☆ 樋口範子のモノローグ(2008年版) ☆

更新日: 2008年11月26日  
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2008年12月

 このモノローグに、何度か書いたことだが、わたしたち家族は1976年10月に、東京から山中湖に移住してきた。その2年後、現在地に家を建て、平野区の9組という隣保組に入れてもらった。

 隣保組に入るのは任意のため、よそからの移住者で、あえて組に入らない人たちは、大勢いる。しかし、自分たちには乳幼児もいて、地域の輪の中に入れてもらいたいという思いが強く、積極的にお願いしたのをおぼえている。

 隣保組組員になると、まず回覧板の回覧義務、週一回の湖畔清掃、また隣保組がうけおう葬儀などの手伝いも課せられるのだが、たいした負担感もなく、約23年間毎年常会に呼ばれて更新を認知されてきた。

 2003年4月、夫がよそからの移住者ではじめて村議選で村会議員に当選した後、平野区にある貴重な湿地帯の大がかりな観光施設建設計画に反対すると、平野区臨時総会の多数決で、わたしたち家族はその平野区隣保組から、即除名になった。観光の活性化を邪魔したという所以らしい。

 いわゆる、仲間はずれになった。

 さいわい息子たち二人はすでに他県に転出していたので、実質的には夫婦二人の除名なのだが、その日から回覧板は過ぎこしになり、葬儀などの手伝いに声がかからなくなった。

 わたしは、そのあまりにも一方的な採決におどろき、これでは今後区内での買い物はおろか、石油、ガソリンなどの燃料の補給を、はたして継続できるのかと案じた。〈蝶の舌〉という、政治的意図に踊らされた一般大衆の、実に理不尽なスペイン内戦にもとづく映画を観た直後だったので、いよいよ自分たちにも制裁かと、だいぶ身構えた。

 おそるおそる区内の商店に買い物に出かけると、今までと同じ親しみのある応対で、さらに石油販売店にいたっては、今までよりもっと親切な心配りをしてくれるので、わたしは正直キツネにつままれた。

区の総会では、もし多数に逆らえば、次は自分たちが仲間はずれにされかねないという脅迫心理に挙手した人たちも、対個人になれば、ぎゃくに後ろめたいのか、なにかと声をかけてくれるのだった。

以前は、年に二回ほど来ていた青年団獅子舞保存会による〈悪魔祓い〉も、当然立ち寄らなくなり、遠くにお神楽の笛の音が聞こえると、かつて獅子が来ると、泣いて逃げまわった我が家の子どもたちを思いだし、なつかしんだ。

ところが今月、とつぜん獅子舞の一団が玄関にやってきた。

一団を先導してきたのは、うちの長男のかつての同級生J君。獅子舞保存会の代が、明らかに代わったようだった。

「まあ、J君、久しぶりねえ。でも、うちは、除名になっているから、獅子舞はこないことになってるのよ」わたしは恐縮しつつ言った。

 J君、まったくひるまず、ライオンのたてがみのような金髪をかきあげ、「おれたちがやるから」と言って、にこっとした。

あまりのとつぜんの申し出に、わたしたち夫婦は二の句がつげず、ぼおっと立ちつくした。〈おれたちがやるから〉とはつまり、お宅の息子の同級生で、ふるさとに残ったおれたちの意志で悪魔祓いをやるから、隣保組がどうこうなんて、かまわないってこと! という意味だろう。

数分後、獅子の面と長着を身につけたひとりの青年が雪駄を脱ぎ、うちの店の真ん中で、笛の音にあわせて、二本の刀をあやつり、獅子舞を舞った。顔が見えないが、おそらくこの踊り手も、かつての同級生なのかもしれない。

獅子舞が終わり、わたしたちはていねいに礼をつくした。ライオンのたてがみJ君は、うれしそうに片手をあげて玄関を出て行った。

36歳になる彼らとは、中学を卒業した時点で別れ別れになったうちの長男だが、こうして、当人がもう村を出ているにもかかわらず、20年後にその実家に仁義をきってくれるなんて、予想だにしなかった。

あとで気づいたのだが、その日は、わたしの59回目の誕生日だった。こういう誕生日プレゼントを、いったいだれが期待できただろう。

子ども時代は、口下手で目立たなかったJ君が、自分の思いを堂々と発言し、実行できたことも、大きなよろこびだった。

〈おれたちがやるから〉。今年、わたしの胸に一番ひびいた言葉。

他県でくらす長男にも、ぜひとも伝えたい一言。きっと、彼のこころも動くにちがいない。

 6年目になる隣保組無縁の暮らしにも慣れ、こうして組からはずれたことで、むしろ人々の、広い珠玉の心にふれることができ、わたしたち夫婦は今後もずっと、このままの扱いでかまわないと思っている。

区内の葬儀も、結婚式と同じように、ここ2、3年は、富士吉田市内の公の施設で行われるようになったため、じっさい隣保組としての出番は、以前より減ったと思う。

隣保組という形が、時代とともに変化しても、村に生きる人々の、助け合うこころが変わらなければ、これこそ尊い継承であると、あらためて思わされた晩秋のできごとだった。


2008年11月

 41年前のイスラエルで、エステル・サムソンは、わたしたち日本人グループの、ヘブライ語教師だった。はじめて彼女に会ったとき、わたしたちは、あのアンネ・フランクを思い浮かべた。アンネ・フランクがもし命を長らえ、母親になっていたならば、たぶんエステル・サムソンに似た婦人になっていたことだろう。顔立ちが、実によく似ていたのだ。

 しばらくして、エステル・サムソンもまた、戦時中オランダの民家に隠れていた時期があると耳にした。生き残ったのは彼女一人で、ほかの家族は全員絶滅収容所で命を落としたという。

 しかし、その悲劇を、エステル自身がわたしに語ったことは、終ぞ一度もなかった。気性が激しく、ときにはヒステリックに怒り散らす彼女を村の大食堂で目にしたとき、ホストファミリーがわたしにそっとおしえた。「収容所症候群なのよ」

