☆ 樋口範子のモノローグ(2010年版) ☆

更新日: 2010年11月28日  
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2010年12月

 11月中旬の店の定休日に、友人たちと夜叉神峠に登った。登ったといっても、登山口まで車で行き、そこから標高差400メートル弱を上がっただけなので、ハイキングと言ったほうがいいかもしれない。

 同じ山梨県内に30年以上住んでいても、芦安村に足を運んだのは初めてだった。深い渓谷の紅葉は、富士五湖畔の大勢に愛でられることに慣れた紅葉とは異なり、その色鮮やかなるも、地味で、武骨で、大胆だった。同じ樹木でも、根をおろす場所によって、その木の表情が異なるのは、人間もまた同じかもしれないと思った。

 大勢に注目され、多くの評価をえて、華やかにせわしく終える一生もあれば、大勢に注目され、多くの評価をえても、苦難多き内面をかかえて終わる一生もあるだろう。人知れず地味に生き存らえて、ささやかに感謝して終える一生もあれば、人知れず地味に生き存らえて、苦難多き内面をかかえて終わる一生もあるにちがいない。そのどちらにも、おそらく似たような重厚な中身がありながら、どこに根をおろすかで、人生の形が異なってくる。

 どのように生きたいかを望んでも、けっしてそのとおりにはいかないもので、これだけは避けて通りたいと望んでいても、運悪くはまってしまうことだってある。根をおろす場所は、自分で選んでいるように見えて、実は自力だけでは選べないのかもしれないと、樹木の根を横目で見ながら思った。

 山頂では、強風を避けて小さなテントを張り、その中で昼食をとった。テントの外では、にぎやかな中高年たちのおしゃべりが聞こえるが、どうやら寒いのでだれも長居はせず、入れ替わりが頻繁らしい。わたしたちは、暖かいテントの中で昼寝までしてしまい、やおら目をさまして外に出ると、なんと雪が舞っていた。まるで、すすきの穂のような細かい綿毛なのだが、手ですくいとるとぷわっと溶ける。山中湖村から来た者たちには、初雪だった。

 遠くの山々は、ずっと雲に隠れていたが、山頂の爽快感を満喫してテントをたたむ。下山道でも、美しい枝振りのカエデやケヤキを何本も目にして、微笑んだ。暗くなれば、闇に沈むだけの紅葉、ライトアップされることもない紅葉たちの、その当たり前の無垢な姿に励まされもした。ただそこにある、たくましさ、生きる力に感応できる、それも至福。

 芦安村から眺める富士山のシルエットは、整然と左右対称で、すそ野が長くひかれている。いったいなんの因果で、あの美しい山の麓に暮らしているのか、自分たちの根っこと言っては、あまりにももったいないその姿に、しばし目をうばわれた。富士山そのものの巨大な根は、特定の場所を超越して、孤高の存在感にあふれていた。誇示するでもなく、訴えるでもなく。

〈出かけるたびに、予想もつかない気づきがあるのは、あなたたち人間の特権だね〉と、渓谷の紅葉に見送られ、わたしたちは、広大なすそ野絨毯に乗り、強力に手繰り寄せられて、その麓に帰還した。絨毯は、空をとぶだけではない、と確信できた夕ぐれだった。


2010年11月

 10月中旬のこと。身内の見送りや見舞い、会合などの予定がはいり、東京で三連泊することになった。すでに秋風がふき、街路樹の葉も色づきはじめた街の景観は、なかなか洗練されて美しい。

多くの都会人たちは、ストレス発散に地方に出むき、いい空気を胸いっぱいすいこんでリフレッシュするというが、いい空気の元に暮らす地方特有のストレスに悩む田舎人たちは、いったいどこでリフレッシュするのか? 答えは簡単、都会の喧騒や雑踏、洗練やドライ気質も、その候補で妙薬なのだそうだ。

 以前は、そう発言する婦人たちを怪訝に思った自分ではあるが、最近ふと共感もあった。血縁ゆえに黙認される慣習の非常識や、不愉快なできごとは、根のない都会に足をふみいれたとたん、すかーっと消えはしないが、しばし遠のいてくれる。妙薬は、時には口に甘しかもしれないとさえ思った。

 今回も、公園や住宅街の細道を歩きながら、村中(むらなか)で感じていた、いくつかの憤りから、少しは解放された感があった。都会のかさかさした緑や園芸種に、意外にも励まされもした。

 二日目、身内の見舞いに向かう途中、鉄道のポイント故障による遅れに足をとられ、やれやれとの思いで目的地に着いた。とにかく到着できたのでほっとしたが、そのわずか3時間後の帰路に、またしても人が線路内に立ち入ったので安全確認をしますとのアナウンスで、列車は急停車した。そして10分ほど遅れた。

 三日目の朝、会合に出向く途中で、前日に乗車した路線で人身事故が起こり、いくつかの路線に遅れがでていると知り、この二日間に体験する鉄道事情に、いささかおどろきもした。もっとおどろいたのは、アナウンスを耳にする乗客たちの、実に慣れた態度だった。だれもが無表情で、困った様子も見せず、携帯電話を開いたり、腕を組んで目をつぶったりで、ため息をつく人は、ほとんどいなかった。

 その夕方、雑踏の中、わたしは渋谷駅の階段を降りていた。とつぜん、後ろの上段のほうで階段を踏み外した物音がし、男物の片方の靴がわたしの横に飛んできた。その瞬間、自分が一番意外で愕然としたのは、自分自身の思いだった。

