☆ 樋口範子のモノローグ(2009年版) ☆

更新日: 2009年11月26日  
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2009年12月

 今から46年位前、中学2年だったわたしが夢中になったのは、宮沢賢治が遺した多くの詩と縄文時代をさぐる考古学だった。したがって、学校の授業にはちっとも身が入らず、当然、成績は低迷し、親も教師も心配し、自分自身も困ったものだと思ったが、打つ手はなかった。

放課後や休日は、発掘現場や博物館を廻るのに忙しく、中学3年の夏休みに通った調布飛田給での他校の考古学部発掘は、今でも思い出すたびに胸が熱くなる。正直、起床した時点であんなにも嬉しく、夢中で着替えたことなど、あれ以来なかったかもしれない。

幸い、神田川の川岸近くにあったわが母校の校庭では、ときおり縄文時代の石鏃の破片や土器片が見つかり、体育の授業中、わたしはもっぱら地面探索に集中していた。

そのうち、親も教師もなにも言わなくなったので、考古学熱はスムーズに上昇し、縄文土器からペルーのアンデス文化(プレ・インカ)にまで関心が広がった。プレ・インカというのは、15世紀のインカ文明よりもっとずっと以前の、先土器時代から紀元前3000年前、そして紀元1000年ころに興ったチャンカイ文化の基礎となった、精神的に高度な文化をもつアンデスの古代文化圏をいう。

その文化を発見し、世界に広めたのは大正・昭和時代に中南米で実業家として成功した日本人・天野芳太郎氏、それを実際に発掘・調査研究したのが、東京大学の泉靖一教授だった。泉靖一氏は、日本に文化人類学という学問を導入、定着させた第一人者で、当時16歳だったわたしの憧れだった。

おそらく、難解な専門用語も多出していただろうが、泉先生の書かれたものなら、大学の紀要から、雑誌、単行本まで、かならず購入しなくては、自分の気がすまないほどだった。その中には、エッセイなどもあり、泉先生の学者仲間に息子さんが生まれたので、プレ・インカのコトシュ遺跡にちなんで古都志(ことし)と名づけた記述もあった。なんとロマンチックな命名だろうと、16歳のわたしはうっとりしたのを憶えている。

そして36年後、ウソみたいな話だが、わたしはその古都志さんと予期もせず、またなんの努力もせずに偶然出会ったのだった。

喫茶店をはじめて4年目だったか、乳幼児の年子を連れた一組の家族がみえて、家族で楽しそうにくつろいでいた。ふと、その奥さんが夫を、「ことしさん」と呼んだではないか! わたしはカウンターの中からとびはねて、「ことしさん!?」と大声でさけんだ。30代後半とおぼしきご主人が、何事かとびっくりされて「そうですよ」と顔をあげて、わたしとほぼ同時に「泉先生が」と、二重唱のように声をハモらせた。

あの夕暮れ時の、時間が止まった一瞬を、わたしはけっして忘れない。観光地とはいえ、通行人の全くない奥まった立地にある喫茶店に、こんな奇跡が起こってしまっていいものかと、しばし言葉が出なかった。エッセイに書かれていたとおり、泉先生の学者仲間の息子さんが、まさにその古都志さんだったのだ。古都志さん曰く、それまでの30数年間、自分の名前を説明なしでわかってくれたのは、これが初めてだと、目を丸くされた。

泉先生は、古都志さんを命名されてから数年後、わずか55歳で他界されてしまい、わたしはついにお目にかかることができなかったが、文化人類学者のもつ魔法を、じゅうぶんに体験させてもらった気がした。

ペルーはわたしにとって、天野芳太郎氏と泉靖一氏に裏打ちされた重厚で特別な国であるのに、その標高と遠距離を言い訳にして、まだ一度も降り立っていない。その国が火星や月よりも、遠くに感じられるのは、なぜだろう。あるいは、あえて、遠ざけているような気さえする。まるで、そこが自分にとっての黄泉の国であってほしいかのように。

おどろいたことに、古都志さんも未踏だという。コトシュ遺跡に行くときはいっしょにね、と約束だけはしてあるが、実現するかどうかはわからない。

魔法を実体験してしまった者の、ありふれた怠慢とでも言おうか、まったく計画もしないのに、地図だけは広げ、あるいは〈わんだふる山中湖〉オーナーの〈わんだふる ペルーアンデス〉を愛読し、ひたすら彼の地に思いをはせている。


2009年11月

10月になると、都会の商店街や保育施設、駅、花屋の店先が、オレンジ色と黒に飾られ、いたるところにカボチャの絵が描かれる。田舎人には、そうした都会の色彩変化が、いとも不思議に思われるのだが、ハロウィンという舶来行事の商業デザインだった。

 ハロウィンとは、もともとカトリックの諸聖人の祝日の前夜(10月31日)に行われた宗教的な祭りで、スコットランド・アイルランドからアメリカに渡ったという。厳密には、古代ケルト、古代ローマ、キリスト教のそれぞれの要素がからみあう、悪魔祓いの祭りだそうだ。

アメリカでは、子どもたちが仮装して近所の家々を廻り「trick or treat」と言って、お菓子をねだるそうだが、わたしはアメリカナイズが性に合わないので、ずっと無関心だった。

 2年前、幼児のいる近所の家庭から、ハロウィンという行事で、子どもたちをお宅の玄関に行かせてよろしいですか? というていねいなお伺いを受けた。わたしは、「我が家では、積極的には行わない行事ですが、いらっしゃるならどうぞ」と、お返事した。

当日玄関にあらわれた数人の仮装した子どもたちに、「お名前は?」ときいて、こちらも復唱し、それで自家製のパンを二個ずつ手渡した。たがいに初体験で、なんとなくぎこちなかったが、わたしは、ふだん子どもたちと正面で向き合うことの少ない環境なので、新鮮な感じがした。

 ハロウィンの由来をなにも知らない3歳から5歳の子どもたちは、お姫さまやバレリーナや天使に仮装したうれしさと気はずかしさに顔を真っ赤にして、実に可愛らしかったし、同行した母親たちの笑顔もさわやかだった。

 その翌年も、お宅の玄関に行かせてよろしいですか? とていねいにお伺いを受けたので、どうぞと語尾をあげ、若干積極性をおびたお返事をした。本場では、仮装をするのは子どもたちだけなのだが、うちでは受け入れる側も仮装してみようかと思いたち、モロッコ・ベルベル人の民族衣装にサングラスをかけ、わたしは魔法使いのおばあさんに仮装してみた。

