☆ 樋口範子のモノローグ(2012年版) ☆

更新日: 2012年05月28日  
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2011年版 <=

2012年06月

 今年3月下旬の重たい雪で、この地域一帯の樹木の幹や枝が、大きな被害をうけた。あるものは根元から折れ、あるものは小枝をぜんぶそがれ、巷の春風とは裏腹に、無残な姿をさらしていた。湖畔一周道路にかぶさった大小の枝は、安全上早々に取り払われたが、奥まった公有地や私有地の幹や枝は、今もなお放置されたままでいる。

 我が家の庭でも何本かの枝が折れ、高所には手が届かないので、策のないまま放置してあり、それが四六時中目に入ると、いたく気がめいった。そのうちの半分は、すでに枯れ枝になってしまったが、残りの数本には、けなげにも葉が出て、逆さになった大枝の形で薫風に吹かれている。

 映像カメラマンの伊藤さんが立ち寄られて、しばしその逆さの大枝に目をやって、「葉がひっくり返っているのがわかりますか?」と訊かれた。とっさに、その意味がわからない自分たちだったが、よくよく目をこらすと、逆さになった大枝の葉は、裏返しではなかった。つまり、葉は光合成できるように、ちゃんと天を向いているのである。四六時中見ているつもりで、実はなにも見ていず、自分たちの乏しい思考回路で、〈可哀想になあ、なんとか元の形に直せないだろうか〉が、精一杯だった。

 その場所を動かない植物の知恵と実践に、あらためて舌を巻いた午後だった。長く膨大な植物の歴史は、こうして今もなお、生き延びる知恵を編み出し、人知れず闘いぬいている。

「だれの命令かわかりませんがね」伊藤カメラマンは、くったくなく笑った。

 大雪で折れた後、おそらく発芽時期になって、天が逆さにあることに気づいた芽が、ねじれて伸びることにし、そのとなりの芽も、〈ぼくもそうしよう〉と決心し、〈ぼくも、ぼくも〉と連鎖反応がおきて、ついに全体の芽が裏返しに伸びた結果、見事に光合成がうまくいった、ということだろうか? もの言わぬ命の威力に圧倒されて、陽が暮れかかる。

「ですから」伊藤さんは、重要なことを、どうしてこうさらりと言えるのだろうか? 「今から、あの枝を元にもどそうなんて、思わないでくださいね。彼らが混乱しますから」

 そのとおり。浅はかな人間の知恵で、どれだけの植物の尊厳を傷つけてきたのかが、思い測られる。もしかして、夫が発作的に枝を修正しようと木登りして、運悪く落下するのではないかという、個人的な危惧もぬぐわれたわけだが、そんなつまらない心配も、樹木の前では、恥ずかしい。それでも、樹木は呆れた顔ひとつせず、今の今を生きようと、天を向く。新緑はまさに、その勢いにふさわしい色に感じられた。



2012年05月

 長年、自然を撮り続けている映像カメラマンさんにガイドをお願いしての山麓歩き、山麓探偵団に参加した。

 静岡県の小山町にある、名もない雑木林の1.5キロを、なんと4時間かけて総勢9名ののっそり寄り道隊が歩いた。もちろん、ほかのだれとも出会わなかった。

 まずは、道端の春蘭からスタート。前日に下見をされたガイドさんが、盗掘されてはいけないからと、そっと小枝をかぶせておいてくれたので、無事に御目文字。色といい姿といい、蘭の気高さをじゅうぶんに納得。その後、雑木林に足を踏み入れると、ウグイスカグラ、ツルカノコソウ、セントウソウにはじまって、つぎつぎと春の芽吹きに遭遇。冬芽が日本三大美芽といわれるコクサギにも初対面。

 すかし俵と呼ばれる、クスサンの網繭や、うす緑色の山繭を目にしながら、しばし蛾や寄生についての奇想天外な話。コモリグモ、ワカバグモを一時捕獲してのクモ談義、はてはオナガグモの松葉擬態をじっさいに目の前にして、みなさん絶句。ふだん接することのない小さな生き物たちの、巧みな生き延び術におそれいるしかなかった。クモの生態は、機会あるごとにそのガイドさんから聞いてはいたが、あまりにも多種にわたって無数の生態があるためか、こうして毎回新鮮な情報となって、自分たちのなにかを刺激する。

シジュウカラのさえずりを耳元に、さらに足をすすめると、保護色に身を染めたアマガエルやヤマアカガエルがあわててジャンプして、われわれの頬をゆるませる。いつしか、みんな夢中になって、枯れ草の地面に目をはわせていた。