 その瞬間、明らかに転んでいる人がいるのに、わたしは内心〈関わりたくない〉と思ったのだった。しかし、長年の習慣で、体はちゃんと上段を見上げ、階段を踏み外した男性を見ていた。でも、それだけだった。飛んできた靴は、そのままだったし、周りの人たちと同様、わたしは何も声かけをしなかったし、何の手助けもしなかった。転んだ40代のその男性も、まるで座席から立ち上がるように、何事もなかったように振舞おうと努力していた。

 そして、わたしはまた、雑踏にまぎれて次のホームに向かった。その晩ずっと、自分自身に憤りを感じて、後味が悪かった。すべてを都会のせいにはしたくなかったし、短絡的に田舎の人間関係を肯定したわけではないが、たった三日で無関心という病気に感染した自分が、情けなかった。そして、村に帰ってすでに数日はたつが、妙薬はやはり口に苦しかな? と思うようになった。


2010年10月

 御殿場須走の五合目駐車場から、徒歩で20分のところに小富士があり、そこに母を連れてはじめて行った。標高は1979メートルなので、心臓や肺に負担はかからず、五合目からの登り坂もなく、まさに一般向けハイキングコース。

 富士山頂をめざす登山客がほとんどなので、二軒の売店前を通って小富士方面に折れるのは、きのこ採りの常連さんか、小富士行きの数少ない客に限られる。

 山中湖は、9月にはいっても猛暑がつづいたので、五合目のひんやりした森の道が、とても心地よかった。苔むす木の根っこや、むきだしの岩石に悲鳴をあげる84歳の母を叱咤激励しながら、というより、あともう少しだからと、うまく騙しながら、なんとか小富士の頂上についた。

  実は8年前も、同じように母を騙して宝永火口に連れて行き、その壮大な景観に、道中の息切れがすべて報われたと感謝されたので、騙す後ろめたさはみじんもない。

 小富士の眼下に広かる山中湖、忍野村、富士吉田市、河口湖の地形と、その静寂な山麓風景、地の隅々までのびる道路、農道、黄金色の田畑、背後に連なる御坂山系、丹沢山系、だれもがその風景に目をうばわれて、じっと立ちつくす一瞬。ふと、後ろを振りかえれば、見慣れない形の富士山頂。

「ここは、もう富士山の中、だから、頂上があんな平たい形なのよ」と母に言うと、「へえー、わたしたち、富士山の中にいるのね」と、納得しつつ、今回もやはり感動。

 自分たちの住む村や自宅の周辺を、この夏新調したばかりの10倍の双眼鏡でのぞいて確認する。あんな鬱蒼とした大きな森の中で、毎日ちょこまか暮らしているのだ。井戸の蛙ならぬ、森のありんこ。

 そして、9月も半ば過ぎ、久々に長男家族、次男夫婦と親子4代で勢ぞろいした日の夕方、みんなで山中湖の遊覧船に乗った。35分間の乗船で、湖をほぼ一周してくれるのだが、山中湖をぐるっと囲む山なみ、山肌にへばりつく別荘地が一望に見え、また普段ぜったいに目にできない角度にある岬からママの森の湖岸が神秘的で意外だった。マリンスポーツに縁のない自分たちには、はじめて見る景色。こんなに美しいところに住んでいるのだと、嫁さんたちに無言で自慢できた。美観は、双眼鏡でのぞかなくてもわかる、というか、のぞかない方がよい場合もある。

「ほら、あの辺がおばあちゃんたちのお家よ」孫にも、一方向を指さしてみる。そのあと、夕方のさわやかな風の中、大きな遊覧船の甲板で並んで集合写真を撮った。

 小富士の頂上から、そして湖面から、この夏思いがけず眺めた自分たちの暮らす場所。緑の中に隠れた、今にも消えそうな小さな点に、なぜかほっとさせられた。あの点、今後もずっと隠れたままで、そのうち、きちんと消えてくれるかな。急激に気温のさがった9月下旬、猛暑がまるで夢だったかのように感じた日、できあがった集合写真を見ながらそう思った。

 


2010年09月

 数年前、友人と3人で伊豆に一泊旅行で行った。城ヶ崎海岸のつり橋を渡り、しばらく散策をしたかったのだが、中のひとりが早くも音をあげて、どこかで休もうと言う。

 仕方なく、彼女のひ弱な足につきあい、散策をあきらめたわたしたちは、一軒の店に入った。アクセサリーや小物を並べたしゃれた店内を、なにか掘り出し物はないかと、目を走らせていたが、ふとカウンターに目をやって、わたしは足が止まった。

 昭和43年3月に、イスラエルに向けていっしょに横浜港を発った仲間のひとりに、そっくりな男性がそこに立っていたからだった。〈左近さんに似ている〉。当時、たしか慶大在学中で、一年休学してのキブツ行きだった記憶がある。しかし、あれから30数年もたっていて、当時と同じ外見であるはずがないし、それに、風の便りに、左近さんはリュート奏者になったと聞いていたので、この店のカウンター内に立つはずもないと、自分の思いをすぐに取り消した。〈他人の空似って、あるものだ〉

 ところがなんと、店内に流れるBGMが、弦楽器の独奏で、ギターかリュートのどちらかであることに気づいたのだった。曲想がバロック調なので、リュートである可能性が高い。わたしはもう、店内の商品より、低く流れるBGMに気がひかれた。

〈ということは、きっと、左近さんの甥ごさんか、親類かもしれない〉それなら、似ていて当然で、リュートが流れているのもうなずける。

 わたしはカウンターに近づいて、その男性にたずねてみた。「この、今流れているのは、リュートですか?」

 彼は、不思議そうな目をして「リュートです。でも、ふつうの人は、ギターとリュートの区別はなかなかつかないものですが」と、怪訝そうに訊いた。

「実は、左近径介さんというリュート奏者が、昔の知り合いで・・・」と、わたしが言いかけると、彼がいきなり「それは、わたしです」と、大声で答えたのだった。

 わたしは、深くかぶっていた帽子をとり、「左近さん、わたしよ、わたし、いっしょにキブツに行った福島よ・・・」と、旧姓をなのった。

「あっ、ふくちゃんだ!」測らずも、30数年ぶりの再会をはたしたカウンターに、友人ふたりが、なにごとかとかけつけた。彼女たちに、くわしい説明をする間もなく、左近さんとわたしは、再会をなつかしんだ。

