は当時、ひとつの大きなうねりのようだった。

その中でたったひとり、そのうねりとはまったく別世界で暮らす教師がいた。美術の専任教師M先生は、自分の授業のないときは、いつも校庭の花壇をながめつつ、のーんびり、ゆーっくり散歩している。授業中でも、窓からずっと外をながめていて、たまーに生徒の描く図画に目をやる。「あんたね、建物の窓がそんなに空色に見えるかい? 」そう言って、生徒たちの描く家やビルの窓を、ことごとく真っ黒に塗らせた。M先生の教え子たちはきっと、今でも〈窓は黒〉と思いこんでいるにちがいない。

M先生は、美術の教師だけあって、なかなかのおしゃれ。ジャケットはいつも上質で、夏服であれ冬服であれ、素材が異なっても、色はえび茶色ときまっていた。東京オリンピック以前の昭和30年代に、おそらくオーダーメイドを着こなしていた人の家族は、いったいなにを着ていたのだろう? 

わたしは絵画が苦手で、M先生には苦笑されるだけで、なんの指導もされなかった。その自分が、どうして美術部に入ったのか、いまだにわからないが、小学校5年のとき、M先生と美術部の生徒たち数人と、東京湾のお台場に写生に出かけたのだけは、はっきりおぼえている。

新橋駅で下車したわたしたちは、いきなり迷子になった。M先生の姿が、見えなくなってしまったからだった。画板とスケッチ道具を背に、右往左往する小学生たちは、通行人たちから怪訝に見られたにちがいない。

この歳まで、何回となく途上で迷子になってきたが、複数で、それも雑踏の中での迷子ほど、みじめなものはない。子どもの視線は低いので、みんなで上をきょろきょろしてさがした。M先生はどこにいらしたか・・・・なんと、ガード下のちびた丸椅子に、ひょうひょうとすわっていたのだ! わたしたちが駆け寄っても、たいして表情をかえるわけではなく、靴磨きにのんびり靴を磨かせていた。その後、お台場でなにを写生したのか、そんなことは忘れてしまったが、M先生は、やはり別世界に暮らす教師だと、あらためて認識したことだけは、よくおぼえている。

 わたしたち家族は、やがて目黒区に引越し、杉並区の中高に通学するようになって、新宿区とはまったく無縁になった。しかし、小学校のあの元気いっぱいの恩師たちが、かなり若い年齢で相次いで病死されたという話は、その都度耳にした。T先生もE先生も40代で、H先生は50代、そして一番の恩師であるS先生も還暦を待たずに亡くなった。

 ある日、一児の母親になったわたしは、目黒の実家のそばで信号待ちをしていた。横断歩道の向かい側に、長コートを着た初老の男性が、長い釣竿をもって立っている。〈あれっ? どこかで見たお顔〉

 わたしは、駅へ行くのをとり止めて進路変更、ベビーカーを押しながら、男性の後をついていった。一軒の家にはいるのを確認してから、おもむろに表札を見た。やっぱりM先生の家! すぐに呼び鈴を押して、M先生と10数年ぶりの再会を果たしたのだった。先生は、10数年という年数をまったく無視して、「お台場に、釣りに行ったんだが、釣果がなくてなあ」と、釣竿を見上げ、あのなつかしい苦笑をされた。お台場! 写生と釣りと、いったいどちらが先か知らないが、先生はお台場がずっとお気に入りのようだった。

 M先生は、退職後、ずっと抽象画を描かれ、再会後は上野の都美術館での展覧会の通知を毎年くださった。銀座の画廊でも抽象画の個展をされ、何度かわたしも足を運んだ。もともと具象より、抽象が本筋と言われる先生の絵は、晩年とくに大胆な赤が主体となり、画廊を訪れる客の目を楽しませた。その個展会場で、わたしは偶然にも小学校での別の恩師に再会し、M先生が旧交を大事にされていることを知った。当時の小学校の職員室とは、別世界で暮らしていると勝手に思っていたが、M先生は同僚教師たちの音信にはとてもくわしく、かつては毎年行われたという教師の同窓会には、ずっと参加されていたという。「みんな、早く逝っちゃったよなあ」銀座の画廊の窓から、やはり外をながめながら、いつもの無表情でつぶやかれた。