 当日、玄関にあらわれた数人の子どもたちは、わたしの姿に怖がり、それでもひとりひとり真剣に名前を名乗った。子どもたちとの間に、なにかが通った気がして、たいへん後味がよかった。

 そして今年も、ていねいなお伺いがきた。わたしは、とてもとても積極的な声で、「もちろん、どうぞ」とお返事して、早くその日がこないかとわくわくした。2年前にくらべて、この変化はいったいなに? と、自分でもおどろくほどだった。

 今年も、わたしは魔法使いのおばあさんになった。16人もの子どもたちが口々に「きゃあ、怖い」と言いながらも、一生懸命に名前を名乗るのを、玄関の中でこちらも復唱した。こんなにも大勢の子どもたちを迎えて、なんて幸せなのかと感動さえした。中には、「はじめまして」などと、自己紹介する男の子もいた。工夫をこらした仮装もさまざまで、つい頬がゆるむ。今年は、袋の中に、ゆで栗を二個入れた。

 たった数分間の子どもたちとの交流から、こんなにも大きなエネルギーを受けるとは、予想だにしなかった。

 その2日後、近所の5歳の女の子が肩からお財布をさげて、うちのプリンを食べに歩いてきてくれた。玄関を入るなり、「あみんの奥さん」(彼女は、わたしのことをこう呼ぶ)「きのうのつぎは、ありがとうございました」と言った。

彼女は、〈おととい〉という単語を知らないから、一生懸命に考えて、〈きのうのつぎ〉と表現してくれたのだった。そう、きょうを起点にすれば、2日前はたしかに、きのうのつぎだ。5歳児が、自分で考えて伝えてくれた言葉の、なんと活き活きしていることか。押しつけのせりふを言わせなかった親も、すばらしい。

5歳の聡明なお客さんは、プリンを食べたあと、やおらお財布から小銭を全部出して、「わからないから、とってちょうだい」と、真っ黒な瞳でわたしをのぞきこんだ。こんな幼い子どもに全面的に信頼されるその大きさに、わたしはつい押しつぶされそうになる。

彼女は、なにごともなかったかのように、その後しばらく絵本を読んで、ひとりでゲームをしたりして、迎えに来た母親に連れられて帰って行った。うしろ姿も、堂々たるものだった。

 


2009年10月

 長野県と岐阜県の県境に位置する乗鞍の畳平は、標高2700メートル、先日クマがあらわれ、数時間後に射殺された地点。何人か、ケガ人が出たとかで、その瞬間の動画は、テレビでも放映され、全国に臨場感が伝わった。

 実は、この夏のはじめ、わたしも知人友人と、乗鞍を初体験したばかりだったので、ついこのニュースに見入ってしまった。

 わたしたち7名は、乗鞍国民休暇村に宿泊したのだが、連日の大雨で、乗鞍岳山頂でのハイキングは半ば無理だろうと、諦めかけていた。しかし、山頂まではなんとか行きたいと、休暇村のフロントで問い合わせてみた。大雨でスカイラインが通行止めになる可能性が高く、その場合はすぐに引き返すことになるが、それでもいいなら、バスのチケットを購入してくださいと言われた。中高年の男性3名、女性4名、この男女のわずかな人数の差に反して、女性の〈畳平に行きたい!〉願望が圧倒的に強く、男性3名は引きずられるような形で、雨具に身をつつんで出発した。

 バスには、他に数名の乗客がいたが、空席が多かったので、わたしたち7名は、それぞれ好きな座席にこしかけた。雨脚が次第に強くなるのを、横目で見ながら、それでもだいじょうぶだと過信したのは、いったいなんの根拠だろう? 

 バスは出発し、10分後に〈三本滝〉を通過する予定だった。ところが、それ以前に、山側車窓に、滝らしき水流が水しぶきをあげて落ちるのが見えた。仲間のKさんがすかさず、「あれが三本滝ですか?」と若い車掌にたずねると、運転手が「いや、これは、大雨による濁流です」と渋い声で答えた。

 この瞬間、乗客のだれもがぞっとしたにちがいない。乗客はいきなり寡黙になり、その大雨による濁流から目をそらし、バスの前方の橋を見た。その木製の小さな橋は、あふれる水の勢いに今にも流されそうだった。すぐに、ふもとのターミナルから運転席に無線が入り、スカイラインが通行止めになったので、頂上に着いたら、すぐに引き返すようにとの警告が聞こえた。

 そしてまたすぐに、乗客の住所を把握するようにと無線が入った。若い車掌は、さっそく各グループの代表者に、乗客のおおまかな住所をたずねて廻った。

 この瞬間、わたしには今晩の7時のNHKニュースに流れるだろう、〈乗鞍にて、山梨県の無謀な中高年が遭難〉のタイトルが浮かんだ。後で聞くと、仲間のだれもが同じ想像をしたという。グループの代表者になった年長のKさんは、もし自分だけが救出されて、記者会見で問われたときに答える用意に、仲間の氏名・年齢、他の乗客の席順を、短時間にしっかり確認したという。

 麻利支天(まりしてん)という摩訶不思議な地名をもつ中継地点で、引き返すかと思ったが、Uターンする道幅がないので、バスはどんどん登っていく。雨脚はさらに強くなり、道路を押し流れる水量は増していく一方だった。わたしは、ただただ2700メートルを体験したいがために、無謀な決断をしたことを、こころから悔やんだ。さっき見た橋は、今ごろ流されているかもしれない。勝手な自分は、今はただただ、生還したいと願った。

バスの運転手に、今までの雨天の経験をたずねたかったが、あまりにもぴりぴりしていて、声をかける雰囲気ではなかった。そのうち、樹林帯を越え、雪渓と高山植物のチングルマが目に入り、いよいよ標高2500メートル以上を感じた。あたりは霧につつまれ、まるで雲上だった。休暇村から50分と言われたが、もっと長く感じられて畳平に到着。10分間のトイレ休憩後、すぐに同じバスで下山してくださいと言われた。

Kさんは、あまりの緊張と高所のためか、顔面蒼白になり、今回クマが射殺されたあのレストハウス内で、横になった。トイレ内の鏡に映ったわたしの顔も、血の気がない。仲間の7名全員で、わけのわからない集合写真を撮ったのだが、だれもが無口だった。若い車掌に声をかけると、通行止めは初体験だと言い、声をかけたことを悔やんだ。