 彼にはキブツの暮らしが合わずに、早々にイスラエルを出国し、ドイツの音楽院に入学、そこでリュートを学び、帰国後は演奏活動と教授活動に専念しているという。たまたまその日は、ピアニストでもある奥さんの店を手伝って、そこに立っているということだった。おどろいたことに、彼のその奥さんは、わたしの高校の二年後輩だという。偶然は、ひとつだけではなかったのだ。

 さっそく彼の演奏CDをお土産にいただき、今度は山中湖で会いましょうと笑顔で別れ、同行の友人たちに、この奇跡的な再会のいきさつを話した。

「わたしが健脚だったら、きょうの再会はなかったわね」と、散策はやめて、どこかで休もうと提案した友人が、得意顔で言ってのけた。たしかに、そのとおりだった。30数年もたって、外見が変わらないというのも、大きな要因だった。

 あれから年賀状の交換がつづいた数年後、彼の奥さんから、左近さんが悪性リンパ種で、わずか59年の生涯をとじたことを知った。こんなことなら、無理をしてでも、もう一度会っておきたかったと悔やむが、もうおそい。再会は、そんなに何度も簡単には訪れない、と知るべきだった。

 しばらく、左近さんのCDをかけるのがつらく、わざと棚の一番奥にしまっておいたのだが、この夏、久しぶりに店で流してみた。リュートの知名度が高くなったらしく、お客さんから、「これ、リュートでしょう?」と訊かれた。

 あの日の左近さんの返答が思い出されたが、わたしは、「そうです、日本人のリュート奏者なんですよ」と、つい自慢してしまった。でも、そこで胸がつまり、〈左近径介〉という奏者名を、口にすることができなかった。


2010年08月

 軒下にすえつけた巣箱に、シジュウカラが営巣を決め、苔や獣毛の巣材運び、一日一個ずつの産卵、約二週間の抱卵をへて、やがてヒナの声が聞こえ始めた。六月下旬だった。

 親鳥は、数分おきにヒナたちにエサを運び、そのエサが日に日に大きくなっていくのだった。はじめは蝶や蛾の小ぶりの幼虫だったが、だんだん大柄の青虫になり、蚊、蛾などの成虫を嘴にくわえて、巣穴を出入りするようになった。そのたびに、「エサちょうだーい」のヒナたちの声が、シャーシャーとひびく。その声の大きさからして、いよいよ巣立ちが間近なのを知り、雨がふると、もしかしてと巣穴に注目した。天敵の少ない雨の日を選んで、彼らは巣立つと聞いていたからだった。

 ところがその午後、ヘビ警報(ヘビなどの外敵が現れたときの、野鳥の荒れ狂うような啼き声)を耳にして目をこらすと、巣箱の直下に、はたして子ヘビを発見してしまった。わあー、たいへん。子ヘビは、頭部を巣箱に近づけて、明らかにヒナたちをねらっている。

 もちろん、わたしはヘビが大きらい。当然ヘビを追い払い、なんとかヒナたちを守らねばならないのだが、自然界の動きに勝手に手を出してはいけないと思い、固唾をのんで見守ることにした。ヘビ警報を発した親鳥たちは、ホバリングして、子ヘビを撃退しようと必死だった。

 そのときだった。なわばりの異なるヤマガラが二羽、すぐ近くに飛んできて、なんとシジュウカラの親に加勢しはじめたではないか! 種の異なる四羽のホバリングは、子ヘビにはかなりの威嚇だったようで、そのうち子ヘビは、のろのろと撤退していった。

 それを確認したヤマガラは、なにごともなかったようにふたたび結界を越えて、飛び去った。

 その後、シジュウカラの親鳥は、子ヘビの行方を、用心深くなんども確認してから、巣穴にはいった。しかし、ヒナたちのシャーシャーという啼き声は、ぴたっと止まり、以後二時間のあいだ、親鳥が何度も巣穴にはいっても、巣箱はしんと静まり返ったままだった。まさか、子ヘビにやられてしまったのかと、一瞬ぞっとしたが、それでも、親鳥は嘴にヒナたちの糞をくわえて巣穴から出てくるので、エサ運びはつづいているのが、わかった。

 どういう方法か知らないが、親鳥がなにかの危険信号を発し、ヒナたちを静かにさせたとしか考えられない。す・ご・い!

 実は、数年前も、同じような加勢を目撃したことがある。それは、枝を這うもっと太いヘビに対するホバリングだったのだが、ふだん姿を見せないメジロまでもが、ヤマガラたちといっしょにヘビの撃退戦に加わっていたのだ。そのときも、ヘビが枝を降りはじめると、メジロはすぐに結界を越えて、飛び去った。

 測らずも、二回も目撃した彼らの行動は、この森でのルールというか、種の習性なのかもしれない。

そして、子ヘビ撃退の二日後、雨がふりはじめた午後、近くの枝で親鳥の見守る中、七羽のシジュウカラが順番に巣立っていった。まだ嘴も黄色く、羽毛もふぞろいで、えっ、こんな赤ちゃんのまま巣立ってしまっていいの? と驚いたが、はじめて眼にする野鳥の巣立ちは迫力に満ち、世俗も物語の世界もをすっかり忘れて、見入ってしまった。