 銀座では、何回か甘味喫茶でごいっしょした。茶道の師匠である奥様の影響か、M先生は和菓子が大好物だった。

「釣竿をかつぐ元気がなくなったからね、もうお台場には行かないんだ」

お台場に、写生と釣りに適当な場所が、はたして残っているかどうかも怪しい時代になった。そして、その数年後、先生は88歳で亡くなられた。


2011年07月

 ちょうど一年前の六月中旬、午後2時半ころ、拙店のテラスに座られた横須賀のIさんが、目の前のクルミの木のウロに、なにか動くもの、生き物が見えるとおっしゃった。

「えっ? 動くもの?」四六時中森をながめている自分たちには、まったく意外な発見だった。目をこらして、そのウロを見ると、たしかに動くものがいる。サル? モモンガ? アライグマ? テン? タヌキ? ピンクの鼻、グレーのふわっとした体毛、眠そうな目、いったいなに?

 お客さん四人とわたしたち店の二人は、ああでもない、こうでもないと、そのウロに釘付けになったが、結論はでない。こうなったら、自然映像カメラマンの伊藤さんにうかがうしかないと、さっそく電話をしてみた。

 いつも山麓の奥深く、分け入って長時間撮影されている伊藤さんが、なんとその日にかぎって、とても近くの湖畔にいらした。事情を話すと、「すぐ行きまーす」とのご返事。

その後、わずか三分で到着された伊藤さんは、ハイビジョンの大型カメラをかついで入店。わたしたちが、ウロの場所を指す前に、ご自分であっというまに発見。

「あっ、ムササビです」伊藤さんのその平然とした声は、まるでレントゲン写真をかざす医者の、自信たっぷりな診断みたいだった。

「ムササビ!?」診断をくだされた患者一同騒然!

 伊藤さん曰く、夜行性のムササビが、午後のこの時間にウロから顔を出すのは、たいへん珍しいそうで、さっそく彼はカメラを廻す。

その珍しい生き物を、はじめて目の当たりにしたギャラリーは、モニターをのぞきながら、ムササビの眠そうだが、それでもなにが気になるのか、体をひんぱんに動かす姿を、固唾を呑んで見つめる。

 日曜日だったので、午後のティータイムに、数名のお客さんがみえたが、店の中からは「シー」と口に指をたてられた。なにごとかと、怪訝に入店されたお客さんたちも、やがて事情がわかり、みんなリアルタイムのムササビに夢中? になってくださった。しかし、おしゃべりもゆるしてもらえない、とんでもない無礼な店にはちがいなかった。

 キュート、チャーミング、かわゆい、口々に形容詞がとびだし、まるでアイドルの撮影現場のような、昂揚とした空気が広がる店内。

 発見者のIさんも満足げなお顔。忘れられない午後となった。ムササビはきっと、夜には外出したのだろうが、それを見届けることはできなかった。特殊照明を用いてまで、無理に撮影をしたくないという、伊藤カメラマンのモラルを尊重し、撮影は夕暮れのとばりとともに終了した。

 その後、ムササビはしばらく、どこかに外泊をつづけたが、八月下旬に73日ぶりに姿をあらわし、わたしには歓喜の再会の朝となった。不思議なのは、その翌日、発見者のIさんが、前日の再会を知らずに、ふと拙店におみえになった。なんと、上野動物園で買ってきてくださった、モモンガ(ムササビより小型)のぬいぐるみを、拙店へのお土産に。

 伊藤カメラマンの撮影したムササビは、地方局での彼の番組に、ちゃんと出演してデビューをはたし、わたしたちはステージ・ファミリーみたいな、こそばゆい気分にひたった。

 店では、10倍という精密で高価な双眼鏡を購入し、ムササビの観察に力がはいった。それを感知したのか、三日に一度はウロに帰宅するムササビであった。朝一番に、彼だか彼女だかのふわっとしたグレーの背中が、ウロの下部に見えると、わたしたち人間は、なんともいえない幸福感に満たされ、新品の双眼鏡を酷使して、ムササビのウロをレンズを通して追うのだった。しかし、ここは本宅なのか? 別宅なのか? ・・・・未だにわからない。

 昼間はほとんど眠っているムササビではあったが、ときおり、近くの樹木をリスが上り下りすると、警戒心からか、眠そうな目をあけて、もそもそ動こうとする。危険から身を守る、大事な行動なのかもしれないが、観察者には実にユーモラスでチャーミングなしぐさであった。