運転手には申し訳なく、祈りをこめて頭をさげ、ふたたびバスに乗り込み、あとは車窓をできるだけ見ないように、息を止めつつ両手を組んだ。

下りも長く感じられ、やっと休暇村に帰還できたときは、万感の思いだった。運転手と車掌に、全員で深々と頭をさげ、わたしたちは一路上高地へと向かった。

その一週間後、大雪山系で中高年の遭難事故があり、やはり万感の思いで、そのニュースに見入った。〈頂上まで行きたい、絶景を見たい〉のは、わたしたちもまったく同じだった。悪天候だったのも、無謀だったのも、若干の差こそあれ、似たようなものだった。


2009年09月

 かつての仕事場でご縁をえた修道女が、誓願50周年の金祝を迎えられた。その祝祭に、母もわたしも招待を受け、店を臨時休業にして、湖畔のサレジオ修道院に出かけた。そこは現在、宗教法人の施設だが、以前は社会福祉法人の児童養護施設が併設され、わたしの30代に5年間保母として働いた、なつかしい森の一角だった。

 母もわたしも、クリスチャンではなく、ましてやカトリックの礼拝には、まったく疎い。服装や持ち物に失礼があってはいけない、ふるまいに粗相があってはいけないと、かなり緊張して門をくぐった。さいわい、同行した友人が信者さんなので、彼女の動くとおり、歌うとおりに真似しようと考えていたら、あいにく礼拝堂は招待客で満杯、わずかに残る座席を確保し、友人と離れ離れになってしまった。万事休す。

やがて礼拝がはじまり、進行と式次第とを見比べながら、母とわたしは、前後両隣の人の動きを見よう見真似で、なんとか中盤までこぎつけた。

久々に、さわやかな青空に恵まれたその真夏の日、礼拝堂の両脇にあるいくつもの窓は、開け放たれ、ひんやりした風が礼拝堂をかけぬける。

ふと、聞きなれた野鳥の声に目をやると、シジュウカラのヒナが、外からとびこんできて、50周年を迎えた12人の修道女のひとりの肩にとまった。さかんに啼くのだが、外に出ようとはしないのが不思議だった。あわてた様子もなく、むしろ余裕をみせて、次に神父さまの頭のてっぺんにとまった。そこは、滑りやすい急斜面で、だれの目にも、礼拝堂の中で、一番とまりにくい地点に間違いはなかった。ほかの3人の神父さまには、ふさふさとした着地点があるのに、ヒナはなぜか、難所をえらんだようだった。

その外国人の神父さまは、あまりにも思いがけないできごとに、恥ずかしそうに赤面して苦笑した。礼拝堂にいた約200名の参加者から、「うおー」「わあー」というような、どよめきが起こった。式次第は、予定通りすすんでいるようだが、ほとんどの参加者の目は、ヒナを追いはじめる。母もわたしも、ヒナの可愛らしい姿を追った。やがてヒナは、別の神父さまの、祈りに合わせた両手の指先にとまった。

その場面はまさに絵のようで、小鳥と話ができたという、アッシジのフランシスコ修道士を彷彿とさせた。

礼拝堂の雰囲気が、あっというまに、優しくなごんだ。少なくともわたしは、自分の場違いな思いに、気をとられなくなった。こんな小さな鳥まで、堂々とお祝いにきているではないか!

50周年という、その日のお祝いの原点に気づかされて、だれもが、晴れ晴れとした気持ちで礼拝堂を出ていくのが、感じられた。

その後、となりの会場でパーティーになり、修道女たちの手づくりの昼食がふるまわれ、しばしにぎやかな歓談の時間となった。お祝いの歌やスピーチがつづき、最後に管区から12人の修道女たちに、プレゼントが手渡された。

若い日本人の神父さまが、ひとりひとりにプレゼントを手渡すのだが、そのとき、「これは、管区と小鳥からです」といって、観客の大喝采を浴びた。

今でもあの日をふりかえると、なんとも優しい気持ちにつつまれる。たった一羽の幼い鳥の、あのうれしそうに飛び回る姿を、いったいだれが予想できたであろうか?

二週間後に、その修道女と再会したときも、真っ先に話題にあがったのが、あのヒナだった。「小鳥がねえ!」それだけで、わたしたちは笑顔になり、そのあと、なにも言葉はいらなかった。


2009年08月

 下北沢で、松谷みよ子原作の「ふたりのイーダ」を観る機会があった。たった四人の舞台女優が、七役とナレーション役を見事にこなした珠玉の90分。

 はじめに、小学四年生の直樹が三歳の妹ゆうこ(あだ名はイーダ)とともに、たまたま母親の田舎に預けられた数日間、次元を超えた世界で、ひとつの椅子に出会う。その椅子は、昭和20年8月6日の朝からずっとひとりの少女の帰りを待っている。椅子は、妹のゆうこを、その少女だとカン違いする。

 直樹はある日、ひとりの女性リツ子に出会う。彼女は、三歳のときに広島の原爆で孤児になり、子どもを失った夫婦の養女となって、現在は白血病と闘い、また自分の出自をめぐっていた。やがて、椅子が待っていた三歳の少女イーダが、そのリツ子だとわかるのだが、次元を行き来する場面と役柄が、子どもを軸に幻想的に展開していく。松谷みよ子さんの平和の祈りが一貫して流れ、舞台衣装も装置も一切ない、生の役者が語るぞくぞくする演出にも感動した。

 夕方4時半に公演が終わり、やはり観客でいらしていた忍野村の慧光寺住職の山下さんご夫婦の車に同乗させてもらって、山中湖に帰ることになった。山下さんは、ご実家の小平に車を駐車されていたので、ご夫婦とお知り合いの女性とわたしの四人で、下北沢駅からまずは吉祥寺駅に向かった。そしてJRに乗り換えて国分寺に行き、そこから西武国分寺線に乗るという。初体験のローカル線駅に、遠足みたいな期待感があった。

 じっさい、西武国分寺線の国分寺駅では、思いがけずひんやりした武蔵野の風を感じた。山下さんの奥さんが、「次の駅で降りるのよ」と、ホームにある案内図を示された。駅名から、そこには、どうやら一橋大学があるらしい。たった四両の車両に乗り込んだ後、そしてその駅で降りてから、山下さんのご実家に歩いていくまで、わたしの頭はだんだんと時代をさかのぼっていくのを、足が必死に追いかけて行く状態になってしまった。

