☆ 樋口範子のモノローグ(2007年版) ☆

更新日: 2007年11月28日  
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2007年12月

 近隣の建物がほとんど別荘という中で、W家は学生民宿を経営するために、今から30年前に富士吉田市から我が家の向かい隣に引っ越していらした。偶然にも、互いの子どもたちが2人とも同年齢だったために、保育園の送迎、小学校の行事など、まるで身内のように声をかけあった。W家のご主人は銀行員で夜遅く帰宅、我が家の主人は当時東京で働いていたので週末のみの帰宅。当然、私道の雪かきや森のゴミ拾いなどは、W家の主婦のK子さんとわたしで協力し合ってこなした。

 K子さんは、冬季以外は50人収容の学生民宿を営み、3食の献立、調理、配膳、食器洗い、掃除、買い物、発注、会計など、バイトの女の子をつかって、ひとりでなにもかもこなしていた。当時はわたしも、児童養護施設で保母として働いたあと、自宅で業務用のパンを毎日焼いて、ペンションやレストランに配達することに追われていた。

 K子さんもわたしも働くことが苦にならず、それだけに朝から晩まで忙しかった。その合間に家事と子育てをしていたので、家の中は行き届かないことが多く、互いの息子たちが悪さをしたときなど、ふたりでえらく気落ちしたこともあった。

 今から12年前、わたしたちが喫茶店を始めようとする矢先、K子さんはくも膜下出血で倒れて10日目に、あっという間に亡くなってしまった。48歳だった。

 あれから12年がたつ。K子さんの学生民宿は閉じられ、互いの子どもたちは、順に家をはなれ自立した。ご主人と中学生の末娘が大きな家に残って暮らしていたが、隣家のわたしでさえ、K子さんの不在に慣れるまで長い時間を必要としたから、遺された家族の心中を察すると、どうやって力になってよいものか、とまどうばかりだった。

そのうち、W家の末娘も東京に巣立っていった。成人した子どもたちは、帰省すれば時に我が家に寄ってくれるが、一人暮らしのご主人とは距離がこんなに近いのに、年に数回、挨拶を交わすだけになってしまった。寡黙、実直、辛抱強く誠実な方で、わたしたちとはいわゆる密着型の付き合いではなかった。

 ところが、数年前のある朝7時半に、そのご主人が我が家の玄関にいらした。何事かと、わたしは怪訝な顔をしたはずだが、ご主人はいつもの穏やかな口調でおっしゃった。

「実は、わたくし事ですが、銀行を定年退職することになりました。今朝がその最後の出勤なのです」

「まあ、それは長い間、ほんとうにごくろうさまでした」

「それで・・・・・どうか見送ってくださいませんか」

 なんと虚飾のない、崇高な願いだろうか! わたしは深く頭をさげて、ご主人の車を見送ったのだが、しばらくは頭をあげることができなかった。そしてそのあと半日、わたしはずっと赤い目をしていた。

 ふだんは寡黙でも、肝心なときに肝心なことが言える方を、わたしは尊敬する。羨ましくもある。そして、そういう方が隣人であることを、こころから光栄に思う。


2007年11月

 富士山麓の紅葉が、はじまりつつある。

ここ山中湖畔の昨年の紅葉ピークは、例年よりおくれて11月10日だったから、今年もおそらく10日前後に旭日丘(あさひがおか)付近の道路沿いのケヤキとカエデが、赤く飴色に透きとおってくると思う。

4月の下旬に、東南アジア方面からわたってきたキビタキやオオルリという渡りの夏鳥が、そろそろ渡り支度をはじめている。というのは、森のピッコロといわれるキビタキが、今までになくけたたましく啼くので、それがわかる。毎秋、渡る直前になると、一段と高い声で、はげしく啼きつづけるのはどうしてなのか? 自分なりに考えてみるのだが、理由はもちろんわからない。