 ヘブライ語の授業には、ユダヤ系イギリス人やユダヤ系ドイツ人も生徒でいたが、エステル・サムソンは、どういうわけか、彼女と同じユダヤ系の白人をきらった。

 英語、オランダ語、ドイツ語、あるときはロシア語をあやつり、彼らに実に理不尽な言いがかりをつけたものだった。

 日本人をことのほか可愛がったのは、彼女が日本語を話せないからだと言った白人がいたが、じっさい日本人には授業では厳しくとも、一旦授業をはなれると、おだやかでやさしかった。彼女に何かむしゃくしゃしたことがあると、わたしはよく散歩のお伴に誘われた。オランダ語やドイツ語でわめきながら歩く彼女のわきで、それらの言葉をなにも理解しないアジア人は、きっと好都合だったにちがいない。

 2000年の秋だったか、とつぜんエステル・サムソンの娘ハナから、興奮した声で国際電話がかかってきた。ハナの娘、つまりエステル・サムソンの孫娘20歳が、日本の福岡の路上で、アクセサリーを売っていて逮捕されたようだ。本人とは連絡がとれないが、心配でしかたない。元気なのか、どうなのかもわからない。なんとかしてくれという、せっぱつまったものだった。国際電話は、泣き声混じりで、ほぼ毎日かかってきた。

 わたしには在日イスラエル大使館経由で、孫娘が留置場で一応健康でいる情報しかつかめなかったので、ハナの電話の対応にはほとほと困った。じっさい、福岡まで飛ぼうかとも思ったが、警察署という壁が高すぎて、決断しかねていた。

 あるとき、エステル・サムソン本人からわたしに電話があった。娘のハナが取り乱して電話をするようで、はずかしい。わたしは、日本人がどういう人たちなのか、よく知っているから、全然心配していない。法をやぶった孫娘が悪いのだから、その法によって裁きをうけるのが、当然と思っている。日本の警察が、孫娘に拷問などしないことは、わたしには、じゅうぶんわかっている。あなたたちの国で問題を起こして、ほんとうに申し訳なかった。そのうえ、あなたにまで感情的に電話をする情けないうちの娘ハナを、どうかゆるしてほしいと、淡々とした口調で話した。

 わたしは、エステル・サムソンを、今までで一番尊び、その重厚な言葉に感動した。日本の警察は、彼女が考えるほど正当ではないかもしれないが、少なくとも不法就労で逮捕した外国の女の子に、拷問などはしないだろうと、それだけは信じられた。

 二週間後、孫娘は留置場を退去し、本国強制送還ということでイスラエルに帰国した。エステル・サムソンから、ふたたびていねいにお礼の電話がきて、けっきょくなにも動けなかったわたしは、かえって恐縮した。

 そして2003年の、やはり秋だった。エステル・サムソンが昼寝をすると言って寝室に行き、そのまま86歳の生涯をとじたことを友人が知らせてくれた。「若いときに、あれだけ迫害や拷問にあい、辛苦に耐えぬいた人が、最後はしあわせな亡くなり方をしたと、みんなでほっとしているのよ」

そういう亡くなり方を、ヘブライ語では、天国のキスというのだそうだ。

わたしにとって、エステル・サムソンは、長い間はるか遠い国に住む人で、飛行機で20時間以上飛ばないと、会えない人だった。ところが、亡くなってからは、なんだか、すぐそこにいるようで、不思議な感じがしてならない。難解な構文に出あうときなど、ふと声をだして質問してみたくなる。〈エステル先生、この文はどう解釈したらいいのでしょう?〉

遺族にそのことを手紙に書いたら、「ノリコ、母がきゅうに消えたと思ったら、日本に行ってたのね。なんて素敵なこと!」と、またしてもハナの泣き声で電話がきた。


2008年10月

 大人になったら、なにになりたいか? なにをして日々くらしたいか? という質問を、小学生が問われたら、おそらく「ケーキやさんになって、周りの人に夢をとどけ、自分も楽しみたい」とか「花やさんになって、一日中美しい色といい香りに囲まれたい」、とか「医者や看護婦になって、無医村で活躍したい」とか、まず職業を軸にした将来を考えるかもしれない。そして周りも、「それはいいわね」とか「まあ、えらいこと」などと、遠巻きに無責任なことを言う。

 それから数年たって中高生になり、進学進路を間近にして希望学部を決めるにあたり、周りはいきなり「なんでもいいから、好きなこと、好きな道を選びなさい。これだけは自分の、というものを掴むのだ」とかなんとか、さらに無責任な示唆をしだす。

〈好きなこと、好きな道〉とは、いったいなんなのか? わたしには、とても言えないし、訊かれても答えられない。職業・稼業は、自ら選んで手に入れられる場合があるかもしれないが、生き方はけっして選んですぐに得られるものではないと思う。

中には、なんの問題もなく初心一徹のままパティシエや農民、医者になる人もいるだろうが、その示唆を大真面目にとらえた多くの中高生は、やがて、〈好きなこと、好きな道〉という言葉に呪縛されて、動けなくなると思う。わたしが中高時代に、もし同じ示唆を受けていたら、未だに〈好きなこと〉にこだわっているはずだ。

進路選択に悩む若者に、わたしはよく、伊藤浩美さんという映像カメラマンの15年間の話をする。

伊藤浩美さんは洋画好きの高校生だったが、そのうち黒澤明監督に傾倒し、映画の専門学校に進学した。とにかく、脚本でもカメラでも編集でも、映画に関わる仕事につきたかったのだという。ところが、2年後に卒業した彼が就職したのは、映画は映画でも、興行ではない教育科学映画会社で、撮影のアシスタントという仕事だった。

教育映画を撮影する現場での彼の仕事はおもに、昆虫や小動物の飼育、野鳥の観察、自然現象の実験設営などで、それは彼にとってまったく予期しない、未知の世界だった。

彼自身、昆虫好きの少年でもなかったし、鳥といえば、ハト、カラス、スズメしか知らないいわゆるごく一般の都会育ちの青年だったから、その気の遠くなるような作業は、けっして〈好きなこと〉ではなかったのだ。飼育に失敗すれば、とうぜん撮影にはこぎつけない。根気と細かい気配りを要求される地味な作業が、伊藤さんには苦痛で、毎日がいやでいやでたまらなかった。しかし、彼はその仕事を投げださなかった。

やがて10年をすぎたあたりから、その仕事がおもしろくなってきたという。じっさい、伊藤さんがわたしたちに語ってくれる、興味深い自然界の多くの営みは、のべ15年間にわたるその撮影現場での集積が基になっているはずだ。