 わたしの最も古い記憶は、三歳のとき、高い塀のある歩道を父と母とに連れられて歩いていた。わたしはどうやら泣いていたらしい。向こうから歩いてきた若い女性が、わたしに「どうして泣いているの? 泣くのはおかしいわ」と言い、わたしは、とても恥ずかしかった。そのときの周囲の雰囲気とその女性の声は、とても鮮明におぼえている。

 その記憶を、十歳くらいのときに母に話したら、母もおぼえていて、それは一橋大学の近くだったという。父の母校であるその大学で、なにかの行事があったらしく、家族でそこに出かけた帰りに、わたしがなんの理由か泣き出して、母を困らせた。ということは、西武国分寺線には、二度目の乗車ということだろう。それ以降、一橋大学の近くに行ったことはなく、その日、測らずも57年ぶりにその駅を降り、小平の町を歩いたのだった。

 小平の住宅街は静かで、というか、音が消えているようだった。山下さんの奥さんのやさしい声が、57年前の女性の声と重なってしまい、あたりの風景までセピア色になり、ちょっとやばいなという感じになった。山下さんのご実家に着いて、玄関から山下さんのお母さんが出ていらしたとき、わたしは固まった。以前、何度かお会いしたことがあるが、その日のお母さんはとても若々しく、うたがいもなく昭和の茶の間からとび出ていらした。ますますやばいなと思いはじめた。

 頭の中が足早に昭和をくだっていくと、目にはいるもの、耳にとどくもの、すべての辻褄があってしまい、現に山下さんのお母さんは、子育てを楽しんでいるかのような笑顔だ。今にも「どうして泣いているの? 泣くのはおかしいわ」と声をかけられそうで、わたしはとまどい、ただもごもごとご挨拶をした。

その後、山下さんの車の助手席に乗せていただき、玄関で手をふられるお母さんを後に、小平の町から玉川上水の脇を通り、五日市街道に出た。その街道沿いには、かつての大地主、大農家の家々が並び、じつに壮観な絵巻だった。長く伸びる塀、明らかに樹齢を重ねた庭木に似合わぬ鬱蒼とした大木たち、よく手入れされた草花、門から永遠につづく砂利道、先祖を彷彿とさせるお倉、そして外からは見えない母屋と住人、どれもが圧巻だった。おそらく、時代とともに切り売りされた地所もあるだろうし、数々の変遷を越えてきただろう年月の渋みのような片鱗もあった。しかし塀に囲まれた家という想念は、かつての威厳を保とうとし、現代の浅はかな評価や情感にはびくともしない意気込みを見せていた。太宰がもし、入水の前にこの家々を眺めていたら、もしかして生き方を変えていたかもしれないとさえ思った。というのは、この家々は、津軽の豪農のたたずまいとは、形は似ているかもしれないが、太宰の出自をけっして否定しないだろう明るさに満ちているからだった。情念は、いつも暗くて後ろめたいばかりではない。

 山下さんに、ふとお母さんの年齢をたずねた。自分の深層でのこだわりが、口をついて出たのだが、山下さんのお母さんは、わたしが三歳だったとき、わずか十八歳だった。ということは、まだ小平にはお住まいではなかったかかもしれない。ということは、あの日、「どうして泣いているの? 泣くのはおかしいわ」と声をかけた女性ではないことが、100パーセント証明された。当たり前のことを自分に納得させるのは、容易ではない。

 やがて、車は中央高速にはいり、西の空に、鳳凰の形をした夕焼け雲があらわれたりした。東京には、すでに夏の精がいる。

 車のCDから沖縄のメロディーが流れ、自分は昭和からさらに遠くへもっていかれそうになった。困った、どうしよう。体は山中湖にもどれても、頭がついていかないのは、最もつらいことのように思えた。

 ところが、幸か不幸か、昭和のスポットから、わたしは一瞬にして平成21年に帰還できた。それは、八王子インターの料金所の時計だった。今から16年前の7月14日、お昼の12時30分、父が逝った瞬間、わたしはこの料金所を通る高速バス車中にいて、この時計の針を見上げていた。その瞬間の共有が、その後のわたしを支えていることを、ふたたび痛感することになった。

 生前の父と交わした言葉は、ほんとうに数少ないが、こうして予期せぬときに現れる父とは、どれほどこころを通わせただろうか。

 やがて車は、大月ジャンクションを越え、一路富士山麓へと走った。なつかしい、ひんやりとした風が、わたしたち四人の頬をなでた。「やっぱり、風がちがうわねえ」と、ひとりが言った。

 ほんとうにそうだった。風は、昭和よりも、もっと遠くから吹いてくる。

思いがけない体験、願ってもない、わずか数時間の昭和へのレトロであったが、それは今振り返ると、松谷みよ子さんの観客への、最高の贈り物のように思えた。


2009年07月

 例年より、一週間もおくれて渡ってきたキビタキやオオルリがなわばりを確保し、そして、いよいよホトトギスが村人の眠りを邪魔しはじめた。シジュウカラやヤマガラが巣立ち、ヒナが一人前にエサを捕れるようになると、森はそろそろ夏になる。  

気温が上がれば、セミがけたたましく啼きはじめ、野鳥の声も人の話し声も、かき消してしまう。

巣立ったばかりのヒナだろうか、首が細く、赤色のまだ定着しない、ひとまわり小型のアカゲラが、成鳥のあとを必死に追う。去年は、すぐそこの巣穴で、ヒナたちが大声で啼いていた。今年はどこで営巣したのだろう?