 初飛行なのに、遠くまで飛べる子、巣穴から顔をだして何度もためらう子、ほんの少しの距離しか飛べない子、七羽もいれば、それぞれにちがいがあって、ほほえましい。

 七羽目のヒナが巣立ったあと、親鳥は巣穴にはいって、中を確認までした。その後、しばらくの間、ヒナたちは親鳥と共に行動して、エサを口移しでもらったり、エサの採り方をおそわったりしながら、特訓期間を過ごしていた。

 今年は、ほかにも様々な自然界のできごとに遭遇し、気をもんだり、励まされたり、喜んだりしているうちに、あっというまに夏になった気がする。店はヒマでも、わたしは忙しかった。


2010年07月

 戸高雅史さんと、久しぶりに単独でお話しする機会を得た。1996年、チョモランマ・K2無酸素単独登頂の記録をもつアルピニスト。ご縁を得てご近所さんなのだが、一年のほとんどを登山ガイド、野外教育活動で家を空けられているので、なかなかゆっくりお会いする機会がない。ましてや、ふたりだけでとなると、願ってもかなわない機会だと思う。

 その夕、我が家のテラスで、ぽつぽつと言葉を交わしたのだが、戸高さんを前にすると、いわゆる世俗の言葉の虚しさ、世間の話題の乏しさを、あらためて感じる。アルピニストになる以前の、高校の数学教師だった戸高さんも、さらに以前の、教師になるかフォーク歌手になるかの分貴点にたつ彼をも、わたしは存じ上げないから、戸高さんという方は、もしかして生まれながらにしてこういう品格をもつ方なのかと思う反面、標高7000メートル、8000メートルを体験されたからこそ、なにか大きなコンバージョンがあったはずだという一方的な期待も、こちらには常にある。

 戸高さんを前にすると、孤独ではない、孤立でもない大事な孤(個)を、おしえられる。それは言葉を介さずに、ちゃんと伝わってくるから不思議だ。となると、こちらからも、事務連絡以外の伝えたいことを、あえて言葉に載せる必要がなくなり、頭がふわっとしてくる。孤(個)でいる時間を、尊びたいと思う。

 近年は、これだけ日本の山々を歩かれる戸高さんだが、野鳥や植物の名称・生態には、まったく頓着しない。その夕、たまたま啼き出したガビチョウとキビタキの啼き方のちがいを、わたしが解説すると、彼は、ああそうですかと高校生のようにうなずくのだった。

 星野富弘さん曰く、〈花は自分の名前を知らない〉はずで、人間が野鳥や植物に命名したにすぎないのだが、それにしても、〈知る〉とか〈知らない〉という事実が戸高さんにあっては、なんの意味もなく、もっともっと大事なことに惹きよせられる瞬間を、同席者ははからずも〈知る〉ことになるのだった。

 そんな戸高さんを感知してか、たった15分の間に、キビタキ、アカゲラ、アオゲラ、リス、はては二頭のシカまで登場して、わたしは慌てた。名前を呼ばれなくても、集まってくる生き物たち、君たちはやはり野生、鋭いアンテナをもっているのねえ。

 やがて戸高さんが、すうっとお帰りになって、あたりは静かに、暗くなった。わたしにはふと、〈光臨〉という二文字が、浮かんだ。〈降臨〉は知っているが、〈光臨〉は知らなかった。いったいどこからこの二文字が降りてきたのか、またもって不思議なのだが、とにかく意味がわからないから辞書でひいてみた。「他人の来訪の尊敬語」とあった。

 なにもかも言語化しなくてもいい至福の時間と空間、そこで思いがけずに拾った珠玉の言葉。その二文字を置いていった人も、おそらく放った自覚はないにちがいない。わたしにも8000メートルの恩恵? と、勝手に思うことにした。


2010年06月

 この年齢でも、携帯電話をもっていないと言うと、怪訝な顔をされる時代になった。 一日のほとんどを、自宅兼店の電話の近くで過ごし、外に遊びに行くときは、特に電話に追われる緊急事項がないので、もたないですんでいる。

 たしかに、数年に一度くらい不便を経験することがある。知人と渋谷の東急プラザ内で待ち合わせたとき、わたしは9階のエレベーター前で待つこと15分。あらっ、もしかして聞き間違えたかしら? と気づいて、さいわい9階の踊り場にあった公衆電話で彼女の携帯電話にかけたら、「わたし、1階のエレベーター前で待ってますけど」という、暢気な返事。彼女が携帯電話をもっていなかったら、その日は残念ながら、めぐり会えなかったかもしれない。

 今現在、その9階の踊り場から、公衆電話が撤去された可能性が高くなった。ということは、緊急時には、携帯電話はますます必需品になったということだろう。じっさい、都内で公衆電話をさがすのは、労力も時間も要する。駅や公道で、あちこちキョロキョロしながら歩くおばさんがいたら、その人のさがすものは、トイレか公衆電話のどちらかにきまっている。

 驚くかな、携帯電話で買い物、読書、写真撮影もでき、天気予報、時刻表の検索、さらに、かなりお得な情報もあるという。それだけ便利なのに、自分が未だ必要に迫られないのは、やはり幸せの部類にいると断言できそうだ。携帯メールの着信に気をとられなくてすむのが、一番のメリット。外出時には、外の風にめいっぱい吹かれ、頭にも風を通したい。

 ところが先日、友人宅で「ねえ、携帯電話をお借りしていいかしら?」という事態になった。友人宅は別荘なので、あえて電話線をひかず、携帯電話が唯一の連絡手段なのだ。

「いいわよ、そのテーブルにあるから使って」

「ありがとう」わたしは、さっそく電話番号を押そうとして、のっけからとまどった。番号がうてない。〈あら、困った。どうして?〉 数字のゼロがないのだ。さては新機種か? 「ねえ、この電話には数字のゼロがないのね?」