10年間も、気のすすまない仕事場に通っていたその根気強さに、まずは敬服するのだが、もし彼が〈好きなこと〉に呪縛され、石の上に3年以上すわる必要はないと早々に決断していたならば、おもしろさには到底たどりつけなかったし、生きた情報が積まれることはなかったはずだ。

この話をすると、若者たちは一様にほっとした顔になる。躍起になって進路を選んで人生を設定しなくても、思いがけない道が開けるかもしれない。あまり論理的に考えずに、しばらく時間に身を任せてみるのも、悪くはなさそうだ。

職業と稼業と生き方が一致すれば、それに越したことはないが、なかなかそうもいかない。一致するなど、そう滅多にないはずだから。

それ以前に、これこそ自分の生き方だと、カン違いしていることも、きっと多々あるだろう。

あるとき、こうした一連の進路談義が、若者たちにというより、むしろ自分自身に向けて言いきかせ、自分自身を一番ほっとさせているのを知った。

伊藤さんの15年間を、わたしは若者に話すつもりで、実は自分の耳に何度も聴かせてきたし、これから先も、それを繰りかえすだろう。そしてその度に、自分の中のなにかが、なにかの呪縛から少しずつ、ほぐれていくにちがいない。

それでも尚、悩み多き中高年(中高生ではない)の思秋期にはかわりないのだが。


2008年09月

 昔、NHKラジオで、〈たずね人の時間〉という番組があり、戦中戦後に生き別れになった一般聴視者の知人や友人の消息を、全国から情報提供してもらう数分間があった。

当時小学生だったわたしは、女性アナウンサーの抑揚のない声で、たずね人の出身地、出会った時期、当時の年齢、職業、特徴などが語られると、なぜかきゅうに、夕暮れがせまったような寂しさをおぼえた。世の中には、離れ離れになっても、互いに再会しなければならない人たちが、こんなにもたくさんいるのかと、まさに大人の情の世界にふれる思いであった。

いつのころからか、その番組はなくなり、人々はラジオの力を借りずとも、もっと容易に再会できるようになったのか、それとも再会の必要がなくなったのか、〈たずね人〉という単語もほとんど聞かれなくなった。

わたしには、長い間、消息のわからない恩師があって、この歳におよんで、なおさら思慕の念が強くなった。それは、昭和30年ころ、新宿にあった明徳幼稚園のN・文子先生で、それまで通っていた別の幼稚園に通うのがいやになり、家でぐずぐずしていた自分を、すくってくれた先生だった。

一つ目の幼稚園を中退したわたしは、N・文子先生のおかげで、二つ目の明徳幼稚園には毎日通うことができた。きっと、なにか大きな魅力に、ぐーんと引っ張られたのだと思う。古いアルバムには、N・文子先生との小金井公園遠足のセピア色の写真が貼ってあり、先生のその笑顔に自分がどんなにすくわれたか、53数年たった今も安心感がよみがえる。

さらに強烈な印象があった。それは、卒園して三年後にN・文子先生が書かれ、出版された〈あした天気になあれ〉という体験記が、わたしに読書の楽しさをおしえてくれたのだった。それは、N・文子先生が、明徳幼稚園に赴任される前に働かれた幼稚園での、先生と園児たちのふれあいをえがいた作品だった。自分の恩師、身近に知っている方がこの本を書かれたという感動は、わたしを夢中にさせた。その本を、当時小学校三年生だったわたしは、なんどもなんどもくり返し読んだ。

昭和30年代前半に、幼稚園の一教諭が本を書くということがどういうことか、今になれば実に稀なこと、選ばれたことだと察せられる。

その後、先生とわたしは互いに引っ越しをくりかえし、音信が途絶えてしまった。

〈たずね人の時間〉という番組があれば、なんとしてでも情報を得て、ご存命であれば一目再会を果たしたいというのが、ここ数年の願いだったのだが、頼みの番組はもう消えていて、雲をつかむような願いだった。

 ある晩、先生には、たしかわたしと同歳くらいの息子さんがいて、K君と呼んでおられたのを、夢の中で思いだした。先生とK君の写真が、やはり古いアルバムにあった。おそらく、卒園後のわずかな文通期間に、先生から送られた写真かもしれない。そうだ! K君だった!

 わたしは、ネットでK・Nさんを検索してみることにした。稀なお名前なので、同姓同名は、ほぼありえない。はたして、パソコンの画面に、数年前まで某都立高校にて国語の教師をしていらした経過があった。さらに、日本近代文学の研究者でもあることが記載されている。

あの母にして、この息子にまちがいない!

 胸がどきどきして気がせいたが、二、三日間、じっくり考えることにした。個人情報についてはどこもかなり神経質で、そう簡単に情報を提供してくれないだろうと危惧した。

 いろいろと方法を考えた末、わたしは官製往復はがきに〈たずね人〉の内容をしたため、自分の住所と名前を記して、某都立高校宛てに投函した。七月のはじめだった。

 なんとその数日後、N・文子先生ご自身のお声でお電話をいただいたとき、ああ、わたしはまだ、あの晩の夢からさめていないのだと感動した。

おばあさんの声ではない。昔とまったくかわらないその高く澄んだお声に、53年間という途方もない歳月が、一瞬にして手繰り寄せられた。

 先生は現在84歳、お元気で、ご主人とお嬢さんと三人で、茅ヶ崎にお住まいだった。そして、わたしのことも、母や妹のことも、はっきりとおぼえていらした。

〈あした天気になあれ〉の本のことを口にしたら、その後、小説も書いていらしたこともあるとおっしゃった。この一言も、かなり大きく胸にひびいた。

 さっそくご住所をおききして、わたしの写真と家族の写真をお送りしたら、先生からもすぐに近影が送られてきた。昔と同じ髪型で、昔と同じ笑顔!