芽吹きばかりではなく、ドングリの根吹きを発見、すでに芽は双葉に、根は地中にしっかり張っている。そのうち、肉厚の双葉を栄養に、成長するのだという。

スギ花粉や毛虫苦手な面々も、雑木林で過ごす時間とともに、樹木に対して嫌悪より魅力のほうが勝っていくとしたら、なんてステキな時間。

やがて夕方になり、わたしたちは林をぬけ、車道にもどった。後ろの方で、だれかがふと言った。「みんな、がんばって生きているのね」

もうひとりが、「オケラだって、ミミズだっての、あの歌よ」と付け加えた。わたしも内心、〈手のひらを太陽に〉のあの歌詞をなぞっていた。「みんな、みんな、生きているんだ」まできて、そのつぎに本来なら「友だちなんだ」がつづくのだが、思わず喉元でつかえた。

かつて、日本中が浮かれていた時代は、自然界の小さな生き物たちを友だちだと呼んで、だれもおかしいとは思わなかったが、今はそんな軽い言葉では呼べないのを、みんな感じているにちがいない。フェイスブックの友達、アメリカの友だち作戦、友だちはますます軽くなった。

さて、友だちではない彼らを、なんと呼べばいいのか? 隣人だという人もいるだろうし、同志ではないが同士だという人もいるだろう、仲間だという人もいるだろう。少なくとも、友だちではない彼らの、必死で生きるすがたが、こうして里にもどったあとも、まぶたにはっきりと浮かぶ。

山繭をひとつ、ポケットにしのばせてきた。耳元でふると、なんだか小石のような音がカラカラする。繭に穴がないので、本来の山繭蛾は羽化できなかった。きっと寄生されたにちがいないので、中からいつ寄生バチが出てきてもいいように、蓋つきの虫かごに入れて、部屋のすみに置いた。さて、そのうち出てくるだろう寄生バチを、わたしはなんと呼ぼうか?


2012年04月

 今から六年前の9月、友人のエツコさんが拙店を訪れて、たわいない話をしたあと、「実はね、来週大腸がんの手術で入院するから、退院したらまた来るわね」と、別れ際に早口で言った。

 顔色もよく、食欲もいつもと変わりなかったので、「じゃあ、待ってるからね」と手をふり、彼女の車を見送った。一人っ子で、生涯独身をとおし、八十代の二親を見送ってからも、大きな家に独りで暮らしていた。昔から勉強が好きで、大学院を出てからは、失語症治療の言語療法士として老人病院で働き、その合間にいくつかの外国語の習得、短歌も学んでいた。手術後に電話がきて、退院したのだが、体調がすぐれないので、また近く入院すると言った。理由はわからないが、抗がん治療を拒んだのだという。

再入院する前に、母校でお世話になったS先生にぜひとも御目文字をと、90歳の恩師を訪ねて、浦安の老人施設まで行ってきたという。

「先生とふたりで、江戸川のほとりを歩いたのよ」彼女は、うれしそうに電話口で話した。

 その数日後に、再入院した彼女を、わたしははじめて見舞いに上京した。まだ顔色はよかったが、両足には水がたまって、象さんのようだった。彼女は他人事みたいに、医者から余命あと一ヶ月だと告げられたと言った。さらに「それを告知されたのは、一ヶ月前だけど」とつけたして、わたしを狼狽させた。

 どう返答していいのかと迷うわたしの脇で、彼女は自分で酸素マスクを外してアイスクリームを口にはこび、ラジオのドイツ語講座のテキストをめくっていた。そして、その数時間後、彼女は医者の予測どおり、あっけなく逝ってしまった。

 エツコさんは、二親を見送った時点で、けっきょく天涯孤独になり、自分の余命を告げられた時点で、自らの葬儀の手配や相続を、専門の窓口に依頼していたらしい。葬儀に呼ぶ人名リストから、親から相続した財産寄付のあて先まで、きちんと手配して、車も売却し、パソコンのアドレスもすべて閉じたというから、その幕引きの潔さにおどろくというより、おそれいった。

 90歳のS先生の耳にも、彼女の訃報がはいったらしく、S先生からわたしに電話がきた。「わたしは自分が恥ずかしい。エツコさんと江戸川のほとりを歩いたとき、彼女は病気のことはなにも口にしなかった。それを察することが、自分にはできなかった。自分のほうが年寄りだから、ぜったい先に逝くと思い込んでいた。自分は教師なのに、生徒の心中がわからなかった。わたしはきょう、ひとりで江戸川のほとりを歩きながら、彼女にどう謝ったらいいのかを、ずっと考えた。考え抜いて、自分なりにケリをつけたので、今後一切わたしの前でエツコさんの話はしないでほしい。一周忌もなにも、一切おしえてくれなくていい。わかったね」と電話をきられた。