「今から南へ行くよ。長い旅路だから、もう行かなきゃね。引き止めるなら、今しかないよ。今から行くんだから」

「ねえねえ、喫茶店のママさん、いっしょに行かない? 南の島のくらしは、もしかしたら、ここよりずっと快適かもしれない、そう思わない?」

「森の留鳥さん、リスさん、それにフクロウさん、ムササビさん、冬の間、どうぞ仲良くくらしてください。わたしたちは南に行きます」

「帰るんじゃないんです。だって、ここで産まれたんですから、南に行くんです!」

 わたしは、啼き声を聞きながら、人間中心の発想で勝手に想像、翻訳してみる。そんなわけは、ぜったいにないと知りながら。

 この半年間に、渡り鳥たちはこの森で縄張を張り、必死の求愛行動の末にパートナーを射止め、ペアリングの結果、産卵、抱卵、たゆまぬ子育てをこなしてきた。

そして、新しく巣立った子どもたちにとっては、未だ見ぬ南の島を目指すのだ。けっして群れではなく、家族単位でもなく、個々にとびたつというが、長い海上の旅で、その約7割が命を落とすという。東南アジアまで、約5000キロメートル。この野鳥の小さい体でいったいどうやって、そのとんでもなく桁違いな長距離をとぶのだろうか、どう考えても想像がつかない。

 来春、ふたたび4月の下旬に渡ってくるのが、果たして同じ個体なのか、今年の個体と血縁にある個体なのか? 知るすべはない。野鳥の宝庫といわれる富士山麓、軽井沢、奥日光に、いったいどういう振り分けで降り立つのかわからないが、でも確実に、数羽はこの森に降り立ってくれる。数とすれば、そんなに多くはない。この森にも、キビタキはせいぜい10羽いるかどうかだから、縄張の範囲から推測して、湖畔全域でも100羽前後だと思う。オオルリなどはもっと少ないから、ほんとうによくぞ降り立ってくれるという思いだ。

 連日の発声のせいか、いよいよ啼き声が、かすれてきた。「じゃあ、みなさんお達者で」なんて、言ってるわけはないだろうが、わたしは「君たちこそいい旅を!」と声をかけずにいられない。


2007年10月
 今から10年くらい前だったか、喫茶店稼業をはじめてまもなく、たまたまNHKの〈ラジオ深夜便〉という人気番組で、詩人の荒川洋治氏が詩人の仕事について、話をされていた。 詩人というのは、まるでせまい路地のつきあたりで、たったひとりで小さな店をはっているようなものだという。そこには通行人もないし、めったに客は訪れないが、もし人が店頭に現れたらすみやかに、客の希望するものをさっと差し出す。それが、詩人の仕事だというのだ。

 わたしは詩人ではないが、それを聴いていて、自分のことを言われているのではないかと、ぞくっとした。湖畔から急坂をのぼり、小高い山のほぼてっぺん、通行人のまったくいない行き止まりの道ぞいで、喫茶店の看板を出したわたしたちの能天気といったら、相当なものだったにちがいない。いったい、だれがお客さんになってくれるのか? 今でも、キツネやイノシシが木の葉をもって現れそうな立地だから、商いについては真剣に考えてもみなかった。

 はじめの半年は、知り合いや友人が心配して立ち寄ってくれたり、お客さんを紹介してくれて、次第に店らしい雰囲気になってきたと思う。でも、カウンターの中にすわっているわたしの心情はまさに、詩人の仕事同様だった。お客さんが、いつ立ち寄るかわからない、立ち寄ってくれないかもしれない、でも、気をぬかずにじっと店をはっている、その緊張感。そして、立ち寄ってくれた人の希望するものを、さっと差し出さなければならない。

〈ラジオ深夜便〉を聴き終わったわたしは、ひどく気が昂ぶって、さっそく荒川洋治氏に手紙を書いた。せまい路地のつきあたりで店をはっているのは、詩人ばかりではなく、実はわたしどもも同じですと。

 翌朝、たしかNHK気付けで、荒川洋治氏の宛名を書いて投函した。

 思いがけなく、荒川氏から葉書で返事をいただいた。〈いつか、立ち寄りたいと思います〉と青いペンで書いてあるその葉書を、わたしは今もお守りのように大事にしまってある。

 おかげで、そんなうちの喫茶店もなんとか11年目にはいろうとしている。まるで街中の喫茶店みたいに忙しい日もあるし、カウンターの中で二冊も本が読めてしまうくらい暇な日もある。どちらにも、それぞれ楽しみを見つけることができる。