 思いきって、〈たずね人〉の葉書を書いてよかった。某都立高校の、どなたかのすみやかな手配にも、こころから感謝している。なんて嬉しいことだろう。先生のお声を直接耳にできるなんて、夢はまだつづいていたのだ。

9月になったら、〈たずね人〉ではなく、ほんとうのお手紙をゆっくり書きたいと、秋風を待つ今日この頃である。


2008年08月

 東京から山中湖に移り住んだころ、わたしたち家族4人は、村中(むらなか)の古民家を借りていた。

 昭和51年の晩秋、夕方だったか、大型リュックの若者登山者が二人、高さがわずか半間の引き戸を開け、できれば米を5合ばかり売ってくれないかと顔を覗かせた。今晩から近くの山に入るのだが、この村で米を調達する予定が、あいにく商店が定休日で、こうして民家に頼むしかないのだと遠慮気味に言った。

 わたしは咄嗟に、自分たちの米びつを思いうかべ、「ごめんなさい。お売りできません」と、にべもなく断った。

 彼らが帰ったあと、わたしはひどく悔やんでしまった。自分が山中(さんちゅう)に暮らしているならともかく、明日にでも商店に行けば手にいれることができるはずの米なら、融通してあげればよかったと。余裕がないのは、米びつだけではなかったようで、それ以後、登山者の姿が目にはいると、なんだかうしろめたかった。

 翌年の夏祭りの日、にぎやかな神輿行列を見送った直後、ひとりのお年寄りが、この近くで今晩泊まりたいのだが、宿を紹介してくれないかと、頭をさげた。わたしたち夫婦は、近くの民宿にあたってみたが、どこも合宿の大部屋造りで満室、ひとりのお客さんは無理と言われた。じっさい、そう言われて納得のいく状況だった。

 夫がわたしに目くばせをした後、うちの座敷でよかったらどうぞと言ったので、わたしはほっとした。前年の5合の米が、ずっと頭にひっかかっていたのだ。

 当時、5歳と2歳だった息子たちは、その老人が家の中にはいると、うちにもお客さんが来てくれたといって、大はしゃぎだった。保育園仲間のどこのうちも宿泊業で、夏はお客さんが大勢くるのに、うちは他所から移り住んだ勤め人の家で、夏祭りだというのに、だれも招待客が来ない。きっと、そんな祭りの晩を、息子たちは寂しく思ったのだろう。

 近所からとどいた祭り寿司やそば、さらにそのおじいさんのふくんだ笑顔が加わって、食卓はにぎやかになり、夕食後はいっしょに花火をして楽しんだ。その、物静かなおじいさんは、どうやら静岡県に住み、山歩きを趣味としていることがわかった。

 翌朝、わたしたちが起きると、おじいさんはもう発った後だった。奥の座敷には布団がきちんとたたんであり、その上に〈どうも、ありがとう。子どもたちに、花火を買ってあげてください〉と書いた封筒があり、中に二千円もはいっていて、とても恐縮した。

 それから毎年夏になると、おじいさんは花火を手土産にやってきて、もう泊まることはなかったが、息子たちと話していくようになった。体にたまった農薬や有害物質は、真夏に歩くことによって、汗といっしょに排出されるのだよと話し、息子たちから、静岡のおじいさんと呼ばれた。おじいさんとわたしたちは、年賀状を交換するようになった。

 わたしたちが現在の家に移ってからも、おじいさんは山歩きの途中でかならず寄ってくれた。そのうち、息子たちが県外の高校にすすみ、我が家に花火をする者がいなくなっても、おじいさんは、毎年さりげなく立ち寄って、子どもたちの成長話に耳をかたむけてくれた。

 おじいさん自身のことは、なにひとつ話されなかったので、はたして家族がいるのかもわからない。話題は、山歩きや旅にかぎり、なんとも味のある口調で、とつとつと、地方の寺社廻りや山歩きの話をされた。写真を見せてくれたこともある。

 ある年の年賀状に、足を悪くしたので、もう山中湖には行かれなくなったとあり、その年の夏から、すがたを見せなくなった。それから3年後の9月、おじいさんの長男と記す方から葉書をいただき、おじいさんが93歳で亡くなったのを知った。

 わたしたちは、おじいさんの年齢さえも知らなかったので、その93という数字に仰天した。

 逆算すると、はじめてお会いしたとき、すでに70歳を越えて、最後にお会いしたのは90歳だったことになる。その年齢で、まだまだ健脚だった。

 彼に、息子さんがいたこともはじめて知った。

 わたしは、すでに成人した我が家の息子たちにおじいさんの死を知らせ、彼らは幼い日の夏祭りの晩をよくおぼえていたので、とてもなつかしがった。

 年に一回だけ、20年間にわたってわたしたちと言葉を交わし、夜空にすいこまれる花火のように、消えていった旅人。

 あれからさらに7年がたつが、今年もまた夏祭りがきて、あちこちで花火があがり、子どもたちの歓声が聞こえる。

 昔とちがうのは、中高年のハイカーや素人カメラマンは多くなったが、大型リュックの若者登山者を、ほとんど見なくなったこと。ましてや、健脚で、かつ物静かなお年寄りの一人歩きには、そう簡単に遭遇できなくなった。


2008年07月

 大むかし、ペンパルという言葉があった。今でいうメル友とはちがい、文を考え、それを一文字一文字時間をかけてしたため、宛て名を書き、封書の重さを量って切手を貼り、郵便ポストに投函に行く。さらに郵便日数がかかって、相手方の手にわたる。

 手紙を受けとった者が、すぐに返事を書くとはかぎらないから、手紙の一往復が少なくとも1週間以上数年未満かかるのが、ふつうだった。そういう手紙を書きあって交流を深めていく間柄を、ペンパル、あるいはペンフレンドと呼んでいた。

 ローニーとわたしがペンパルになったのは、たがいに18歳のときだった。彼女はイスラエルのキブツ・カブリに生まれ育ち、そこに研修生として住みはじめた日本人のわたしと友人関係になった。

そして半年後、徴兵制にしたがって彼女は二年間の兵役についた。兵舎がどこにあったか知らないが、二週間か三週間に一通の割合で、軍にいる彼女からキブツにいるわたしの元に手紙がとどき、ヘブライ語のボキャブラリーがまだ乏しかったわたしは、辞書と首っぴきでその手紙文ととりくんだ。

辞書といっても、ヘブライ語と日本語の直接の辞書はないから、まずはヘブライ語と英語の辞書、その後に英和辞典という二本立て。

やっと理解したと思ったら、もう次の手紙がきて、あっぷあっぷの状況なのに、ローニーはわたしの筆不精をいつもなげいた。不精なのではなく、時間的にも能力的にも無理なのだと言っても、なかなかわかってもらえなかった。ヘブライ語がきついなら、英語で書けばいいのになどと、無理難題を平然と言ってのけた。