 わたしは、90歳のS先生の教師としての慈愛と誇りに圧倒され、しばらく口がきけないほどだった。エツコさんとS先生の、はからずも同じようにすぱっとしたケリのつけ方は、いったい何が根っこにあるのか、不思議でさえあった。

 昨年、S先生は96歳で天寿を全うされた。大病も認知症もなく、最期までご家族と言葉を交わしていらしたと聞き、最期の最後まで、ドイツ語講座のテキストをめくっていたエツコさんの姿に、美しく重なるものを感じた。ふたりとも、形あるものと、不可視のものとのちがいを、はっきりと見極める眼力をそなえ、この世を去るときには、そのどちらが大事なのかも、よくわかっていた。どちらも、今の自分にとっては、ぬきんでた先達にちがいない。


2012年03月

 T子さんと初めて会ったのは、今から12年前、富士吉田市のとある福祉施設の会場だった。たまたま、地域の福祉関係者の代表ということで、10数名の参加者の中、席順でとなり同士のご縁だった。たぶん同世代で、おだやかな雰囲気のT子さんのとなりは、会の小むずかしい内容から一息つける、たいへん居心地の良い席だった。会合の後、近くのレストランにおいて、懇親会をしますので、みなさん移動してくださいとのことで、T子さんは車の同乗をさそってくださった。

 T子さんは地元の方なので、地理に詳しいだろうと、同乗させてもらったのだが、彼女は「あれっ、おかしいなあ」と、車のハンドルを何度もきって、けっきょく二人で迷子になった。なんと、そのレストランは、福祉施設とは、ほんの目と鼻の先だったのだが、町中をさんざん走り回ってたどりついたとき、懇親会はすでに終盤で、わたしたちはみんなに呆れられて、笑われて、ふたりそろって〈極度の方向音痴〉のレッテルを貼られる羽目になった。T子さんは、恐縮しつつも、うふふと笑って、わたしを和ませた。

 その後、かかりつけの東京の歯科医が脳卒中で急死したので、わたしは地元の歯科医をさがすことになった。そのとき、評判の歯科医院を紹介してもらって出かけたら、なんと、あのT子さんが、白衣を着て患者の治療にあたっていて、うれしいやら、おどろくやらの再会となった。さいわい、歯科医の腕と方向音痴の性分はまったく関係ないことがわかり、それ以来ずっと、彼女はわたしの大事な歯科医なので、以下はT子先生と呼ぶことにしよう。

 T子先生の歯科医院は、歯科医が3名、衛生士が10名、技工士2名、事務員2名のたいへん大きな医院で、診察台が8台もある。歯科医特有の、あの金属製ドリルの音は、たしかに耳をかするのだが、世間話や笑い声や、T子先生のうふふが聞こえる、実に和やかな空間だ。いつだったか、「口をゆすいでください」という歯科助手の示唆に、いきなりガラガラとうがいをはじめたお年寄りがいて、診察室はおろか、待合室までもが大爆笑に沸いた。

 T子先生がすかさず「○○さんは、入れ歯が一本もなくて、それに歯医者に通ったことがないんですものね」と、フォロウして、うふふと小さく笑った。なるほど、歯科医に縁のない患者に口をゆすげと言ったら、うがいをするしかないだろう。

 ある日、待合室で若い知人に会った。彼女は、虫歯はないのに、年に一度はこの歯科に検診にくるという。その理由は、T子先生の人柄にあった。「あの先生に診てもらうと、なんだか、日々の悩みまで軽くなる」そうだ。「まるで、やさしいお母さんみたいなんだもの」

〈やさしいお母さん〉という表現をきいて、わたしも大いに納得した。そのとおり、T子先生は、お母さん先生の雰囲気がある。立ちっぱなしの長い治療時間、困難な治療内容にもめげず、T子先生はいつもゆったり、安心感をあたえてくれる。その安心感を求めて通う患者もいると知って、うれしくなった。ところが不思議というか、皮肉なことに、T子先生は独身なのだ。