 そして、忘れもしない2010年9月8日の大雨。静岡県の小山(おやま)と山中湖が、その降水量と土砂崩れ災害で、全国ニュースに登場したその日を境に、ムササビはウロにもどらなくなった。ウロが浸水した理由で、他所に移動したかと思ったが、ウロがとっくに乾いたと思われる年末にも結局もどらない。夜中に聞こえていた、カラスのウガイのような、ぐるぐるしたムササビの鳴き声も聞こえなくなった。

あれから約10ヶ月、その間、さらなる豪雨や積雪、台風や地震、さまざまな自然現象がこの地域をおそったが、ウロは空っぽのまま。あのムササビはどこにいるのか、今もってまったく行方がわからない。

 それでも、わたしは毎朝、あのウロを確認してから、自分の一日をはじめることにしている。

「ムーちゃーん」岸壁の母になったような気もちで、あてのない彼方へ呼びかける。ウロは、相変わらず真っ暗で、茂った葉がゆれ、時おり、リスや野鳥たちがのぞいては通り過ぎる。

10ヶ月間もずっと、〈空き室あり〉とは、あまりにもさびしいじゃないの! こちらの胸にあるウロもまた、真っ暗でぽっかりと空いたまま、きょうも刻々と時がすぎる。
 


2011年06月

 自らのユーモアをまったく自覚しない、すっとんきょうで天真爛漫な叔母がいた。亡き父の実妹で、ついさきごろ、83歳で亡くなった。その叔母をモデルに、山と語られたエピソードを基にしてわたしが書いた小説「はんこやの女房」が、今から12年も前に、やまなし文学賞の佳作に入選して、山梨日々新聞で24回にわたって連載された。

表彰式で、当時審査員だった故三浦哲郎氏が、「おもしろかったよ」と評してくださったことが、そして「でもね、今後はしばらくユーモア小説は書かないほうがいい。ユーモアを書く人間は、ついつい筆が進んで、そのうちそれが嫌味に変化するのに気づかないおそれがある」と、大事なアドヴァイスまでしてくださったことを、ありがたく思い出す。

もちろん、わたしはそのアドヴァイスを頑なに守っている。あえてユーモアを回避しようと、若干、意識しすぎているかもしれない。

 モデルになった叔母は、極度の近視で物が見えにくいという理由で早合点をし、数々の失敗をおかし、それが奇想天外だったために、いつも周りの笑いをさそった。例えば、浜名湖の土産にうなぎのかばやきをもらったので、夕食にしっかりご飯を炊いて、さて、かばやきを暖めようとして箱を開けたら、うなぎパイだったという話や、温泉に行って、脱衣場があまりにも混雑しているので、湯船もさぞいっぱいだろうと早々に着替えたら、それは脱衣場にある大鏡に写っていた自分たちグループの姿だったという、ばかばかしい話。また、これは哀しすぎて書けなかったのだが、38歳で亡くなった叔母の長男(わたしには従兄弟)のアパートに、彼の葬儀をすませて引越し整理に行った帰り、トラックの助手席からその部屋の窓に向かって「さようなら、さようなら」と手をふったつもりが、それはまったく別の部屋の窓だったという泣ける描写もあった。

 そうした失敗談を、あっけらかんと語る彼女に、だれもが泣き笑いで聞き入ったものだった。そして、ここ数年間は、アルツハイマーから認知症、夜間徘徊を経て、ほとんど寝たきりの状態になり、3・11の大震災のときも、自宅のベッドでまったく揺れを感知せず、その数日後に安らかに息をひきとった。最期まで自宅介護をしつづけた87歳の叔父には、脱帽と同時に感謝でいっぱいの親類一同だった。

 そして無事に四十九日の法要が済み、香典返しが送られてきた。前日にたまたま実家で見たその包みは、上等なカニ缶と焼き海苔の詰め合わせだったので、母がわたしにカニ缶をもたせようとした。

「きっと、うちにも届いているかもしれないから、いいわよ」と遠慮して、山中湖にもどってきたら、はたして宅配のお兄ちゃんが、同じ大きさと重さのデパートの包みをとどけてくれた。