親子なのか、兄弟なのか、それともただの友だちなのか、二匹でやってきた夏毛のリスは、ウロの水を、美味しそうに飲む。

カラスはヒヨドリを追い、その追われたヒヨドリはリスを追い、羽音をたてて、しばしの静寂を割る。

NHKラジオのアナウンサーが、街路樹に降る六月の雨を、緑色の雨だと形容したが、森に降る雨も、だんだん濃い緑色になる。葉のしずくにも緑色が映り、それに陽があたれば、キラキラ光る。緑色は、やがて虹色になるのを、アナウンサーはご存知だろうか。

なにもかもが足早に変化していく夏の森で、まったく変化のない同一行動をする子がいた。植木鉢の丸い縁を、一匹の尺取り虫が、約半日もずっと廻りつづけている。ときどき、頭をあちこちにふっては行き先を模索するのだが、下に降りる勇気がないのか、けっきょく同じ縁を廻ることになる。ていねいに尺を取って、また一周、もうまた一周。

お節介なおばさんは、つい声を出してしまった。「きみ、今朝からずっと、歩きつづけているつもりかもしれないけど、ちっとも進んでなんかないよ。早く気づいたほうがいいと思う」

尺取り虫は、一瞬考えた? ようだったが、植木鉢を降りることはせずに、また尺を取りはじめた。背中を精一杯もちあげて、また伸びる、伸びてはまたもちあげ、その繰り返しだった。

ところが、夕方に訪ねてきた友人と立ち話しをしている最中に、いつのまにか、植木鉢の縁には、だれもいなくなっていた。あの一匹は、きっと飛び降りたか、這い降りたかしたにちがいない。

だれもいなくなった植木鉢の縁はなんだか殺風景になり、植木鉢に植わっている俗名〈幸せの花〉の、呼吸までが停まったかのように感じた。さっきまで、あんなに生き生きと、夏を謳歌していたのに。

翌朝、またしても同じ植木鉢の縁を廻る尺取り虫を発見した。前日の虫と、はたして同じ子かどうかは、わからない。しかし、動きはまったく同じだった。ただひたすら、尺を取って、ぐるぐる廻っていた。廻る理由とか、目的とか、人間本位の意味づけとお節介は、もう言わずにいようと思ったが、見ているとやるせないので、知らん顔をしていた。

その日も、夕方まで廻って、そのうちいなくなったらしい。

それから数日して、また尺を取って廻っている子を発見した。なんと、二匹になっていた。二匹は、ぜったいに前後が入れ替わらず、(というか、円周なので、前後の判断ができない)適当な間隔を保って、また一周、もうまた一周と廻っていた。

しばし観察すると、彼らの、その、ぜったいに破目をはずさない営みに、畏敬さえいだくようになった。〈思い〉という厄介な荷物のない生き物たちは、〈このおばさんは、尺も取らず、毎日同じ日課をくりかえしているだけなのに、いばっているな〉とも、けっして言わないだろう。あえて哲学しなくてもいい人生、幸福感で満たすことをしない彼らの幸福を、つくづくうらやましいと思う。

なんの縁か、彼らの近くで生きる者としては、当分、「やあ」が、精一杯のあいさつかと思うようになった。うっかり「元気?」 などと問えば、やぶ蛇ならぬ、やぶ尺取りになって、またつまらないことを、ぐたぐたと考えてしまいそうだからだ。


2009年06月

事実の集積が、けっして真実ではないというのは、すでに多くの人の知るところであるが、この、事実の伝達方法に言語のしめる割合が、意外と少ないのを実感する。

言葉で饒舌に語られれば語られるほど、本来の事実から遠のき、真実味が薄まっていくのを経験する人は、案外多いのではないか。多言より、たった一枚の写真や絵、ある表情、目の動き、身振り、声色によって、どれだけ大事な事実が伝達されるか、その割合の大きさにおどろく。

昨年の11月のモノローグに、エステル・サムソンのことを書いた。彼女、わたしのヘブライ語教師は、すでにこの世にはいないのだが、最近ことあるごとに、彼女の表情や言動を思い出す。

 前回にも書いたように、エステル・サムソンは、かんしゃくもちだし、贔屓(ひいき)もするし、理不尽な言動が多く、けっして模範的な教師ではなかった。しかし、彼女の生徒になったのが、18歳という成人間近の年齢だったおかげで、わたしは混乱することなく、毎日二時間の授業に積極的に通うことができた。

 ある日の授業で、どういう巡りか、サーカスが話題になり、わたしたち日本人は、無邪気にもりあがった。空中ブランコ、ライオンの火の輪くぐり、象の玉乗り、アシカやクマの曲芸と、つぎつぎにあげていったのだが、とつぜんエステル・サムソンが、目にいっぱい涙をためて、「わたしは、動物に芸をさせたくない」と叫んだ。

 ひとりの生徒が、「でも、象やクマは曲芸ができる」と言った。

エステル・サムソンは、もう一度、「させてはいけない・・・」と言いかけて絶句し、そのあまりにも哀しげな目に、わたしたちは全員、言葉をうしない、教室内はしーんとなった。

ホロコーストについて、ついぞ一言も語らなかった彼女だが、その日のこらえた涙で、彼女の体験した屈辱が、どれほど途方のないものだったか、わたしは今になって推し量ることができる。

第二次大戦中、アムステルダムの隠れ家に身を隠したエステル・サムソンだったが、右腕には、収容所で刺青された青い番号がはっきり残っていた。ということは、けっきょく国境を越えたナチスに、その隠れ家は見つかり、収容所行きの列車に連行されたということだろう。かつては、熱心なユダヤ教徒だった彼女が、第二次大戦を機に、信仰をすてたとひどくなげやったのをおぼえている。理由など、もちろん語らなかった。

ゆっくりした口調と重厚な声、半分白髪の長い髪、ぎょろっとした黒い瞳は、魔法使いのおばあさんに近かったかもしれないし、意地悪したかと思うと、いきなり手のひらを返したように優しくなる起伏の激しさは、多くの敵をつくった。正直、あのようにふるまいたいとは思わなかったし、あこがれもなかった。

それでも、彼女のなにもかもが、いとおしいと感じるのは、なぜだろう。

言語の教師に、むしろ言語を通さない多くのものを教わった。恩師とは、専門をこえて、生きる力を与えてくれる人を称するのだと、あれから40年たった今、あらためて思う。それほど、寡黙なときの彼女の目には、迫力があった。


2009年05月

 かれこれ30年以上、わたしは毎朝パンを焼いている。昔は、いわゆる外麦(がいばく)と呼ばれる、アメリカやカナダ、オーストラリアからの輸入小麦の強力粉を使っていたが、ポスト・ハーベストと言われる収穫後に多量に散布される輸出用の農薬問題に気づいてからは、つとめて国内小麦を使うようにしている。

 国内小麦は、含有するたんぱく質の量が少なく、麺類やケーキには向いているが、グルテンを必要とするパンには不向きだと、長いあいだ言われてきた。しかし、製パン業界や有機農業に携わる多くの人々の研鑽と努力により、それが可能になって久しい。