兵役といってもほとんどの週末はキブツに帰宅するのだが、それでも彼女はわたしに手紙を書いた。手紙と彼女が、同時にわたしの部屋にはいってきたこともあった。

彼女の手紙の内容は、主に軍での日課や読書の感想、仲間の紹介などで、小さくて几帳面な文字がびっしりと並び、一通につき数枚の便箋がふつうだった。難易度の高い単語には、解説や英訳をつけてくれることもあった。

 おどろいたのは、彼女はすべての手紙のコピーをカーボン紙でとっていた。そうしないと、返事がきたときに、つじつまが合わないのだという。家族宛てにも他の友人宛てにも手紙を書いていたし、そのうえ毎日日記もつけていた。

わたしもかなりの筆まめで、一時ある人に連続ファクス魔と呼ばれたこともあるが、ローニーほどの書記魔には今だ出会ったことがない。彼女とたまたまペンパルになったために、わたしはその後数十年にもわたって、鍛えられることになった。

 わたしが日本に帰国した後も、たがいの環境がどんなに変わろうとも、彼女は手紙を書きつづけた。わたしは結婚が早く、出産、育児に追われ、手紙を書くどころではなくなったので、当然彼女から毎回なじられることになるのだが、それでも彼女はあきらめずに手紙を書いた。

 言い訳がきかないので、わたしは堂々とズボラでいるよりほかなかったが、彼女の手紙だけはきちんと読んだ。理科の教師になった彼女の暮らしの一部始終、つきあう彼氏の性格から趣味、家族関係まで、わたしはすべて知っていた。さらに、別れのいきさつもその都度知っていた。三人目の彼氏は、たしか交通事故で死んだ。

 手紙が行き来しなかったのは、彼女自身が来日して、我が家に一ヶ月くらい滞在し、いっしょに山を歩いたり、遊泳禁止の山中湖で泳いだりした時期だけで、その後ひとりでアジアやアフリカを廻ったときも、行く先々で手紙をくれた。

 ふたたびイスラエルに帰ったローニーは、今度はわたしにヘブライ語の書物を何冊も送ってくれたので、わたしはまた辞書をひきひき、それらを読んだ。

 彼女は36歳で結婚し、37歳で初産、39歳で二番目の子を出産し、手紙を書く時間のないことを、やっと実感してくれた。このとき、わたしは長年の梅雨空に晴れ間を見たように、せっせと手紙を書き、実にいい気分を味わった。

 やがて彼女も、物理的な子育てを卒業し、世はIT時代になった。わたしたちはもう手紙は書かなくなったが、メールは頻繁に書くし、スカイプというパソコン電話で、たがいの顔を画面で見ながら話すことも年に何回かある。それでも彼女に言わせると、わたしは超筆不精なのだそうだ。

 ヘブライ語の活字はパソコンに入っているが、右から左への文章はとても書きにくく、活字があちこちジャンプしてしまうから、英語で書くことが多くなった。しかし約40年近くの彼女との文通で、わたしはヘブライ語を一時も離れることがなく、ボキャブラリーを増やす必然に迫られ、常に読み書きをつづけていた。

 今までに行き交った膨大な便箋の量、単語の数を思うとなおさら感慨深く、今後なにかを40年間つづけるというのが、まずは不可能だと知れば知るほど、最初で最後の、たったひとりのペンパルをかけがえなく思う。

〈ペンパル〉という言葉は死語になったが、こういう友人関係は、国境を越えても越えなくても、まだたくさん生き残っていると思いたい。


2008年06月

 養護施設の保母をしていたとき、入所児童の床屋、病院、歯科の付き添いも、自分の仕事のうちだった。病気の場合は、注射をいやがるくらいで、たいして抵抗しないのだが、問題は歯科の通院だった。乳児院からそのまま養護施設に措置変更されてきた子どもたちは、規則正しい食生活をしているので、ほとんど虫歯がない。ところが、4歳から5歳まで一般家庭にいて、不規則な食生活、偏食、栄養不良などを経てきた子どもたちには、乳歯の虫歯が多かった。

痛む虫歯に泣く子どもたちは、治療のために歯科医にきたとは、簡単に理解してくれない。わたしがまず歯科の診察台にすわり、膝の上に子どもを抱いて、その姿勢で治療してもらうのだが、子どもは身の危険を感じて、泣き叫ぶ、暴れる、歯科医をつきとばすなど、なんでもやってくれる。

当時、わたし自身の子どもは8歳と11歳だったが、ふたりとも虫歯がなかったので、わたしはそれまで子どもの歯科通いを経験したことがなかった。

とにかく、歯科医も付き添いのわたしも、暴れる子どもたちをなだめるのに必死だった。たいてい、なにか楽しいお話をして気をちらすとか、好きなぬいぐるみを持たせて気分をかえるとか、いわば雰囲気をごまかして、子どもの意識を治療から遠ざけることしか考えられず、運良く気がそれたときに、歯科医が絶妙のタイミングで治療をしてしまうという妙技を、協力してやってのけた。

欧米では、なんでも子どもにきちんと説明して、納得させてから行動するというが、わたしは生意気にも、言葉で説明することだけが教育だとは思っていなかったので、あえて歯科治療のこまかい説明をしなかった。しかし、その分苦労することになった。

あれから25年以上たち、自分自身の歯科通いで、たまたま幼児たちの歯科での光景を目にすることになり、おどろいた。

4歳から5歳の幼児たち、診察台で泣く子はひとりもいない。わたしはすでに、10数回歯科に通い、毎回少なくとも二人の幼児と同じ時間 診察室にいるのだが、どの子もすっと診察台にあがり、治療が終ると、すっとおりる。

あるとき、しっかり観察をしてみた。というのは、診察台にのぼるのをぐずった子がいたからだ。どうするのか、じっと見ていた。

その男の子はぐずったので、看護師さんに抱っこされて、診察室のコーナーにあるおもちゃ箱の前にすわった。母親は、別の診察台で治療をうけているので、看護師さんしか手があいていなかった。その若い看護師さんが、実に根気よくその子としばらくおもちゃで遊んでいた。説教じみたことも、治療に誘導するような声かけもしていない。

いったいどうするだろう。わたしは、診察台で大きく口を開けながら、横目でその子を追っていた。

その子は、ここが診察室であることをすっかり忘れたかのように、おもちゃに夢中だった。都会の歯科医にはありえない、のんびりした時間経過だと思うが、おもちゃ遊びに満足した子どもは、看護師さんになにか話しかけられて、しばらくうつむいていた。