友人が、やさしい笑顔で近づいてくる。「まったく、あなたって人は、どこまでトンチンカンなんでしょう。それは、テレビのリモコンよ」

 よくよく手元を見ると、そこには1から12までの数字が並んでいた。そのはず、テレビに、ゼロチャンネルはない。いよいよ、電話とリモコンの区別もつかなくなってしまった。

わたしは、ひどく気落ちした。そういえば、駅の自動改札がはじまってすぐ、上京する機会のあったわたしは、改札にプリペイドカードを入れようとしてうまく入らず、駅員さんを呼んだら、「お客さん、これはテレフォンカードじゃないですか」と呆れられ、大恥をかいたことがある。タッチパネルになる以前の銀行でも、金額のボタンを押しても操作がちっともすすまないので、銀行のお姉さんを呼んだら、わたしが押していたのは、右に固定された小型電卓だったことがわかり、そのときもお姉さんに怪訝な顔をされた。

上京するたびに、生まれ育った東京は、自分から段々遠くなる。

要は、機械オンチ、デジタル化についていけないのだ。携帯電話を所持しても、おそらくその機能を認識できないばかりか、操作もうまくできないにちがいない。ということは、自分が主語なのではなく、そもそも携帯電話自体が、わたしを必要としていない。そう、それが残念ながら、不所持のまず第一の理由かもしれなかった。だとしたら、不幸とはいわないまでも、今後をふくめて幸せの部類にいるかどうかは・・・・容易に断言できなくなった。

いやあ、世の中のせいにはしたくないけど、デジタルという生き物にどうつきあっていくか・・・・無視できない者は、とうぶん途方に暮れる。せめて、会話までデジタル化しないように、自分の中のなにかをしっかり保っておきたいが、なにかって、なんだろう?

 


2010年05月

 この年齢で、伯母、叔母たちが今も元気に暮らしているというのは、稀なことかもしれない。叔父は、ひとりを除いてすでに全員があの世にいるが、さすがに女性軍は長命、そして病に強く、80代の伯母、叔母たちの見舞いに、わたしは出向いたことがない。

 その中のひとり、87歳になる伯母は、夫が戦死した後、19歳で禅宗の仏門に出家して、現在も尚、とある尼寺で茶道、華道、香道を教えながら、ひっそりと暮らしている。ひっそりと、とはこちらの勝手な形容で、伯母には別の形容があるかもしれないが。

 その伯母の美しいこと。わたしが生まれたとき、すでに剃髪、素顔、黒い袈裟だけの姿だったから、白髪による老いや服装の変化も見ずにきた。しかし、肌はつやつやで、その瞳は童女のように可愛らしい。血縁という贔屓目を差し引いてわかるのは、俗世間を離れた長年の修行の結果、内面からにじみ出てきたものだろうということだ。伯母の娘時代の写真には見られない、その毅然とした透明感にひきこまれる。

 その伯母が、坐る(坐禅)のは、何も考えないことだという。考えないのだから、沈思黙考とも異なるにちがいない。ということは、頭に浮かんでくることは、ぜんぶ邪念、雑念、妄想ということになるのだろうから。

 強行な登山や、農作業、工場生産での単純労働では、一時的に頭の中がからっぽになることがある。しかし、体をまったく動かさずに坐った状態で、何も考えないというのは・・・・

 これは、たいへんな修行にちがいない。内容はともあれ、なにごとも、深く、じっくり考えるようにと教えられてきた身には、何も考えないという状態はいったいどういう状態なのかと、ついつい考えてしまうのが、関の山。

 近年、坐禅は、外国人の間で浸透しつつある。我が家の近くのホテルでも、毎年年末から年始にかけて、禅のセミナーが開催されるらしく、そこに参加する外国人が、休憩時間にゆっくりと散歩をする姿を見かける。たまたま、お茶を飲みにうちの店にはいったカナダ人に質問したら、彼らはけっして仏教に帰依しようというのではなく、キリスト教なり、ユダヤ教なりの信仰をもっている人、あるいは無信仰がほとんどで、禅を学び、坐禅を組むことで、ひとつの精神修行方法を身につけるそうだ。じっさい、坐禅を組むと、体の中で、サイケデリックに近いなにかが起こるという人、集中力が身についたという人、聖書の読み方が深くなったという人もいた。

 その参加した人たちに共通するのは、はっきりした何かの目的があって、坐っているのだった。それでも、坐禅の最中は何も考えないで坐るのだろうから、修行はさらに輪をかけて、難業にはちがいない。

 口数の少ない伯母の、その無垢な瞳を前にすると、何かの目的をもつことさえ、また、何かの結果を得ることさえ、邪道であるような示唆を感じる。塵のような出来事に、こころをうばわれない、こころが動揺しない人の存在は大きい。それに、一度として姪のわたしを坐禅にさそわないし、さそう気もなさそうだ。

 しかしもう一方で、出家した人々には縁のない、世俗には世俗の苦行があるのを、この歳になると、じゅうぶんに知ることになる。この苦行を超えるためにこそ、禅の修行がものを言うはずなのに、この苦行を禅の修行と一致させる定義はなにもない。

 たぶん、質の違いだと思う。ひとつは、慟哭や深い悲哀をともない、もうひとつは人間の業、そのものを超える艱難辛苦に見える。何も考えないという修行が、どちらにとってより困難か、双方の渦中にいる人には判断できないだろうから、せめて過去形で語ってくれる人はいないだろうかと、当面何もしない自分は横着に考える。