「来週、F子さんが来るから、このカニ缶で大判の芙蓉蟹(カニ玉)をつくるわ」と、わたし。

「そりゃあ、いい」と、夫。

「薄味のあんを、たっぷりかけて・・・・ああ、楽しみ」と、同席の知人。

 そして、数日後、新鮮な卵が手に入ったので、さあ、カニ、カニ、と香典返しの箱を開けてみたら・・・・・

 それは、ごていねいに数々の小瓶に入った、上等のふりかけ詰め合わせだった。まぐろ、しらす、たらこ、そしてもちろんカニもあった。しかし、カニのふりかけでは、芙蓉蟹は・・・・つくれないだろうなあ。

 がっかりするわたしに、夫は苦笑した。「香典の額のちがいを考えてみろ、それにうなぎパイの教訓はどうなった?」。ほんとうに、そのとおりだった。カニ缶であるはずがなかった。

芙蓉蟹はまぼろしになってしまったが、その顛末がいかにも叔母さんらしく、わたしはしばし幸せな気もちになれた。〈叔母さん、最後の最後まで、やってくれましたね! 認知症のふりをして、しっかりシナリオを練っていたなんて!〉

その後、芙蓉蟹をごちそうするはずだったF子さんは、のっぴきならない急用で、わが家には来られなくなったという落ちまでついた。

さらにその後、わが家の食卓では、当たり前のように、ふりかけ小瓶が大活躍している。つまり、叔母さんの遠隔操作は、まだまだ現在進行中なのだ。


2011年05月

昨秋から今冬にかけて、ヘブライ語で書かれた児童文学、一般文学の書物を、のべ20冊以上読むことができた。直接現地の書店に注文したり、あるいは現地の翻訳協会や友人に送ってもらった本がほとんどだが、ITのおかげで、そのうちの3冊分は、パソコンを通じて送られたPDFをこちらでプリントアウトして読み、わりと楽しめた。しかし、日本語への翻訳となると、やはり立ちどまってしまう内容が多く、日本人には面白くない、あるいは分かりにくいだろうという理由で、なかなか一歩前に出なかった。

子どもに恵まれないアラブ系イスラエル人夫婦が、正統派ユダヤ教徒の子どもを養子として育てるという奇想天外な設定の物語は、一般の日本の読者にはきっと、その複雑な状況がわかりにくいにちがいない。

イスラエル国内のアラブ村選挙戦の物語も、日本人にはやはり遠すぎて、村の様子が描けないかもしれない。

諜報部員の立ち回りも、欧米のスパイ小説より舞台がせまくなり、そこに民族、宗教、恋愛がからんでくると、社会背景の注釈がかなり必要になってくる。

また、シンプルな物語でも、外国人労働者たちを明らかに愚弄した表現に出会うと、残念だが、物語全体への糸が一気にゆるんでしまった。ヨーロッパの階級意識が、まだこんなところに燻っているのだろうか? と。

その中で、〈これを訳してみたい〉と思わせる一冊に、久しぶりに出逢えた。中高生から大人までを対象とした児童文学で、すでに拙訳で出版された「コルドバをあとにして」の続編となる、「ボルドーの少年」(仮題)、著者は同じくドリット・オルガッド氏。

続編なのだが、きちんと独立した物語で、17世紀の地中海が舞台となっている。カトリック教会の異端審問が背景だが、おぞましい描写はあえて避けられ、オスマン帝国のムスリムの海賊やプロテスタントの船長などが主人公を支え、あの時代にあって、宗教を超えた友情や男気あふれる人間愛が描かれている。著者は、この作品を書くために、地中海のコルシカ島、クレタ島、マルタ島へと、こまめに取材の足をのばしたという。

わたしはこの冬、ウズベキスタンの旅から帰国後、一気にこの全訳にかかり、3月10日に400字原稿用紙230枚換算の下訳を仕上げることができた。実は旅の道中、この原書を片時もはなさず、厳冬のサマルカンドでは、ホテルの雪窓を前に、ぜいたくな読書で半日をすごした。

はたして出版業界の今後がどうなるのか、まったくわからない昨今、見えない将来だが、いつの日か活字になってくれれば、艱難辛苦にある中高生や大人の読者をじゅうぶんに力づけてくれるはずだと、ひたすら願っている。