客足が天候に左右されることはないが、お客さんが〈さあ、きょうは山中湖のあみんに行こう〉と腰をあげてくださるのは、いったい何がきかっけなのか、わからない。カツオやニシンなどは回遊魚といって、一定の経路を季節的に移動する種類の魚だが、人間も無意識のうちに一定の行動経路に順じているのかもしれない。なぜなら、道路の渋滞状況などの条件は別として、日によってお客さんの流れに特長がある。午前11時にランチタイムのピークがあったり、昼は暇なのにいきなり午後2時に満席になったり、人々はこちらの予想外の経路でおいでなさる。

 この11年の間、赤ちゃんは立派な小学生になり、子どもだったお客さんは成人し、カップルだったふたりは別れたり、あるいは3人、4人と着実にファミリーになり、中高年は初老になった。片や亡くなられた方も、かなりおられる。

喫茶店稼業というのは、人生の交差点にすわっているようなものだと、このごろ思う。通りいく人々の喜怒哀楽や生き死にを、ふと垣間見たり、見過ごしたり。そして、店側から飲食を差し出すだけではなく、けっして目に見えるものではないが、お客さんから店の者に差し出されるものもあるのだと、気づくようになった。その多くに、さまざまな人間模様を学ぶことができる。

 葉書をくださった荒川洋治氏が、はたして立ち寄ってくださったのかどうかもわからないが、もしお会いできることがあれば、詩人の店もたしかにせまい路地のつきあたりにあるかもしれないが、時としてそれは交差点の真ん中に浮遊することもあるのではないですか? とうかがってみたい。


2007年9月
 あと2年で還暦を迎える年令になり、あらためて自分の30代、40代にまいもどって今を見てみた。

 かつて遠かったものが近くなり、あんなに近かったものが遠くなった。なぜかわからないが、濃かったものが薄くなり、薄かったものが、濃厚になりつつある。
 
 たとえば、歌の好み。長い間、さだまさしのファンだったわたしに、吉田拓郎の一曲が舞いこんで、あっというまに虜になった。吉田拓郎は、自分にはまるで無関係だと思い込んでいたから、自分ながら意外だった。彼は、粗野な男たちのあこがれだとカン違いしていたら、実は無器用な視点で、女心を懸命に歌っているのかもしれないと、今になって気づいた。昨夏の嬬恋でのコンサートビデオを、今年もまたビール片手に長時間観てしまった。それも、独りっきりで観るのがいい。飛び入りの中島みゆきにも、ノックアウトされた。

  たとえば、絵画の好み。抽象画はよくわからないと敬遠していたが、あるとき無名の画家の真っ黒な絵が、ぐっと迫ってきた。タイトルは、「遠い記憶」とあった。まさにそうだと、ずばり納得してしまった。それ以来、いくつかの抽象画にすっと向かえるようになった。けっして目ききではないのに、具象の壁をつきぬけると、そこに抽象の世界が現れるような気さえしてきた。
 
 たとえば、食の好み。豆腐といえば木綿ひとすじだったのが、最近は絹に手がのびる。こってり中華料理もまたよし。苦手な激辛はさておき、韓国料理の初体験も忘れられない。この年になって、豚の肩ロースを大鍋で茹でている自分が、魔法使いのおばあさんのように思えてきた。

 たとえば、野鳥の好み。オオルリ、キビタキ、ヒレンジャク、ルリビタキ。美しい羽の色をもつ野鳥に夢中だったけれど、このごろは始終目にするヤマガラと目があったりすると、なんて可愛らしいと思うようになった。特に、首をかしげる仕草には、「えっ、なんなの?」と、言葉かけをしてしまいそうになる。

 さて、今後また年を重ねていくうちに、さまざまな遠近がいれかわっていくだろうが、ひょっとして大型犬にさわれる日もくるかもしれない? かな?