つぎの瞬間、子どもはすっと立って、診察台にあがった。あっという間のできごとだった。

おそらく、看護師さんに歯の治療をうながされたのだと思うが、子どもは看護師さんの言葉を頭で理解したのではなく、言葉を聞いて、腹で決めた! それがわたしには、よくわかった。なんてすがすがしい、こんな幼い子どもが、腹で決めて行動する。わたしには、目のさめるようなできごとだった。

この若い看護師さんは、何事もなかったように、また元の定位置に戻ったのだが、あっぱれ! というほかなかった。

わたしは、自分の子どもを二人育て、保母を5年もしていたのに、子どもの崇高な一面を知らずにここまできた。ほんとうにおどろいたし、恥ずかしかった。


2008年05月

 一般小説にたいして、児童文学、YA(ヤング・アダルト)向けという区分けが、いつごろからできたのかわからないが、欧米でも日本でもその区分けは、出版時点ではっきりしている。表記の使用漢字や活字ポイント、単語表現の難易度がまず異なる。

なのに、子どもが主人公のすぐれた映画、たとえば「蝶の舌」「今を活きる」「ニュー・シネマ・パラダイス」「鉄道員」(イタリヤ)「自転車泥棒」「シックス・センス」、邦画なら宮崎駿監督のアニメ映画などを、あえて児童映画とは呼ばない。映画は、成人映画と一般映画、文芸作品と娯楽作品、あるいはドキュメンタリー、ファンタジーなどの大まかな区別しかなく、それは大事な区分けだと思う。

 世の中の文学には、子どもの視点から描いた作品が多くあり、それがとても重要な問いかけをしているのに、あえて一部の作品に〈児童〉と付けるのは、読者を限定しているのではないかと残念でならない。

 たとえば、児童文学のあさの・あつこさん、森絵都さん、この二人はすでに一般文学の書き手でもあるが、彼女たちの児童文学と呼ばれる各作品のなんと上質で、きめの細かい描写(特に大人の心理描写がすごい!)か、読むたびにおどろかされる。大人にもぜひ読んでもらいたい。きっと、ぐさっと刺さり、どきっとして、背中がしゃんとするにちがいない。

ぎゃくに、児童文学という範疇ではなく一般文学の書棚に並んでいる、たとえば佐藤多佳子さんの「一瞬の風になれ」、川上健一さんの「翼よいつまでも」、重松清さんの「ビタミンF」「きみの友だち」などの物語には、大人も子どもも実に生き生きと描かれていて、できれば多くの中高生に読んでもらいたい。きっと、悶々としたこころに風がとおり、さわやかな朝をむかえることができるだろう。

図書館や書店の、一般文学と児童文学の区分けを越えて、大人も中高生も自由に行き来するようになれば、もっと豊かな読書生活が得られると思う。さいわい、絵本の価値がおおいに認知され、大人のファンが増えた昨今なので、児童文学への道幅も広くなる期待はあるが。

「ゲド戦記」などの翻訳で知られる、児童文学の英語翻訳者・清水真砂子さんの講演集に、児童文学の定義があり、おおいに納得した。それは、児童文学というのは、物語の結末が肯定的で、〈生きるのって、いいものだな〉〈前をむいて歩く価値がありそうだな〉と、思わせてくれる作品だということだ。

 それにつきるなと、わたしは共感した。それは、ハッピイ・エンドというニュアンスとは、ちょっと異なる。どんなに悲惨で、どんなにつらい物語の結末でも、読者には人生への肯定的な問いかけが残る作品をいうのだと思う。けっして、おどろおどろしい印象を残さず、必要以上に人間の恥部を見せつけて混乱させない作品。人生の苦難や無情を受容していく力をあたえてくれる読み物、明日への意欲をくれる読み物、それが児童文学だと認識するようになった。

清水真砂子さんの定義を知って、図書館がさらに広くなったような気がする。

図書館について、もうひとつ。それは、図書の貸し出し、返却の操作がデジタル化しつつある現在、図書館員と利用者の生の交流が少ないということだ。以前は、返却カウンターで交わされる本の感想を小耳にはさみ、次回、その話題の本を借りたら、おおいに当たりだったという経験がいくつもあった。おすすめの本を、新聞・雑誌の書評やネットのランク表、仲間内の感想でしか知ることができないのは、なんともさびしい。残念ながら、紙上書評で絶賛されていた、たとえば村上春樹作品などに、わたしは感動したおぼえが一度もない。

図書館が、レファレンスの拠点、貸し本窓口という位置づけだけではなく、読書が大好きな人々の、生の声がとびかう広場であったらどんなにいいか。

もし、あとひとつ人生があれば、わたしは古本屋のおばさんになりたい。大きなはたきをもち、自分好みの書棚前に長居する学生さんたちに、思う存分はたきをふりまわして、一つや二つ絶品のいやみを言ってみたい。


2008年04月

 今から24年前、山中湖畔のカトリック児童養護施設に保母として勤めていたわたしは、食堂や廊下の掃除、保育補助の合間に、事務室で事務長(シスター)の補佐をすることが多かった。

 事務室は正面玄関のすぐ脇にあったので、出入りの業者から一般の来客、修道院関係の聖職者、収容児童の保護者など、一日に平均20数名の接客をした。今は亡き、バチカンの枢機卿・浜尾文郎神父の玄関中に響きわたる大声や、東京都の各児童相談所から入所する児童の小さな手、収容児童の親と子の面会風景、携帯電話のない時代の住み込み保母さんたちの公衆電話など、その正面玄関にはなつかしい数々の思い出がある。その中で、大山行男氏の来訪も、印象深い思い出のひとつとなった。