 実生活では、お母さんではないのに、そういう特質をもった女性が他にもいる。となり村のK子さん。結婚はされているが、お子さんはいない。なのに、みんなのお母さんなのだ。わたしみたいに、実生活では失敗ばかりの、とんでも母まで、暖かく包容してくれる、やはり、みんなのお母さん。

 T子先生やK子さんが、もし実生活でもだれかのお母さんだったら、はたしてみんなのお母さんになれただろうか? とまで考えるようになった。

 この冬、わたしは自分の不注意によるケガで、ある整形外科病院に通院していた。ある日、大きなマスクをした患者が、危なげな足元で、リハビリ室から出てきた。あっ、T子先生と思ったけれど、いつもの泰然自若とした雰囲気がない。人違いかしらと思ったが、会計係が呼んだ名前で、やはりT子先生だとわかった。思い切ってお声かけしたら、ひどくばつが悪そうに、「肩があがらなくなってね。でも、ここの先生、いい先生でしょう。おかげで、だいぶ良くなったのよ」と答えられた。でも、うふふはなかった。歯科医師で肩があがらないというのは、ほんとうにつらいだろうと察せられた。

 その整形外科医の先生は、T子先生の言うとおり、権威にあぐらをかかず、患者を楽(らく)にしたいと願い、それを実践されているのが、にじみでてくる先生だった。みんなのお母さんであるT子先生も、病んだときには、こういう先生の元にかけつけるのだと知り、なぜかほっとした。

 そして、この外科医の先生も、歯痛に悩まされれば、きっとT子先生の歯科医院にかけつけるにちがいない。T子先生は、虫歯をかかえて手も足も出ない外科医の先生を見れば、またうふふと笑うだろうな。わたしはそんな場面を思いえがいて、本来なら緊張するはずの診察台の上で笑ってしまい、若い看護師さんに怪訝な顔をされた。


2012年02月

 正月明けに、小出裕章先生(京大原子炉実験所助教)の講演会が甲府であり、仲間に声をかけあって出かけた。ネット上で、かなりのレクチャーを耳にしているが、それでも先生の生のお声に接したいという願いが、会場にはあふれていたように思う。なんと2000席が満席で、おそらく山梨全県、また近隣の県からも足をはこんだ方々も多かった。

 放射能の科学的な数値やグラフはもとより、小出裕章というひとりの学者の生命哲学にまで言及された講演は、人の命や地球の歴史をあらためて考える上で、たいへん胸に落ちる二時間半だった。最後に、ふとジョンレノンの名を口にされた時は、はからずも涙がこみあげた。

 ところが残念なことに、途中で乳幼児の泣き声がかなり目立ち、泣いても退場しない様子が察せられた。もともと、3歳以下は入場不可であり、3歳以上にはわずか500円で託児室が設けられているはずだった。

 わたしは、自分が保母(現在は保育士という)の資格保持者なので、講演の1週間前に託児室のボランティアを申し出たのだが、託児室には講演のスピーカーがないというので、ボランティアはあきらめて、視聴者に徹した経緯があった。

 一階の3列目にすわれたので、先生の講演は一言もとりこぼさずにすんだのだが、背後から聞こえる乳幼児の泣き声は、またかと思わせるほど頻繁で、そのたびに気がなえた。乳幼児は、泣いたりぐずったりするのは当然で、特に午後になれば機嫌は下降をたどる。

 スタッフ側がルールを守らず、乳幼児をかかえた母親たちをなぜ入場させてしまったのだろう? ロビーにも大型スクリーンが設置されていて、そこにはソファもトイレもあり、乳幼児をかかえた母親たちが、じゅうぶんに講演を聴くことができるはずなのに。

 たしかに子どもたちは、社会全体で育み、目をかけていくものだが、講演会、コンサート、ライブ、朗読会など、大人たちが静かに時をすごす会場には、ちゃんとした線引きとルールがあり、それを守ってこそ子どもの人権が認められるのではないかと、常々思っている。それが守られないケースに多々遭遇するたび、お節介とはわかっていても、ていねいに、きわめて穏便に口を出すことにしている。「小さいお子さんは、ご遠慮願えないでしょうか」。それを、意地悪ととるのなら、もうどうしようもない。

 同僚だった保母は、都会で乳幼児を一時預かってもらうのは、たしかに不可能に近いほど難しいが、それでもだれかを探して頼むのも、これも育児のひとつだと言い切っている。頼ったり、お願いしたりするのは、面倒かもしれないが、ぜひともそこを超えてもらいたい。