そして、今後も良い作品に出逢えるよう、目の前にカタログや書物を積みあげては、余震のたびに両手でしっかりガードする日々でもある。


2011年04月

大震災後、12日目に思う。
気休めは、言わないようにしたい。
強がりも皮肉も、言わないようにしたい。
じっくり言葉を練り、必要な言葉だけを発したい。


余計な奇麗事やおべんちゃらも、やめよう。
平べったい同情なら、言葉にしないほうがいい。
形はとても大事だけど、いつのまにか中身がぬけたかもしれない。


ギャグだけを考えようとする、その頭の回路を、ぜひ断ちたい。
ダジャレも、すでに食傷気味。
ある時から、テレビのお笑いの影響なのか、
対話ではなく、ギャグをギャグで返す冷たい文化が、
この国で生まれ、ますます広まり、
だれも制止できないで、ここまできてしまった。
ほんとうに優しい人とは、なんなのか、
ほんとうに面白い人とは、なんなのか、
ほんとうに楽しい事とは、なんなのか、
ほんとうの笑いとは、なんなのか、
今ここで転換、復興しないで、いつできる?


今こそ、ほんとうの言葉を生み出せるよう
だれもがその手を胸に当て、
じっくり想念を沈殿させ、
静かに坐ってみたい。


思いつきのコメントは、どうか活字にしないでほしい。
無駄なツイッターを、どうか無視してほしい。
それが本心かどうか、じっくり練ってから
慎重に言葉を発してほしい。
邪念に満ちた本音は、ときには自分をも敵にすると思う。


被災地の人間模様から、安っぽいドラマを、つくらないでほしい。
涙は、こんなに大量生産できるもの?
安易な英雄伝も、つくらないでほしい。
ほんとうに、伝えるべきことだけを伝えてほしい。


そして、自分たちも、
ほんとうに必要な情報だけを、聞くことができるよう、
肝心な言葉だけを、発することができるよう、
真摯に、対話することができるよう、
もう、おそいかもしれないが・・・・
今こそ、胆力をつけて、本気で言語に向き合いたい。
大震災後、すでに14日目、きょうも切にそう思う。


2011年03月

 今冬は、ウズベキスタンという、約20年前に旧ソ連から独立した中央アジアの国を、二週間かけて旅行してきた。事前に予約したのは、往復の飛行機と数日分のホテルだけで、あとは鉄道、タクシー、ホテルなどを現地で予約、調達してすすんだ。

 首都のタシケントは成田からの直行便で約8時間、旧ソ連時代の巨大な建物がならぶ大都会だが、そこから、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァと西へすすむほど、気候も寒冷化して、街がだんだん小さくなり、暮らし向きも貧しく、大都会では見えなかった人間ひとりひとりの顔がはっきりしてきた。

 ペルシャ系、ロシア系、トルコ系、モンゴル系、朝鮮系、それに近隣のタジク系など、実にさまざまな人種が、かつての租界で住み分けをして暮らしている。だいたい、わたしたち旅行者が訪ねたいスポットは、新市街ではなく旧市街にあるので、その迷路のような路地をさまよいながら、人々の暮らしを垣間見ることになる。

 外気温マイナス10度の中、人通りのすくない路地のつきあたりで、みかん箱大の屋台をはり、タバコを一本から売るおばあさん、編み物をしながら、かなり古い欧米の化粧品もならべている。タバコはちっとも減らないけれど、おばあさんの両手にかかる毛糸は、しだいに靴下の形になっていく。

 上下水道が完備されていない街で、水くみは子どもの仕事らしい。学校から帰った10歳くらいの女の子が、ポリ缶に水をくんで、マンホールと家とを何度も往復する。くったくのない笑顔にはげまされる。

 たまたま出合った結婚式の行列、真っ白なウエディングドレスとタキシードの新郎新婦は、街のモスクにはいり、司祭の前でひざまづいて祝福をうける。専属のビデオカメラマンが、彼らを追い、ついでに日本人のわれわれにまでファインダーを向ける。とっさに調べたウズベク語で〈おめでとう〉を投げたけど、どうやら通じなかったらしい。

 家庭用の平たいナンを、家の外にある土釜で焼く女たち。商売柄、近づいて見学させてもらうと、気のいい娘さんが焼きたてのナンを一枚くれた。母親と娘と嫁さんだというその三人は、それぞれ手際よく分業で、世間話をしながら、練る、のばす、模様入れ、釜いれと、つぎつぎと大型のナンを焼いていく。その小麦の香りが、小さな路地に当たり前のようにただよう夕ぐれ。おそらく、数日分の主食になるのだろう。