 国内小麦でパンをつくる場合、とくに仕込み水の量が実に微妙で、捏ねる段階でまず神経をつかい、発酵や焼成の段階でも、その生地の具合に目をはなせない。それでも、安全性と麦の香りを楽しむために、その困難な行程は報われるべきものとして、つづけてきた。

 ところが昨年の夏から秋にかけて、焼き色が悪く、ときには期待どおり膨らまないこともあり、大きな悩みとなった。はじめのうちは、自分の怠慢か失敗としか思えず、計量器が正しいかどうか、行程時間を延ばしたり、温度を変えたり工夫して、ときには限られた時間内で焼き直しをしたが、毎回満足のいく焼き上がりにはならなかった。

 毎朝、ゆううつで気が重かった。

 今までにない経験なので、原因がわかるまで、かなり時間がかかったが、国内小麦の種類を替えたことにより、問題はやっと解決した。小麦粉は外から見ると、まったくわからないのだが、胚乳内にあるたんぱく質グリアジンとグルテニンが、水を加えて捏ねることにより、グルテンという、うすい膜になる。ここに酵母がはたらいて、炭酸ガスとアルコールが発生し発酵していくのだが、どうやらグリアジンには、弾性はあるが伸縮性にとぼしく、一方グルテニンには弾性はないが、粘性、伸縮性に富むという別の性質があり、そのふたつの作用のバランスが、パンの仕上がりを決定するということもわかった。

 小麦粉の含有するたんぱく質の量だけを、いつも気にかけていた自分は、そのたんぱく質のグルテンになる資質を見逃していたのだった。じっさい、たんぱく質の含有量とその質は、比例するものではなく、顕微鏡で見る分子の世界では、細い繊維状のグリアジンと小さな球状のグルテニンが、まるでカエルの卵のようにからみあっている。

 おそらく、わたしが苦闘した小麦粉のグルテンは、このふたつのバランスが悪く、うまく水和してくれなかったにちがいない。同じ品種であっても、その年の気候や生育環境により、穀物の出来具合が異なるのは当然のことだが、トラブルを通じて、粉も生きているという実感を得たのは、自分にとって思わぬ収穫だった。

 今年の出来具合はどうかと心配していたが、今春の国内小麦「はるゆたか」は、とても元気なグルテンができ、水和もうまくいき、まずはほっとしている。

 気持ちよくパンの焼ける朝が、どんなにありがたいか、つくづく身に沁みる。〈たかがパン、されどパン〉で還暦の峠を越えるとは、まったく思ってもみなかったが。

 10年前の自分だったら、北海道の小麦農家の人と、一度は対面したいなどと願ったかもしれないが、今はあえて望まない。

 目に見えない、数々の縁の深さを知るにつけ、じっさいに対面するかしないかは、たいして重要なことではなく、遠くに小麦をつくる人がいて、離れた地でその粉を焼く人がいて、それでいいではないか、と思えるようになった。

 グリアジンとグルテニンとだって、わたしは肉眼で一度も出逢ってはいないのだから。


2009年04月

 87歳になるミツコさんと、午後のお茶談議をしたときのこと。

ミツコさんには、3人の息子と4人の娘、それに孫が18人もいる。

7人の子どもたちに、学問と教養をそれぞれに身につけさせるため、戦後すぐからミツコさんは身を粉にして働き、学費と生活費を稼ぎだし、ひたすら仕送りをした。

素直な子どもたちは、しっかり学び、ミツコさんの希望どおりに学歴をつけ、社会に出て、いっぱしの職業に就き、うまく伴侶をえて、それなりの家庭をきづいた。

そして、人生の晩期、ミツコさんに平穏な毎日があるかと問えば、一瞬に首をかしげる。

「どうして?」

「どうしてかなあ。こんなはずじゃなかった」

「なにが?」

「りっぱな社会人に仕立てたつもりなのに、息子や娘たちのかかえる問題は、昔の自分たちとは、ちっとも変わらんのよ」

「たとえば?」

「嫁姑の問題、夫婦間のいきどおり、すれちがい、ねたみ、親子間の行き違い。知能指数はたしかに上がって、知識もふえたはずなのに、頭痛の種は同じ。なぜかなあ」

 教育や教養を身につければ、経済的にも精神的にも、人生の苦難を免れるというミツコさんの価値観、および持論が、ぐらついているらしい。そもそも、教育と教養、知識と知恵が比例しないのを、わたしたちは日々のニュースで痛感するし、現に、ミツコさん自身、いわゆる高等教育を受けてはいないが、文化と伝統をまもり、若い者には真似できない教養を身につけているではないか!?

「ほんとうに、そうね。だけど、ノーベル賞をもらう学者にも、同じ苦難があると思うわ」わたしは、教育の頂点を、ノーベル賞にたとえてみた。

「そんな、ばかな。じゃあ、なんのために努力して勉強するのかい? ノーベル賞をもらう人の悩みは、もっと高尚なはずだ」ミツコさんは、投げやりに言い返した。

高尚な悩み・・・たしかにあるだろうが、それは買いかぶりすぎかもしれない。

 わたしはミツコさんに、どんなに学問を究めても、どんなに重要な仕事に就いても、人には平等に、朝がきて、昼がきて、夜がくる。家庭内や友人間でこころが通じなかったり、理不尽なこと、せつないことも多々あって、その内容はだれでも似たようなものじゃないかしら? と言った。こころの安定は、お金では買えないし、学問を積んで得られるものでもないはずだ。

 ミツコさんは納得せず、「そんな、ばかな」をくりかえして家路に急いだ。

 その後わたしは、かつて1965年にノーベル物理学賞を受賞した故ファインマン氏の著書「ご冗談でしょう、ファインマンさん」という世界的ベストセラーの上下巻を読む機会に恵まれた。物理学者にも当然、人生の苦難があるが、その捉え方と観方が、高尚かどうかは別として、一般人とはどうやら異なるのを知った。

 ミツコさんの持論にも、一理あったというわけだ。

 物理というのは、物(もの)の理(り)を究めていく学問ゆえに、ひとつの現象にたいして思い込みがあっては大きな障害となるらしく、ファインマン氏の物を観る眼が、実に純朴、かつユーモラスで、さわやかだった。元々そういう性格だから物理を専攻したのか、専攻したからそうなったのか、どちらが先かはわからないが、世の中の悪習や偏見、常識に流されることなく、権力におもねることもなく、まさにあっぱれな生き方だった。