2007年8月
 わたしたちの住む村の近くにある街、富士吉田市で、ロケをした映画「ゆれる」を観た。

 はじめは、見慣れた街並みとストーリーに気をとられていたのだが、そのうち予想以上に追いつめていく心理描写に、脚本家のただものではない才能が見え隠れして、画面の前を動けなくなった。

 日川渓谷の風景も、すばらしかった。水の色、つり橋のアングル、重なり合う落葉樹の葉、岩の力強さ。そして、なんといっても、主役の香川照之が光っていた。弟役のオダギリ・ジョーもよかったけれど、香川の働くすがたが美しい。一昨年だか、「いつか読書する日」という名画で、やはり働くものの美しさを、思う存分見せてくれた田中裕子を彷彿とさせた。「ゆれる」の最後のシーンは、今思い出しただけでも、泣けてくる。香川が、歌舞伎役者で終らなくて、つくづくよかったと思った。

 おどろいたのは、脚本と監督が若干32歳の女性だということ。この女性、西川美和さんのこの作品は、彼女の長編二作目だというから、わたしは自分の耳をうたがった。この作品は海外でも評価をうけ、昨年のカンヌ映画祭監督週間部門で上映されたという。今年のカンヌでは、河瀬直美監督の「もがりの森」が受賞し、彼女もまた30代の女性だ。

 年齢や経験を重ねていくうちに、さまざまなこころの綾が見えてくるものだと思っていたが、どうやらそうとは限らないらしい。年齢や経験の多少に関係なく、見える人には見えるし、わかる人にはわかる。どうやら、そうらしい。なにごとにも時間のかかる、わたしたち凡人は、そういう人たちの作品にふれ、それぞれの時間を計りなおして、やっとのことで納得する。そして、だれにも「ゆれる」深層があるのを、あらためて知って、ほっとする人もいるだろうし、さらに悩む人もいるということだろう。

 実さい、この振幅の大小が、人生の綾を編んでいくのだろうが、30代のころの自分は、人は年齢を重ねていけば、ゆれなくなるだろうとカン違いしていたし、ゆれるのを、見て見ぬふりする術も、まったく知らなかった。

 90歳をすぎた高僧に、迷いなど、あってたまるかと思っていた。


2007年7月
 自宅の軒下と、近くの樹木の幹に鳥の巣箱を3個つるして、すでに10年以上がたつと思う。巣箱の穴はどれも直径2・8センチなので、それ相応のウエスト寸法をもつシジュウカラかヤマガラが、毎年巣づくりをして、それぞれ巣立っていく。

 巣箱には、毎年野鳥が入居するものだと思い込んでいたので、今年の3個すべての空巣には、さびしいを通り越して、ひどく気落ちしてしまった。3個の巣箱のうちの1個には、内覧、敷金の口約束程度のきざしがあったのだが、けっきょく入居にまではこぎつけなかったし、ほかの2個にはまったくの素通り無視だった

 GWのあと、いつもだったら、巣箱にエサをひんぱんに運ぶ親鳥のすがたや、日増しににぎやかになっていくひなたちの「エサ、エサ、早くちょうだーい」の声が、だれをも笑顔にさせてくれるのだが、今年はシーンと静まりかえった巣箱を見上げては、ため息ばかりであった。理由は、わたしたち人間にはわからない。皮肉なことに、東京目黒の実家の母がかけた巣箱には、なんと5年目にしてはじめてシジュウカラが巣をつくり、それもぜんぶ無事に巣立ったようで、81歳の母の喜びようといったら、それこそ5年に一度の歓喜に近いものだった。

 さて、巣箱には入居しなかった野鳥たちは、それでもこの近くで、例年どおり巣づくり、巣立ちをしたらしかった。というのは、6月中旬、親鳥のあとをついて飛ぶ、数羽のひな鳥を何度も目撃した。それどころか、まだ自分でエサをついばめないひな鳥たちが、親鳥から口うつしでエサをもらう瞬間を何度か目にして、そのすがたに言葉をうしなった。

 飛ぶことはできても、まだ羽の色がうすく、羽毛がもにゃもにゃしていて、鳴き声もうすべったいひな鳥は、初夏にはよく見かけるけれど、子育てを目の前で見たのは、はじめてだった。そっけなく飛翔距離をのばしていく親鳥と、その親鳥を見失うまいと必死についていくひな鳥たちから、わたしは視線をはずすことができなかった。エサをとる、飛ぶ、分けあたえる、食べる、飛ぶ、エサをとる、飛ぶ、分けあたえる、食べる、飛ぶ、・・・・を何度も何度もくりかえす。