 かつて、シベリヤから強制労働で各地に送られ、厳冬の中、力尽きて帰国できなかった旧日本兵の墓地。どんなに無念だっただろうか。79基の墓石に刻まれた名前に手を合わせ、日本から持参した線香を一本ずつ立てて静かに墓地を歩く。墓守のロシア人がていねいに墓地を掃き、わたしが彼に一礼、彼もわたしに一礼。黒澤明監督の〈デルスウザーラ〉を思い出させる、小柄だが重厚で実直な墓守だった。

 二週間の日程のうち、たった一日だけ日本語ガイドさんをお願いした。当日の朝あらわれた、長身のすてきなAさん。ウズベク人だが、現地の外国語大学で日本語を学び、その後京都大学に一年留学したというが、敬語まできちんと使いこなせる語学力、各分野にわたるその知識、数々のモスクの解説は明解で絶品だった。わずか26歳だそうで、わたしたちはおどろいた。優秀な頭脳が、人格にまでにじみでるのは、やはり努力と謙遜によるものだろう。すばらしいダイヤの原石に出会ったような、雪のサマルカンドの一日だった。

 旅を終えて、すでに一ヶ月以上もたつ。地図を片手に迷い迷ったわたしたちを、意味不明なロシア語で一生懸命説明して助けてくれた現地の人々、キリル文字が読めないので、立ち往生した街角の風景が、今も鮮明に思い出される。歩いて、歩いて、なんだか毎日歩きつづけたけど、その距離は大シルクロードでは点にもならない。しかし、かつての隊商の壮大な視野の一端を、少しだけ共有できた思いがけない体験。途方にくれても、かならずや解決策にめぐりあえる。これも、貴重な体験だった。


2011年02月

 2008年3月の、このモノローグで書かせてもらった福島県の僻地で暮らすN夫婦から、今年も手書きの年賀状をいただいた。

 三年前の1月に、わたしたちが彼らを訪ねたとき、彼らは村の廃屋を改造した、すき間だらけの傾いた家で、たくましくも穏やかに、そして和やかに暮らしていた。彼らの家にはテレビ、パソコン、ファクスがなく、ダイヤル式の電話機だけ。4歳と2歳の幼な子がいるのに、お風呂は近所の(といっても、近所はちっとも近所ではなかったが)もらい湯、トイレは自作の水洗肥料式で、暖房は薪と炭でわずかな暖をとっていた。

 雪景色の中で、真っ赤になったしもやけの手を丸めて遊ぶ子どもたちの姿が、今も焼きついている。彼らのおやつは、軒に下がった干し柿だった。

雪深い村のため、お産婆さんがお産は夏にしてくれと言ったので、8月に三番目が生まれるんです、と笑ったN子さん。すごいなあ、とあれからずっと思っている、このおばさん、文化生活にどっぷり浸かって、当分というか生涯抜けられそうにない。今も電気コタツに足をつっこみ、パソコンのワード画面とにらめっこしている。お風呂のお湯は、ボイラーが沸かしてくれるし、ご飯も炊飯器が炊いてくれる。

わたしが、のーんびりしたN子さんと知り合ったのは約18年前、その後彼女は、同じ福祉施設の職員として働く、やはり物静かでおーっとーりしたN男君と出逢い、ふたりは結婚したのだが、まさかこんなに底力のあるとは、当時は想像だにしなかった。年齢は、わたしのほうが20歳以上も上だが、人生の先輩はどちらなのか、一目瞭然になった。

 あれからほぼ三年、N家の三番目の子は、もうとっくに歩いて喋っているはず。壁から吹き込むすきま風は、少なくなっただろうか? つむぎという名のヤギは、今もあの納屋で乳絞りを待っているだろうか? ラジオくらいは、入れたかな? 一年生になった長男は、学校でどうやってテレビの話題につきあっているだろう? あの「北の国から」の五郎さん宅だって、テレビとお風呂はあった。でも、お母さんがいなかったっけ。

 今年の年賀状によると、N家ではやっと五右衛門風呂の設置にこぎつけたそうだ。そして、この2月に、なんと四番目の子どもが誕生するという。お産婆さんは、真冬には来られないから、わたしははらはらしている。だいじょうぶなんだろうか? N男くん、うまくとりあげてくれるだろうか? どうして夏に計画しなかったの? なんて、野暮なことを考える。