 その日、シスターが午後のミサからもどってきた直後で、わたしは不得意な事務仕事をしていた。

 玄関に入ってきたのは、自分と同世代の30代後半、なんというか、無愛想でぱっとしない男性だった。

「はい、ご用件をおうかがいしてよろしいですか?」

 男性は、わたしの目の前にいきなり一冊の写真集を出して、「見てください」と言った。

 富士山の写真集であることがわかったが、客の意図がわからないので、わたしはとまどった。

 男性は、自分がオオヤマ・ユキオという写真家で、この写真集の写真を撮った者だが、ぜひ見てくださいと、その一点張りだった。

「なんなの?」と、事務室の奥からシスターが声をかけた。

「あのう、写真集を・・・見てくださいと、富士山の写真集を」と、わたしはもごもごした。

「買えないから、帰ってもらってちょうだい」またしても、シスターの声がする。

「あのう、申し訳ありませんが、購入できませんので」こう言うと、たいていのセールスマンはそそくさと帰った時代でもあった。

 ところが、オオヤマ・ユキオと名乗る男性は、まったくひるまなかった。今から思うと、そのときの写真集が彼の処女出版(1984年)だったはずだ。

「買ってくださいって言ってるわけではありません。ぜひ、すばらしい富士山を見てください。見てくださるだけで、いいんです。ほんとうに美しいんです」オオヤマユキオ氏は嬉しそうにして、写真集のページをいくつかめくって、わたしに見せようとする。

 正直、素直に写真に目がいかない。なんだか奇異な感じがして、わたしはオオヤマ氏に「申し訳ありませんが、おひきとりください」と謝って、事務室に逃げこんだ。

 そのうち、玄関の閉まる音がして、オオヤマ・ユキオ氏が帰っていったのをきいた。尋常ではない気迫だけが、玄関に残っていた。

 おどろいたのは、その2,3時間後、帰宅途中のわたしが見たのは、さきほどの写真集を手にしたオオヤマ氏が、湖畔の家を一軒一軒まわっている姿だった。富士山しか見えていないその人を、簡単に変わり者とは呼べない気がした。

 そして、24年たった今、大山行男氏は、日輪、彩雲という神秘的な富士山を撮らせたら、おそらく日本で屈指の異色の写真家と言われるようになった。週刊朝日の〈富士燦燦〉で6ヵ月間連載された素晴らしい作品の数々は、だれにも真似できない構図、色、その光具合で、今や人気の写真葉書に複製されている。

以前は、移動しながらの車上生活で富士山を追っていたと聞いたが、今は表富士に、どの窓からも富士山が撮れるような奇妙な形の家を建てて、一応は定住したという。

富士の病は、まさに不治の病と言われるように、大山氏のこの20数年の遍歴をみると、富士にとりつかれ、富士に恋して、一度はアメリカに行き、富士を客観視しようとしたらしいが、結局はまたしても呼び寄せられて富士や樹海を撮りつづける、富士に呪縛された一人の男性像が浮き上がる。

これだけ有名になっても、偉ぶるわけでもなく、また仕事が完成したとも思わない、あのときのオオヤマ・ユキオと同じだと聞くにつけ、わたしはあのひんやりした正面玄関にとびこんだ彼を思いうかべて、拍手したい気もちになる。ふつうは、有名になったり、先生と呼ばれたりすると、尊大になるものだ。

こういう稀な人柄というのも、富士のもつ偉大な恩恵のひとつだと思いたい。


2008年03月

 一月下旬に、福島県のある奥深い村に、知り合いの若いN夫婦を訪ねた。たまたま、わたしたちは年に一度の旅で、猪苗代から福島をへて一関、平泉を、8日間かけてまわる予定でいたので、道中その村に寄れたらいいとは思っていたが、雪の状態などで、はたしてたどり着けるかどうか、数日前まで未定だった。

 運良く、その週は積雪が少なかったこともあり、福島駅からバスで長時間ゆられて、夢のような再会をはたした。4歳と2歳の子どもを育てる彼ら四人家族は、村の廃屋に近い家を仲間たちと時間をかけて改造し、裏畑で米や野菜、自宅で保存食をつくり、ほぼ自給のくらしをしている。N男さんは、他の村民と共同で野菜をつくり、顧客に配達、販売をしていくばくかの収入を得ているらしいが、N子さんは子育てもあるし、この夏に3人目の出産をひかえて、専業主婦に忙しい。お産婆さんが、冬には来られないので、夏にしてほしいと言ったとか、N子さんが笑った。

彼らの結婚前を知っているわたしたちは、東北の寒村でたくましく暮らしているすがたに、まず感動した。現代人のほとんどが、デラックス願望で、既製品を軸に裕福に暮らしたいと思っている中で、こういう少数派がいることに、おおいに励まされる。N男さんもN子さんも元来口数が少なく、気負いがなく、かつてはどちらも福祉施設職員として黙々と働く若者だったが、結婚後も一貫した暮らしをつづけている姿を見ると、彼らの底力に驚嘆せずにはいられない。

 彼らにはテレビ、パソコン、ファクスがなく、ダイヤル式の電話機だけが、唯一の連絡手段だ。もちろん、携帯電話も携帯していない。暖房は、薪ストーブと炭のコタツ。トイレは、水洗肥料式を自分たちで考案して造った。

テレビに依存しない子育ては、ほんとうにたいへんだと思う。しーんと静まり返った屋根の下で、子どもたちに本を読んでやるN子さんの声。鍵のない玄関から、親しげに顔を見せる村の人。縁側で、湯たんぽをかかえて丸くなるネコ。となりの小屋につながれた、〈つむぎ〉という名の白いヤギ。壁のあちこちから、容赦なく吹き込むすきま風。子どもたちがせがむのは、軒下に吊るされた干し柿。わたしたち自身、若いころは似たような暮らしをしていたが、肩にはもっと力が入っていたように思う。

わたしたちはその朝、福島駅のデパ地下で、惣菜をいくつかみつくろって持参したが、N子さん作のかぼちゃと小豆の煮物が、一番美味しかった。

夕方になって、わたしたちは再び福島駅にもどるバスに乗った。「ビジネスホテルに泊まっているってきいたから、これお弁当です」帰りに、N子さんが思いがけず持たせてくれた紙袋の中に、手造りのお稲荷さんが8個、りんご、焼き菓子、干し柿、ピーナッツ、それに割り箸が二膳、きちんと並んで入っていた。自分たちの暮らしだけでもたいへんなのに、こんな気まぐれな旅人の、見送ったあとの食事まで心配してくれる、その思いにわたしたち二人は言葉がつまった。

その晩、福島駅近くのビジネスホテルの一室で、わたしたちはそのお弁当を、時間をかけていただいた。どんな形容詞も、野暮に思えたひととき。

予報どおり、晩から翌朝にかけて、かなりの雪が降り、あの村はしばしのあいだ、陸の孤島になったはずだ。

〈あれからうちは、みんなで順番に風邪をひいて寝ていました〉その後とどいたN子さんからの手紙には、風邪をひいて寝込むことが、災難ではなく、東屋で雨やどりでもしたかのように書いてあった。