2010年04月

 イスラエルのキブツ(集団農場)に給料制がしかれ、個人主義が蔓延しつつあることは、すでに2008年の2月、このコーナーで書いたが、今冬20年ぶりに訪れたかの地で、その実情をはっきり確認することができた。

 現在、イスラエル国内に大小200くらいあるキブツ(昨今のニュースで言及される入植地とは異なる)では、それぞれ差はあるとしてもほとんど、農業はタイ人労働者に任され、キブツメンバーは、敷地内にあるサーヴィス施設、工場、街への会社勤めをするようになり、あるいは大学や研究所で学び、ユダヤ・イスラエル人の農民は皆無に等しい。牛舎も鶏舎も羊小屋も、まったく姿を消している。

ほぼ全員が自家用車をもち、昼食だけはかつての大きな食堂で有料でとるが、朝食も夕食も自宅でそれぞれ調理、食事している。キブツ内にスーパー・マーケットがあり、そこで食材を調達する。値段は市価と同じか、むしろ高い場合もあるというから、完全に市場経済に組み込まれたといっていいだろう。洗濯だけはいまだに、一箇所で集中的に行っているが、もちろん有料。

 42年前は、600人のキブツにテレビが一台、その小さなテレビ画面に映ったアポロの月面着陸を、大勢で固唾をのんで見守った。わたしには、着陸の瞬間画面と同じくらい、その娯楽室の熱気が、記憶に残っている。

その20年後に再訪したときは、各家庭に一台のテレビがあった。そして再びその20年後の今年、「娯楽番組はくだらないから、テレビはほとんどつけない。ニュースはパソコンで見ればいい」とだれもが言う。

 皮肉なことに、集団生活を大きく変えた要因であるテレビと電話が、パソコンの登場で、影をひそめた。しかし、今さらテレビと電話がなくなっても、この流れを止めることはできない。

 かつてはメンバー全員の参加、挙手の多数決で物事が決定したが、現在では、30人の代議制で、メンバーは意見は言えても挙手はできなくなった。しかし、まだ代議制を導入していないキブツもあるときく。

 新たにメンバーがふえることはないので、過疎化が免れない。そこで、このキブツで生まれ育った者には、土地を安く切り売りして、家を建ててもいいという法ができ、現在いくつか建築中だった。

 あんなに長く、合理的な集団生活をしていた彼らに、老人介護の集団施設がない。デイケアのような、リクリエーションや手仕事を応援する場はあるが、寝たきりになった老人は、すべて在宅介護。そこにインドネシア、スリランカからの介護者がシフトを組んで、家族と協力し、巡回介護をしている。

 たった42年のうちに、キブツの哲学は完全に崩壊した。しかし、わたしにとっては、自分の第二の故郷でもあるその場所と人々を思う気持ちは、今も変わりない。

 20年前に再会した人々とは、「それでどうした? うん、うん、それで、これからはねえ」と、進行形の話をして別れた。

 そして今回は、42年前に幼児だったり、乳児だったりした人々とも再会? した。彼らは「昔、日本人がここにいたことがあるって、親にきいた」などと言い、「あなたがその日本人のひとりなのね」などと、まじまじと眺める。わたしは突然、彼女の歴史上の人物になってしまったかのような、奇妙な気持ちにさせられた。

 時代と暮らしの変化があまりにも急激だったので、たった42年前をふりかえると、懐かしいというより、もう二度と戻らない絶望的な気持ちになるのか、帰宅してからも、友人が〈42年前のキブツは、今となっては、たがいに共有する歴史だわね〉と書いてくる。わたしはまだ、歴史を実感、ましてや共有などできないので、第二の故郷といえども、やはり短期滞在者だったのだと、42年目にして気づく。

あるいは、友人には42年前はすでに凍結した過去なのに、自分にはそう言いきれない継続的ななにかがあるということだろうか。

もうひとりの友人が、記憶や思い出は、ときとして事実より強烈になるから、気をつけたほうがいいと、地中海をながめながらぽつんと言ったのも、今になってうなずける。彼女が、だれに向けて放った言葉なのかも、うすうすわかるようになった。


2010年03月

 わたしたち夫婦が運営する喫茶店は、創業14年にもなるが、店をはっているといっても、いたって暢気でヒマな営業日が多い。しかし、雇われ身ではないので、自由に読書や学習ができ、それもBGM、コーヒーつきだから、ヒマな日の達成感もそれなりにはある。

 日本一ヒマな喫茶店はたしかだが、もしかして世界一かなと高をくくっていたが、やはりそれは甘かった。世界は、とてつもなく広く、手ごわいものだと再認識させられた。

 先月の中旬、ヨルダンのペトラに三泊したが、その広大なペトラ遺跡内で、ベドゥイン(北アフリカ、アラビア半島の遊牧民)が、道路わきのいたる所で店をはっていた。砂と錆で汚れきった遊牧民アクセサリーや色彩石を並べただけの屋台から、座席をいくつも用意した野外レストラン、馬やロバを旅行者に斡旋する業者など、職種も店の位置もさまざまだった。

 インディージョーンズの映画で一躍有名になったエル・ハズネ(宝物殿)には、最大多数の観光客が集まり、写真を撮ったりして、しばし時間をかけてその醍醐味を味わうのだが、そこから離れると次第に観光客の数が減ってくる。まるで上高地の河童橋と、そこから伸びる明神、徳沢、横尾、果ては涸沢にいたる道の様子に重なるものがある。

メイン道路の頂上にあるモナストリー(修道院)には、坂道を一時間以上登らなくてはならないので、健脚な人か、あるいは登山口でロバを調達した人しかたどりつけない。それでも、その細い道の所々には、ベドゥインが屋台をはっている。主に、老女や子どもたちが、その小さな店を囲んで、火を焚いたり、ロバをからかったりしながら、客引きにも余念がない。