 モンスターなんとかが声高に登場する世の中で、N家のような、こんな家族もいるということが、わたしには大きな励みだが、だんだんそれが誇りに思えてきた。N家を訪ねた、あの1月の、とびきり寒かったけど暖かかった、このパラドックスを、自分の言葉で表わせたら、どんなにいいだろう。

 でも、N子さんがすかさず言うにちがいない。「どうしてそれが、パラドックスなんですか?」って。そう、彼らにとっては、当たり前のことをして、当たり前に暮らしているのだから、特別でも逆説でもないはずだ。先輩面していたのが、いつのまにか追い越されてしまったのは、いったいいつだったのか? おばさんは、ついつい虚しいことも考える。

 


2011年01月

 昨年の、ちょうど今ごろだったか、はじめて来店されたKさんが、薪ストーブのそばで、ひとつのエピソードを語ってくれた。燃えさかるストーブの勢いに誘われたかのように、突如はじまったそのお話は、その場に居合わせたほかのお客さんの耳をも、とりこにする不思議な魅力に満ちていた。けっして冒険物ではなく、喜劇でも悲劇でもない、どこにでもありそうな話なのだが、しばらくの間、拙店での語り種だった。

 Kさんが少年だったころ、おそらく昭和50年代前半だと思われる。父親の転勤に伴って、彼は家族と共に釧路に引っ越した。北の果ての地、はじめて冬を越すに当たり、借家の大家さんから、「雪が降る前に、庭のつつじを、土中に埋めてください。そして、春になったら、また地上に植え替えてください」との申し渡しがあったという。こういう申し渡しを、現代の家族だったら、いったいどういう受けとめ方をするだろうか? と、わたしはまず考えた。

 あるいは、自分がもし申し渡された立場だったら、どうしただろうか? 疑うというより、埋めることの必要性を、周囲に尋ねまわって、判断するにちがいない。つつじがはたして何本あったか知らないが、たとえ一本であっても、土中に埋めるには、相当の大きさの穴を掘らなくてはならないからだ。   

 おどろいたことに、Kさんの家族は言われたとおり、冬の到来前、庭に深い穴を掘り、つつじを埋め、春には再び地上に植え替えることを数年間つづけたという。大屋さんの申し渡しを、忠実に守ったのだ。まず、そのことに注目した。その行為だけで、彼らの釧路での暮らしぶりが想像できる。地元を尊び逆らわず、寒さに耐え、家族で協力し合って慣れない極寒を越えたのだ、きっと。

 その後、彼の父親は転勤になり、家族は釧路を後にして、新潟市に引っ越した。中学生になったK少年は、引っ越してすぐに、市内の街路樹につつじがあるのを発見した。「あのつつじは、いったいだれが埋めるのだろう?」と思いはじめ、季節が移り変わると、心配で心配でならなかったという。「ああ、どうしよう。もうすぐ、雪が降るというのに」

 極寒地から移り住んだ少年がひとり、まだ馴染みの友人もなく、不安におしつぶされそうになりながらも、街路樹のつつじを目の前に立ち尽くす。「いったい、だれがつつじを埋めるのだろう?」と。

 聞く者には、その姿がはっきりと浮かぶのだった。少年の、そのいたいけな心情にこころが動かされる。〈そうよ、早くしないと雪が降る〉

そのうち、新潟市内にも雪が降りはじめ、それでも、つつじはそのままだった。

 やがて、少年は当然の事情を知るのだが、つつじへの思いは、あれから数十年たっても忘れがたく、さらにこうして生き生きと言葉になって語られる。

 その話を聞いて以来、わたしでさえ、つつじを見る目がかわってきた。つつじを見ると。いつのまにかその木がすっぽりと入る穴の大きさを、頭の中で測っている自分におどろく。

 Kさんの来店から、すでに一年以上たつというのに、描かれる家族とK少年の姿はちっとも色あせず、今もこうして、わたしのこころを温めてくれる。

 大人になってしまえば、当然なことでも、少年少女のこころの中では、思いもかけない疑問が生じ、胸を焦がすほど煮詰めていく。それも、ほとんどの場合、口に出さずにいるわけだから、大人より深く尊い内面を抱えているかもしれない。

 自分にも、そういう時代があったはずなのに、上部だけの大人の暮らしに慣れすぎて、ほとんど忘れてしまった。Kさんのお話で呼び起こされたのは、自分の中ですでに石灰化した、そういう部分だったような気もする。


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