2008年02月

 イスラエルのかつての集団農場、キブツの変化については、以前にも書いたことがあるが、ほとんどのキブツが、ついに給料制をしいたということが最近わかった。

 先日、わたしが二年間滞在したキブツ・カブリの里親と、スカイプというパソコン電話で話したとき、彼らはすでに現金をもち、キブツ内にはスーパーマーケットがあり、一般社会のように消費生活をしているのだと、気まずそうに言った。第一世代である彼らは、時代の流れにキブツの理念がくずれていくのを、おそらく断腸の思いで見てきたのだろうが、第二世代の改革案が、つぎつぎ多数決で決まってしまうので、少数派の彼らは手も足もでない。〈老いては子にしたがえ〉は、残念ながら、彼らの安住の願いではなくなった。

 1968年当時、キブツのだれもが、給料などまったくなく、私有財産、現金をもたずに生き生きと働いていたその熱気が、自分にはなつかしく、雇用労働制や給料制の導入がつくづく残念でならないのだが、それは極東に住む他人に、時間的、距離的、意識的なブランクがあるからで、もしその他人が第二世代としてそこに定住していたら、はたしてどういう判断をしているかわからない。

 とにかく、失敗しなかった実験として、社会学や経済学、教育学で高く評価されたイスラエルのキブツは、60年という短いか長いかわからない命で、その幕を閉じた。

 給料やボーナスは、どういう基準で決まるのかときいたら、メンバー年数、労働時間、家族人数などによるそうだ。

「でも、いいこともある」と、彼らが唯一自慢気に言ったのは、キブツのメンバー(今となっては村民)が、物や食料を大事にするようになったというのだ。公けの物だった自転車や自動車は、個人所有になったら、だれもがていねいに扱い、こまめに点検され、車体は磨かれ、長持ちするようになったし、以前は残食が多くて〈もったいなかった〉食材も、今では無駄なく消費されるようになったという。

 消費社会になったら、無駄がなくなったというのは、なんとも皮肉なものだと思った。共同体、あるいは共産社会というのは、貧困からある程度ぬけ出ると、今度は人間の欲を黙認して、別の方向へ加速度がついてしまうものなのだろうか?

 あるとき、禅宗の僧侶がラジオで話していた。「貧困や災害、戦争の渦中にいるときや求道の最中は、まわりの人もまわりの環境も、みんな自意識の中に感じられるのだが、それが満たされてくると、自分という間口が、だんだん狭くなってくる」と。

 つまり、暮らしが安穏になると、ごく自然に個人主義になってくるというのだろう。しかし、生まれながらに安穏な暮らししか経験しない世代に、もし貧困や災害などが起こったら、はたして彼らに、間口の広い自意識が生まれてくるのだろうか?

〈自分が多少飢えても、家族以外の人々と食料を分け合えるだろうか〉かつて、それを幻想ではないと信じた自分に、この一年をかけて、あらためて問い直してみたい。


2008年01月

 日本の初代首相で、立憲国家を確立した伊藤博文の肖像は、日本人ならだれもが知っている。旧千円札に印刷されている、長いあごひげをもつ氣むずかしそうな老翁。

 わたしも長い間、その肖像しか知らなかった。ところが、二年前に山口県の萩に二泊したとき、思いがけず伊藤博文の青年時代の写真に出会った。二泊した民宿の壁に貼ってあった、地元の信用金庫の2006年用カレンダー〈長州ファイヴ〉に写っている5人の日本青年のひとりが彼だった。

 わたしはそのカレンダーがどうしても欲しくて、自転車で市内をまわったとき、その信用金庫の本店をさがし、カウンターに行って、わけを話して二枚分けていただいた。

 そのカレンダーのセピア色の写真は、1863年(文久3年)ごろ、ロンドンの写真館で撮られたという。

 長州藩から密航で送られた5人の留学生は、後の外相、蔵相の井上馨、日本の工業立国化に尽力した山尾庸造、鉄道敷設を整備した井上勝、造幣技術を確立した遠藤謹助、そして伊藤博文の平均24歳の若者たちだった。

 横浜港からロンドンまで、丸5ヶ月の船旅をへてロンドンに到着した彼らは、ちょんまげを断髪にし、なれないスーツを着、革靴をはいて、写真館の絨毯の上で、それぞれポーズをとっている。

5人のどの顔にも、長州から選ばれた誇りと期待感がにじむ。現代の日本人が、欧米文化にとまどうのとは、はるかに異なり、おそらく衝撃に近い海外留学だったにちがいない。

 なのに、彼らの表情は今の若い男の子たちと、そんなに変わらない。あの威厳をもった伊藤博文にも、ふつうの男の子だった時代があったのだと、ついつい見入ってしまうほど、強い自己顕示欲と野心が垣間見える。写真館で、口々に気恥ずかしさをうったえる5人の会話さえ、わたしには聞こえそうだ。

 1890年前後に、ハプスブルグ家の遠縁の貴族に嫁いだ青山ミツコの伝記を、たまたま読んでいたとき、すでに政界の重鎮であった伊藤博文が、ドイツとオーストリアに寄るたび、青山ミツコをたずねて親切な言葉かけをしていたという記事を読んだ。ミツコに言わせると、当時の日本から訪れる政治家の中で、伊藤氏だけが信頼できたそうだ。

 若き時代の写真を見た後だったので、その訪問の様子がふつふつと浮かんで、思わず微笑んだ。まさか、生まれたときから、お札にあるような御顔であるはずはないのだが、歴史上の人物というと、その評価はどうであれ、どうしても体温のない特別な人という印象をぬぐえない。

 萩の信用金庫でいただいた二枚のカレンダーのうち、一枚は母にお土産として手渡し、一枚は自分の寝室に貼った。2006年がすぎて、不要になったカレンダーの部分を切り離した後も、〈長州ファイヴ〉の5人は、未だにわたしの枕元を見下ろしている。

 おどろいたのは、母もまた申し合わせたように、同じことをしていた。そして、「たしかに当時のエリートかもしれないけど、ふつうの男の子たちね」と、共感し合った。

 お札の写真が、もしこの若き伊藤博文だったら・・・・若者たちがもっと積極的に、社会全体のくらし、つまり政治に参加したのではないかと思った。


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