メイン道路での営業権と、こうした人気(ひとけ)の少ない道での営業権は、いったいなにを物差しに決められているかわからないが、とにかく売り上げにも客との関わりにも、大差があるのは、否めない。

わたしたちは、初日に安宿のオーナーの案内で、スモール・ペトラとサンセット・ツアーを満喫し、二日目にエル・ハズネとモナストリーを完歩した。高所でロバが足を滑らせる場面を目撃したので、自前の二本の足のほうが絶対に安全だと確信した。たしかに時間はかかるが、三泊四日の余裕ある個人旅行なので、徒歩は結果的に正解だった。天候にも恵まれ、頂上に着いたときの感動は予想以上だった。

そして三日目には、メイン道路からはずれた、生贄の高台、ローマ兵の墓、ライオンの泉を廻ることにした。その入り口に目印がないので、喫茶店で甘い紅茶を飲んだあと、笑顔のさわやかな少年ウエイターにおしえてもらい、予想もしなかった場所にある入り口を入った。

最初からほとんど人がいなかった。まるで、西遊記・孫悟空の旅のように、空をめがけて急な斜面を登る。どこで立ち止まっても、遠くの絶景が眺められたが、下を見ると絶壁で、気が遠くなりそうだった。 

わたしは高い場所が苦手なので、なんとかして戻る言い訳を考えていたが、夫が「こんな場所には、もう二度と来られない」と聞こえよがしにつぶやくので、それもそうだなと、なるべく下界を見ないように、腹をくくって登った。

おどろいたことに、そんな高所にも、ベドゥインたちが店や屋台をはっていた。冬季なので、おそらく日に数人しか通らないような場所で、彼らはヤカンに湯をわかし、ベンチを並べて、客を待っている。標高1400メートル、野外の寒中で、丸一日店をはる彼らに脱帽した。

わたしたちはサーモに温かいコーヒーを携帯しているし、朝一で喫茶店によったので、水分調整しなくてはならない、アクセサリーも買わないが、彼らはそれでも手招きして「Have a look」と呼びかける。

中には、体調が悪いのか、寝袋の上に座り込み、小さな火に両手をかざしている気の毒な老女もいる。まさか、ここで養生もしている? 明らかに学校には通っていない子どもたちが、勾配のきつい斜面から飛び降りたりして、無邪気に遊んでいる。日の出とともにはじまる彼らの一日は、長いにちがいない。

今来た道を振り返ると、白人の青年バックパッカーがひとり、老女に道を尋ねたらしいが、ベンチに腰掛けたわけではない。やがて老女は、砂の向こうで小さな黒い点になる。

不覚にも道に迷ったが、山のふもとにベドゥインの住処らしき人の群れが見えた。世界中からペトラに観光客が訪れるようになり、世界遺産になったこともあって、それまで先祖代々、ペトラの遺跡内を住処にしていたベドゥインは、遺跡内の営業権と引き換えに、立ち退きを命じられたそうだ。そして、部族ごとに、遺跡から少しはずれた山のふもとに移動したのだろう。ヤギ、ヒツジ、ロバの群れと、何人かの人間の動きが確認できた。洞窟かテントでの共同生活、大所帯の暮らしの輪郭が見える。

道しるべもなく、迷子になったわたしたちは、たまたま正面から歩いてきた老人に道を尋ねた。映画〈アラビアのロレンス〉を髣髴とさせる、まさにあのクフィーヤと長着の老人は、表情をまったく変えずに、「こっちの道でもいいが、あっちでもメイン道路に出られる」と、アラブなまりの英語で、親切に案内してくれた。そして、杖をつき、山のふもとの方に歩いて行った。

老人の言うとおり、あっちの道を歩いて行くと、広大な草原に出て、前日のメイン道路を眼下に見下ろす、思いがけない絶景に言葉を失った。そこは、はじからはじまで、全ペトラの大パノラマなのだが、観光客はだれもいない。単なるベドゥインの通勤道のようだった。

広大な草原の細い道を、店を閉めて家族の元に帰るのだろうか、老女がひとり足をひきずって山の方に歩いていく。夕暮れが閉店時間なのは、うちの店と同じだった。


2010年02月

 いわゆる観光地・避暑地に住んでいるおかげで、それに喫茶店という間口のおかげで、幼馴染やかつての同級生たちと、思わぬ交流がある。

 万里子さんとまり子さんとは、中高時代、同じ部活でもグループでもなかったが、10年前にたまたま彼女たちが山中湖の貸しコテージに数日間宿泊した際の縁で、それ以来毎年会う機会に恵まれている。そのふたりに、2, 3人の仲間が加わり、平尾山に登ったり、いっしょに食卓を囲んだり、年に数回だが、気のおけないつきあいがはじまった。過去のある時期、いっしょだった者たちに、あえて枕詞はいらない。率直な思いを広げあい、あるいは、ただ一方的にかつての花園を懐かしむ。

 2009年は、全員が還暦を迎えるというので、まずは大パティーをと、声が上がった。そのうち、せっかく一生に一度なのだから、なにか思い出に残るような企画にしてみない? と、わたしが提案した。たとえば、6人集まったとして、それぞれがなにかを演奏するとか、朗読するとか、歌うとか、それって楽しいじゃない? 学校を卒業して以来42年間、いろいろな出来事があって、それを必死で越えてきたのは、おそらく6人とも同じにちがいない。だったら、ここまで元気でこられてよかった、がんばったよねって、その節目の感謝を互いに分かち合いたいというのが、発案の趣旨だった。別に、特技の発表会を提案したわけではない。