 今回のノーベル物理学賞を受賞された、日本の益川教授の人柄にも、おおいに通じるものがある。

 故ファインマン博士、1940年代に先妻を病気で失ったときも、自らの研究が原爆製造に利用されたときも、おそらくどん底に突き落とされたと察するが、けっして憂えることなく、ひたすら物の理を観ようと貫いたことを、ミツコさんに話してあげたいと思った。彼女の人生が、少しは報われ、慰められるかもしれない。

 しかし、物理学者、ノーベル賞受賞者という肩書きと人格が、ミツコさんの考える勤勉家、高学歴、高い知能指数、すぐれた教養とは、必ずしも一致しないということを、どうやって説明し、わかってもらえるか・・・・物の理を観ることのできない自分は、やはりそこで立ち止まってしまうのだった。

 さらに、ファインマン氏関連で読みはじめた〈カオス〉の世界を知るにつけ、今まで当然のように思いこんでいた科学の、もっと無秩序で不可思議な世界を、ミツコさんに物語のように話せたらどんなに楽しいかと、ついついよけいなことを考える。

「そんな、ばかな」と言いながらも、しぶいお茶を飲み、彼女は笑顔になるだろうか。


2009年03月

 父が亡くなって、16年たつ。

 実家に帰って、父の写真以外、父の面影をたぐるものは、なにもない。読書家ではなかったし、収集家でも、着道楽でもなかったから、書籍もコレクションもなにも遺さなかった。

 週一回、東横線学芸大学駅近くの碁会場で、囲碁を楽しむのが、晩年の父の唯一の楽しみだった。若いころはパチンコに通ったようだが、球の入れ方が、手動から自動にかわった昭和40年くらいから、機械に左右されるようで面白くないと、パチンコ通いを止めた。

わたしは一度、父のパチンコを見学したことがある。他の客が左手で複数の球をにぎり、一個ずつ小さな穴に入れ、右手でハンドルをはじく順次複数発射法なのに対し、無器用な父は、パチンコ台で回っていた球が無残に下に落ちるのを確認したあと、おもむろに左手で球を一個ひろい、指でつまんで穴に入れ、右の親指ではじくという、もっとも原始的なやり方だった。

パチンコそのもののゲーム性が好きなのか、球一個の動きを始めから終わりまで、ゆっくり見とどけていた。パチンコ台が自動になると、球の動きを見とどけられないどころか、あっというまに数十個の球が消えてしまうので、その虚しさにきっと耐えられなかったのだと思う。

 映画、音楽、美術にはたいした関心がなく、スポーツはテレビで相撲を観るくらい、山登り、ハイキングも旅もしない、ほんとうに趣味のない人だった。

 学問そのものに熱中したこともなく、大学は学歴を得るだけの場所だとカン違いして、立派な学歴だけはもっていた。しかし、その学歴で就職した大会社には、何の理由か長続きせず、いくつか転々としたあと、けっきょく親の零細企業を継いだが、10年かそこらでうまくいかなくなった。還暦を超してからも、いくつか商売を興したが、どれもぱっとせず、その都度たたんだ。

商売が好きなのに、商売が下手というのはなぜか・・・・おそらく商いを通じて人との関わりを好むのだが、そこに金銭がからんでくると、人との関わりが別のモードになって、色褪せてくるのではないかと思う。娘である自分の中にも、同じようなDNAがあるので、その矛盾が今になって察せられる。

では、趣味のない父が、仕事以外の時間を何をしてうめていたかというと、ほとんどぼんやりテレビを観るか、ただ、タバコを吸って、何時間もすわっている。テレビドラマの筋をきくと、まったく上の空で内容を把握していないことが多かった。頭の中では、何か別のことを考えていたにちがいないが、それが何か、家族にはわからない。

けっして饒舌ではなかった。家庭内で、娘たちを叱ることもなく、声高に説教するわけでもなく、いつも妻や娘たちのおしゃべりをだまって聞き、ときおり絶品のユーモアをはさんで、女たちをうならせた。

父自身、身内の人間関係で、かなりの苦労をしたと思われるが、それを表に出して愚痴ったことは一度もなかった。争いを好まないらしく、闘うよりは我慢してしまうと、ぽろっと口にしたことがある。その我慢強さを一番発揮したのは、胃ガンと薄々わかっていたのに、告知はぜったいにしないでくれと入院し、痛いとか、つらいとか泣き言を言わず、死の直前まで普通に会話して逝った最期だろう。父の我慢は、受容に近かった。

人生とか、愛とかいう言葉を、一切口にしたことはないが、じっさいは、とても情が深く、どれだけ家族を思いやっていたか、今になってその数々が身にしみる。

わたしがすでに40歳をすぎ、たまたま父のそばで歯科医に電話をして、「歯が痛くてたまらないので、治療の予約をしたいのですが」と言ったとき、「40にもなって、歯が痛くてたまらないという言い方は、どうかな」と、父が呆れた。そういう指摘をめったにしない人だったので、その日のことを、よくおぼえている。たしかに稚拙な表現だったと、後になって苦笑する。

書籍やコレクションを遺さなかった父だが、わたしの手許には父が晩年に着た、黒と茶のセーターが二枚あり、男物でたっぷりした着丈なので、ここ数年よく着ている。季節ごとに洗濯をするので、肘などがだいぶ薄くなったが、今後もまだ当分着られそうだ。

着ることで、特に父を思い出すわけではない。思い出すほど遠くにいない人、と言ったほうが、当たっているかもしれない。胸の内を、ほとんど言葉にしなかった人のセーターは、やわらかく、軽く、暖かく、わたしには大事な冬の必需品。

 現役なのは、セーターだけではない・・・と思うようになった。


2009年02月

 ほんとうに憂鬱な年明けになってしまった。

近代兵器を酷使したイスラエル軍の非人道的なガザ攻撃に、言葉も出ないほど失望している。これはもう、国防ではない。ひどすぎる。

 パソコンで、イスラエルの国防軍ラジオ放送を、聴くようになって一年以上たつが、そのサイトを開くのが日に日に辛くなり、国連学校への空爆の日は、なにをする気にもなれなかった。