 親類や近所や、子育て支援センターに、短時間でも乳幼児を預かってもらい、大人だけの時間をつくって、大人だけの場所に行くのは、母親にとっても社会にとっても大事なことだと思う。ちなみに拙店では、ふだんの営業中は乳幼児は大歓迎だが、年に一度の「大人のための絵本ライブ」と「楽器もちよりライブ」には、小学校高学年からのみの参加を募っている。さいわい、そのルールを伝えた上でのトラブルは、今までに一度もない。

 さて、ここでもうひとつお願いがある。わたしの時間的都合があえば、いつでも託児のボランティアに出向く準備でいるので、どこかで大事な会合、勉強会、音楽会などを催す場合、どうか、このおばさんを託児係に活用してほしい。


2012年01月

 大晦日の昼ごろ、目の前のクルミの木に小リスが三匹上り下りしているのを見た。どうやら遊んでいるようで、サルのようなキャッキャという声が聞こえる。三匹も、とおどろいていたら、近くにもう一匹いて、ウロの水を飲んでいる。すごい! 四匹もいる、とたまたま居合わせた甥っ子家族と、小躍りして双眼鏡をのぞいた。

春以来、リスの姿をほとんど見ることがなく、秋になってようやく数回見る程度だったので、この年末におよんでのリスの来訪はうれしかった。皮肉なことに、クルミは大豊作だったから、貯食するリスの数が少なく、森全体が寒々しかった。

わーあ、四匹もいる、とみんなで騒いでいたら、左奥のほうから、また一匹がやってくるではないか! ええっ? まさか、の五匹? 過去最高の勢ぞろいになった。親子なのか、兄弟なのか、それとも仲間なのかわからない。でも、全員小リスなので、もしかしたら、この春に誕生した新世代なのかもしれなかった。

やはり年末だったが、12月10日の皆既月食の晩、ぐうぜんにムササビを二匹も目撃。オレンジ色に変わっていく月をめでる、なかなか粋なムササビを、仲間七人で見上げたのだった。一昨年の9月8日の大雨以来、まったく姿を見せなくなったムササビだったが、声は何度か耳にした。特に昨年の9月下旬の夕暮れには、夕闇のお出まし時間に、あのカラスのウガイのような声を何度も聞き、木の上をさがしてもみた。しかし、なかなか巣穴がわからず、半ばあきらめていた矢先の目撃だったから、もしやの場合に備えておいた赤いセロファンでくるんだ懐中電灯の赤い光で必死に追った。うれしいというより、興奮の再会だった。

昨秋、たまたま食用に購入、到着した生きどじょうに交じって、我が家に来て、命をすくわれたオタマジャクシは、水が変わっても、たくましく元気に生きていた。しかし、たった一匹なので、自分がオタマジャクシだという自覚がないらしく、なかなか手足を出そうとしない。水温もさがり、このままだと凍死もまぬがれないので、思い切って、某水族館に里子に出した。

その日以降、仲間と仲良く暮らしているかなあ、ちゃんとごはん食べてるかなあ、と気になるけど、こちらの里心がつきそうなので、水族館には電話をしないことにした。

自分たちは、犬やネコのペットを飼ったことがなく、そしてたぶん、今後も飼う予定はない。でも、たまたま近くに暮らす小さな生き物たちに、こうして共に暮らすよろこびを分けてもらえて、ありがたい。

と思いきや、オタマジャクシと同じ水槽で出荷され、我が家に購入、到着した生きどじょうは、早々に日本酒に酔わせて丸煮して、笑顔で賞味をしたのは事実。小さな生き物たちとかなんとか言っておきながら、片方で疑いもせずに殺生する矛盾にも気づいている。食物連鎖という便利な口実で、けっしてくくれない人間の嗜好のエゴ。

命とは、なんぞや? 考えてもよくわからない。英語やヘブライ語では、〈命〉と〈暮らし〉、〈生活〉がそろって同じ単語(それぞれライフとハイーム)で、どちらも〈生きる〉の名詞だが、日本語では異なる、つまり〈生きる営み〉ではなく、〈生命〉または〈命〉という独立した単語なので、ついつい考えてしまう。

考えてもわからないこと、言葉にできないことが、幸か不幸か、大災害を体験してわかる、少しわかった、少しだけわかってしまった、という一年だったような気がする。人の命は、かつて考えていたような、とびぬけて高度な霊長類の特別な生命ではなく、大自然の中では、リスやムササビやオタマジャクシと、まったく同じ〈生きる営み〉であることが、やはりわかってしまった気がする。それが自分にわかったことは、不幸というより幸だったと思えてならない。


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