 生き物たちのくらしは、シンプルで、一途で、そして、なんて美しい。危険ととなりあわせなのに、慌てることも、恨むこともなく、ただ淡々と次の世代への命をつないでいく。

 〈鳥はえらい、ほんとうにえらい〉。巣箱には入居しなかったけれど、たいせつなものを見せてくれたシジュウカラ、ヤマガラのひな鳥たちは、きのうあたりはもう、親のあとを追わなくても、自分でエサを食べにこられるようになった。ほんとうに、巣立ったということだろう。そして、来年か再来年はもう巣づくりをして、親鳥になって、次の世代に、生きるすべをつたえていくのだ。

 托卵という、自分の生んだ卵を別の鳥に育ててもらう何種類かの鳥がいるが、その習性も人間のもつ道徳的ものさしや感性だけではとうてい測れない。それもまた、地球の歴史とともに、大自然を生きてきたすべなのだろうと思うと、やはり言葉をうしなう。

 森の生き物を見ていると、ついつい、言語をつかえばつかうほど、誤解が多くなってしまいそうな気がする。生き物たちの命が、言語をこえたところにありそうだからだ。


2007年6月
 今年の5月の連休は天候に恵まれ、湖畔のボート業者、宿泊業、そしてうちのような飲食業、どこも千客万来で連日混雑した。ふだんのんびり接客している我が店も、朝から夕暮れまで駆け足でテーブルの間を廻り、12日間休みなしでがんばった。そんなわけで、連休後の安堵感に、心身ともにひたりたくて、友人と犬1匹と連れだって、隣の道志村の大室山に行くことにした。というのは、たまたま友人が道志村の某地点でつり橋を渡ったら、大室山に行く道しるべを見たというので、じゃあ行ってみようと、前の晩おそく、即決まったのだ。

 伊豆の大室山、富士山の大室山(残雪の中、たいへん苦労した記憶があるが)どちらにも登ったことがあるので、その名称と、そこそこの標高のお椀型を想像して、ひかれたのも理由のひとつだったかもしれない。

 翌朝、快晴の中、わたしたち3人と1匹は、道志村の久保にある地場野菜の売店に車を置かせてもらい、意気揚々と足取り軽く出発。しかし、つり橋に足をのせたとたん、眼下の深い渓谷に頭がくらくらして、恐怖心につぶされそうだった。犬のへっぴり腰というものに、わたしは初めてお目にかかった。犬には”つり橋”という言葉の認識がないのに、やはり地に足がつかないのが怖いらしく、人間同様に腰がひけ、渡りきったわたしは大笑いした。

 とにかく、大室山という道しるべをたよりに登り始めた。ところが、きつい傾斜の登山道がどこまでもつづき、早くも息ぎれがして、何回も休むことに。でも、あと少しで頂上だと自分に言いきかせて、またもや登り始めること2時間。ときどき前方に空がのぞくと、あそこが頂上だと思い込むのだが、それは毎回うらぎられた。登れども、登れども、なんの変化もなく、わたしたちはだんだん不安になってきた。登山道はあるが、道しるべに距離の表示はない。

 実は、3人とも地図はもっていなかった。バックパックには、お弁当と飲み物しか入っていないという浅はかさ。それでも、なんとか頂上にたどりつける気でいる。昼になったので、お弁当をひろげ、その後まだ登る気でいた。そうさ、連休がんばって働いたんだから、久々の定休日は楽しまなきゃ! と意気込みだけは元気。

 やがて、雲行きがあやしくなって、ぽつぽつ降ってきた。なにこれ? きょうは快晴のはずなのにと思ったのは、まさに能天気。3人とも、天気図の確認をしてこなかった。3人が3人とも、”連休中は天候に恵まれ”という呪文を、ずっと信じきっていたらしい。やがて、遠雷が聞こえてきた。まさか! と思ったときはもう遅くて、雨は本気らしい。山を下るしかない。もう頂上への期待どころではなかった。なんと、3人とも、雨具をもっていなかった。なんという無茶で無防備、無鉄砲な中高年か! わたしたちが、である。