 ところが、意外にも、その案は簡単に却下されてしまった。楽器に縁がないとか、スポーツ系なので、披露の仕様がないとかが、その理由だった。あとで聞いたら、当初の賛成者は、昌枝さんだけだったという。ああ、昌枝さん、あなたの一票を、わたしは一生忘れない。

 仕方ない。気ののらない会を催しても楽しくないので、わたしはすぐに諦めた。ところが、いつのまにか、その案が生き返っていたのを、わたしは夏の始めまで知らないでいた。

 日付けと時間が知らされたとき、貸しコテージでオカズ一品もちより、万里子さんがヴァイオリン、昌枝さんがハープ、わたしがキーボード、恵子さんが詩を朗読するとまで決まっていた。このトントン拍子のすばらしさ! おまけに、83歳のわたしの母までご招待くださるという。

 あわてて合奏曲の譜面をコピーし、自分のパート練習をして、オカズの一品は一番後回しになった。

 当日の晩、店を閉めた後、山中湖畔の山間にある貸しコテージに6人の同級生と母とで集まり、還暦の乾杯をした。そしてその後、ヴァイオリン、ハープ、キーボードで「夏の思い出」「モルダブ」を合奏して、恵子さんが同郷の星野道夫さんの詩を朗読し、そのバックに「アルビノーニのアダージョ」を演奏した。母が、お祝いにとたった3分の小品朗読をしたあと、恵子さんが持参した、おもちゃの小型ハンドベルで、万里子さんが指揮をして、なんと全員即興で「ふるさと」を奏でた! 協力し合えば、楽曲演奏ができる、この思いがけない体験! わたしはさらに、42年前にはじめておぼえたユダヤの歌を唄った。

 そのあと、シェフではなく、まさにプロのシュフ手づくりのそれぞれのオカズを堪能し、ふけゆく夜をすごした。手巻き寿司から細春巻き、厚焼き玉子からローストポーク、糠漬けにお赤飯、エトセトラ。まり子さんの手際よい仕切りで、テーブルがつぎつぎ整い、洗い物が同時に片付いていく。ほんとうに、長年シュフを自称できるのは、家庭の料理人かつ有能な総支配人であるからにちがいない。

 暦上の意味は別として、かけがえのない時間をすごせたあの晩は、やはり、6人で束になって越せた、大事な節目だと実感している。自分以外の5人の名をふり返ると、中高校時代には予想もできなかったメンバーの集まりなので、縁とはこういうものなのかと、あらためて観光地に住む恩恵を感じ、年月の不思議にもひたっている。もちろん、次は古希の祝いなどと、そんな野暮を言うシュフはだれもいない。


2010年01月

 12月の下旬は、仲間があつまって恒例の餅つきをすること、すでに12年目。今年も生後2ヶ月の赤ちゃんから御年91歳の翁まで、まさに老若男女がのべ40人も集まって、にぎやかに四臼の餅をついた。

 ほとんどだれもが素人だった12年前、村のお年寄りに、餅米の蒸し方から、つき方、のし方、切り方を伝授していただき、それを確実に伝承している。と、願いたい。

 その一方、皮肉にも村民の暮らしは文明化し、従来どおりの臼と杵でなく、機械でつく家庭が増えたというから、都会から移り住んだ仲間連中のぺったんぺったんは、なんという贅沢だろうか。現に、わたしは年に一回、白い割烹着を着る日となっている。横浜から移住された、もうひとりの奥さんは、割烹着に加えて、日本手ぬぐいで頬被りまでする、なんとも珍しい一日。

 厳しい寒さのつづいた12月中旬のあとに、風のない、おだやかな冬の日が訪れ、幸いにもその日が、予定していた餅つきの日だった。祭日だったので、若い勤め人も家族で参加し、笑い声や音頭とりの声が飛び交った。

 つきたての餅を、大根おろし、納豆、あんこ、エゴマにまぶし、または海苔に巻き、これも恒例の豚汁に舌鼓をうつ。他愛ない世間話も、大事な一品になり、満腹したところで、昭和初期から湖畔の別荘に通われる82歳の方の語りに、全員が耳をすます。

 男たちは呑みはじめ、女たちは蜜柑をむき、青年は背を伸ばし、子どもたちは外遊び、赤ちゃんは再び眠る。

 しかし、ただ平穏に、和気藹々と一日が過ぎていくわけではない。個々の過程で、さまざまな問題がもちあがる。反し手が足りなくなる、約束を忘れてしまう人がいる、うっかり蒸篭を焦がしてしまう、思わぬトラブルも発生する。そのたびに、解決策をもとめて話しあうのだが、人それぞれに意見が異なり、ときには衝突したり、平行線だったり、なかなか糸口が見つからないこともある。気まずかったり、腹の虫がおさまらなかったり、めぐりめぐって安堵したり。チームワークの難しさは、スポーツばかりではない。

 それでも、なんとか四臼の餅をつき、みんなで食して、みんなで分け合い、最後に臼を洗ってほっと報われる。ハラハラ、ワクワク、イライラ、ドキドキ、オロオロをくりかえす一日の、なんと長いことか。

 村の行事というのは、やはり昔からこういうものだったと思う。わたしたちは、餅つきという行事を伝授させてもらったが、それは単なるイベントではなく、人と人とが表も裏も見せ合って、共同作業をすることだったと気づく。助け合いなどという、奇麗ごとにくくれない厳しさにも出会う。

 昔の人々は、こういう共同作業を年に一回ではなく、地縁や血縁を軸に、始終こなしていたと思うと、帽子をいくつ脱いでもかなわない気持ちになる。

 餅つきから数日たった餅は、すでに固くなった。焼いた餅を、醤油も何もつけないでほおばっていたら、世の中はクリスマスだとラジオが騒ぐので、なんだか可笑しく、餅は形容しがたいほどの厚みのある味になった。


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