 これではもう、イスラエルという国は、世界で孤立していくしかない。

 神から選ばれた民という呪縛が、どれほど独りよがりで危険であるか、神から選ばれなかった民の痛感することとなった。

 国防軍ラジオの、ある番組女性キャスターは、軍部との電話インタビューの中で、「いったい攻撃の指令は、なにを基準に出しているのか?」「あなたは今、平和な部屋から指令を出し、現場のなにがわかるのか? 一般市民が犠牲になっているのを、どうして止めないのか」と、かなり強い口調で質問するが、軍部の人間は、「われわれは、こちらに戦死者、負傷者のでたときだけ攻撃していいと言われている。それ以外は攻撃していない」「一般市民、とくに白旗をかかげた年寄りが逃げているのを目にすれば、けが人の出ないように気をつけている」「ハマスが、ガザの市民を盾にして、世界の同情を集めようとしている」などと、きれいごとを並べるだけで、それが嘘なのは、もう世界中が知っている。もっとひどい軍曹などは、「どう理解しようと、かまわない」などと、なげやりな発言をし、キャスターから罵声を浴びせられた。

 別のラジオ番組では、わずかなイスラエル兵の戦死者(そのうちの一人は、味方の誤射による)遺族にインタビューし、遺された母親の〈息子は、愛する国のために死んだ〉との文言を、何度もくりかえし放送する。

 わたしのイスラエル人の旧知は、以前からアラブ人たちとの対話をすすめるグループに属している。夫は、予備役を拒否して、投獄されたことがある。

今回の攻撃に対し、武力ではなにも解決しないと、アラブ人たちと沈黙したまま手をつなぎ、長時間すごすデモに参加したという。そのときの写真を送ってくれたが、せいぜい100人くらいのわずかな勇気ある参加者に、ため息が出た。

「わたしは、自分の国のしたことが、恥ずかしい」と、彼女は電話口でつぶやく。

 拙訳の原作者である作家さんたちも、武力では解決しない、対話を! と訴えるが、その声はあまりにも微力で、日本からはなにも見えない、聞こえない。

 今後、かの地の文学と、どう接していけばいいのか、決断をせまられている気がする。明らかに非人道的な攻撃をし、他国や国連の示唆にも耳を傾けず、うそと自己弁護を繰り返す国の言葉を訳すのが、自分のライフワークですとは、とても哀しくて言えない。それに、恥ずかしい。

 しばらくの間、ボキャブラリーを増やす努力をしながら、原書と邦書の読書に専念していこうと思う。


2009年01月

 冬のハイキングに欠かせないのが、スノウシューという、いわゆる西洋カンジキ。かなりの積雪の上を、水すましのように快適に歩くことができる。

 ある冬の日、しゃれたデザインの、色違いのスノウシューを持参されたご夫婦が、実は息子さんたちからのプレゼントだと言って、わたしをおどろかせた。

 ご両親に、こんなに高価で気の利いたプレゼントをされるとは、なんて心優しい息子さんたちなのか! うらやましさもあって、そのスノウシューを横目でずっとながめた一日であった。

 うちの息子たちも心優しいが、彼ら自身の日々の暮らしに精一杯で、親のことにまで目がいかない。それは、当然のことだと思っていた。

 それが、長男、次男と結婚して家庭をもってから、少しずつかわってきたのだ。彼らの暮らしは、独身だったときより、経済的にはおそらくもっときびしくなったと察するに、わたしたち親への気配りが、事あるごとに見えてきた。

 パソコンをつうじての私信であったり、高齢になった祖父母への見舞いであったり、なかなかきめの細かい連絡は、たぶん嫁さんたちの気配りによるものだと思われる。

だれもが知る〈かさ地蔵〉という昔話に、売れなかった菅かさを、地蔵さんにひとつひとつかぶせて帰ったおじいさんが描かれている。おじいさんは、雪のふる帰り道、冷たい石の肌をむきだしにならぶ地蔵さんが寒そうでせつなく、思わず全員の頭に菅かさをかぶせたのだった。

肝心なのは、その後だ。一銭の売り上げもなく、空手で帰宅したおじいさんが、地蔵さんにかさをかぶせてきたと、おばあさんに話すと、おどろくなかれ、おばあさんは、それはよいことをしたと言って、おじいさんを迎える。

子どものころ、その昔話をすんなりと聞いていた自分の耳が、年月を経てくると、すっといかなくなる。なぜって、地蔵さんにかさをかぶせた時、おじいさんは、今後の暮らしの糧を考えただろうか? 囲炉裏端でひとり待つおばあさんのことを、一瞬でも考えただろうか? 答えは、明らかにノウである。

現代風に考えれば、男としての使命感にうとく、情に流されるとんでもない夢見体質だと評価されかねない。

昔話では、その晩、地蔵さんたちの恩返しがあったのだが、それは単なる結果であって、おじいさんも、おばあさんもそれを予測も期待もしていなかった。

おじいさんも優しいが、それ以上におばあさんの、なんて寛大なこと。初雪が降るたび、わたしは古き時代の寒々しい家屋を思い、次第に白くなっていく平成の森を、じっと眺めるのだった。

今年の暮れは、世界的な経済危機が日本中をおおい、今までびくともしなかった大会社がピンチに陥っている。小企業で、共に正社員ではない次男夫婦もきっと、必死に働きながらも不安にかられているだろうと、遠くから心配していた。

久しぶりに次男の声で電話があり、いよいよ受難かと身を硬くしたわたしたちに、彼は〈夫婦で話し合ったのだが、お父さんたちにデジタルカメラを買って送るから〉と、さらっと言った。  

実は昨春、わたしがデジタルカメラにつまずいて転び、全体重がカメラにかかって壊して以来、我が家にカメラはない。息子はそのことをどこかで知り、嫁さんにプレゼント提案したのかもしれなかった。そして、嫁さんは賛成してくれたのだ、きっと。

冬に旅をする予定なので、いずれはカメラを購入するつもりだったが、まさか、このきびしい年末に、息子夫婦が買ってくれるとは、夢にも思わなかった。それに、中学二年のときからつい最近まで、教師や上司や親をさんざん困らせた息子だったから、正直、信じられない思いのほうが強かった。

あまりの突然の申し出に、もごもごと返す言葉をさがした、だらしのない親でもあった。

受話器をおろした後、わたしたちはスノウシューをプレゼントされたご夫婦を思い出し、また息子の寛大な嫁さんたちを思い、いったいだれに恩返しをしたらいいのかと、ラジオから流れるジングルベルを聞いていた。


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