 登りもきつかったから、下りも相当なものだった。当然、膝ががくがくして、うまくいかない。それでも、雷は確実に近づいてくる。ああ、神さま、どうか無事に下山させてください。遭難したくありません。はたと、つり橋が金属製だったことに気づいた。橋床も橋げたも、全部が金属ということは、もしつり橋に落雷があれば、感電してしまう。橋が感電すればどういうことになるか、想像するだけで心臓がばくばくした。

 雨よけに非難する場所など、山中にはどこもないので、とにかく下山するしかない。 必死とは、こういうことだ。3人がそれぞれ無言で、ほうほうのていで山の斜面を駆け下り、雷鳴の合間をねらってつり橋に足をのせた。あとはもう、橋の途中で立ち止まることなく、渡りきるしかない。渡りきった瞬間、足がつったけれど、なんとか遭難しなくてすんだ。近くの売店にとびこんだわたしたちを、店の奥さんがもの珍しそうに見た。

 友人が大室山の登山道についてたずねたら、登りだけで3時間半かかるそうだ。「頂上のながめはいいですか?」「そうでもない」という奥さんの即答が、その日の最大の落ちだった気がして、3人とも笑った。登る前に、聞いておけばよかったのに、それもしなかった。

 ふだん、ハイキングに行かれる店のお客さんには、ちゃんと準備をしてくださいね、雨具を忘れずに、無理はしないでなどと、偉そうにアドバイスしていることを思うと、ほんとうに恥ずかしかった。仲間で山に行くときは、たいてい伊藤さんが下見をしてくれて、ガイドをしてくれて、そういう温室に慣れすぎていたのも確かだった。

 土砂降りの中帰宅して、すぐに天気図を見たら、降水確率が80%で、雷のマークまでついていた。ほんとうにわたしたちは、阿呆だった!

 よく、なにか事故や事件があると、「あの人にかぎって」という声をきくが、魔がさすというか、すぽっと緊張がはずれることがあるのだ。今回それを、痛感した。

 足の筋肉痛もかなりひどく、2、3日間家の中の階段の上り下りに苦労した。しかし、公務があって山に行かなかった主人に笑われそうで、無理して平気をよそおい、それもまた、きつかった。


2007年5月
 大衆の声というのは、ときにはたいへん酷く無神経で、事件などがあると、実にさまざまな反応がとびかう。そして、多数におもねた風評が、なんの疑問も検証も経ないまま、声高にちまたを流れていく。
 
 今から36年前、日本中がほぼ丸一日テレビの前に釘付けになった、あの〈あさま山荘事件〉の、連合赤軍との銃撃戦で、何人かの警官が殉職した。そのひとりのU警官が、たまたまわたしの実家と同じ町内の住人で、わたしたちはひどくショックを受けた。遺された家族を思うと、その家の前を通ることさえ、はばかられた。わたしは、はじめての出産を数ヵ月後にひかえていたので、人の生き死にに関してなおさら敏感になっていたのかもしれない。その日をさかいに数ヶ月間、新聞もテレビも極力さけてくらしていた。

 梅雨の時期だったと思う。たまたま同居していた実の祖母が、「あの人たちは、いい思いをしているでしょう」と、わたしに向かって唐突に言った。わたしは最初、祖母の意図がわからなかったけれど、そのうち、祖母が銃撃戦で殉職された遺族のことを言っているのだとわかった。つまり、殉職したのだから、国から相当の慰謝料をもらって、裕福なくらしをしているにちがいないというのである。祖母の言葉に、わたしは、当の銃撃戦よりもっともっとショックを受けた。〈なんて、ひどいことを〉、よりもよって自分の身内の口から聞くことになるとは! あれから36年たった今の今まで、わたしは家族にもだれにも、そのことを打ち明けずにきた。

 わたしの両親は、とりたてて信仰心はなかったけれど、お金云々で人を羨んだり、蔑んだりすることのまったくない人たちだったから、祖母も同じ価値観だと思っていた。でも、どうやらそうではなかったのだ。

 たとえ、町内のだれかが発した〈こころない大衆の声〉だったとしても、それに異議を感じなかったのは、とても恥ずかしいことだと思った。年を重ねるというのは、時としてえげつなくなるものか?、とさえ思った。

 祖母はその翌年、ひどい認知症になった。でも、ほかには病気がなく、85歳・老衰で、自宅で息をひきとった。医者が死亡診断に来て、「大往生ですよ」と笑顔で帰っていったのを、今でもはっきりおぼえている。〈毒をかかえても、大往生できるのだな〉と、すでに乳児の母親になっていたわたしは思った。

 先日、何十年かぶりに、勇気をだしてかつてのU家の前を通った。以前の家は跡形もなく、瀟洒なアパートが建っている。

 ほんの少しだけ、足が軽くなった。


2007年4月
 このお彼岸に、自然映像カメラマンにガイドをお願いして、知人、友人と箱根に行った。箱根は、山中湖から車で40分も走ればついてしまう、実はおなじみの近所なのだが、その洗練された町全体の雰囲気が好きで、前日からわくわくしていた。

 3月20日に春のオープンをした湿生花園で、カタクリ、水芭蕉、座禅草、おきな草などを鑑賞したあと、その映像カメラマンがかつてトンボの撮影をしたという湿地を案内してくれることになった。仙石原からゴルフ場のあいだをぬけ、とんでもない悪道を走ったところに、その場所があった。小さな池があり、「ここから先は野鳥の住む場所なので、静かにお願いします」という、おだやかな字体の表示板が一枚立っていた。

 池の淵で、6歳から10歳くらいの少年が4人、釣糸をたれていたので、わたしたちは、静かにそのあたりを散策した。

 幼いころから、すでに50数年間、幾度となく訪れていた箱根。さまざまな顔をもつ箱根を、わたしはかなり知っているつもりだったが、この池はもちろん、その近くを流れる早川、川岸の遊歩道、竹林には初対面だった。さらに、4人の男の子たちの、釣りに夢中になっているすがたに出会い、思わぬ至福の午後となった。

 4人の男の子たちは、どの子も現代風の髪型と服装で、たぶん地元の小学生だと思われた。池の入り口に、スポーツタイプの自転車が3台横になっていて、ほかにはだれもいないことで、それがわかった。彼らは、スルメをちぎって釣り針につけ、なんとザリガニを釣っていた。きしゃなバケツらしき器に、すでに数匹のザリガニが入っていて、一番年下らしい男の子が、わたしたちを警戒してか、器をちらちら見ていた。わたしたちおばさんは、いまどき、ザリガニを釣る子どもたちがいること、それだけに胸を熱くしていたわけで、ザリガニを盗む気など、さらさらなかったのだけど。

 スルメをつけたり、釣り場所を移動したり、釣竿を引き上げたりと、彼らはもう夢中だった。「お兄ちゃん」と呼ぶ子がいたので、たぶん兄弟が少なくとも一組はいたにちがいない。3台の自転車にはサドルしかなく、荷台がないので、2人乗りできそうになかった。ということは、もしかしてこの弟は、3台の自転車のあとを、必死に走ってついてきたのかしら? と思われた。その光景を想像すると、胸に夕焼けが広がっていくようだった。どこの弟も、兄や姉にうとんじられながらも、後を追ってみたいのだ。

 想像もふくめて、なんとも、すがすがしい光景だった。〈ああ、こういう子どもたちがまだいるのだな〉 今どきの子どもたちは・・・と、簡単にくくってはいけない自信を、あの日の、箱根の片隅で、わたしたちは胸にきざんだ。そして帰り際、仲間のひとりが、「おじゃましました」と、小声で言うのを聞いて、わたしもこころの中で言った。


2007年3月
 子どもというのは、ほんとうに大人とはちがった目をもっているようだ。つい先日、84歳の叔父の通夜の席で、わたしはそれをあらためて実感した。

 84歳の叔父は、その生涯を尺八製作、演奏と木彫だけに本腰をいれた人で、世間ではいわゆるお変人といわれていた。気に入ったものより、意に沿わないもののほうが多く、そばにいる家族はたいへんだったと思う。しかし、そのわずかに気に入ったものとは、正面から真剣に向かいあい、妥協せずにつきあったので、その一生はだれの目にもあっぱれだった。

 叔父はおそらく、山にでも入って、人知れず死をむかえたかったにちがいない。しかし、病院大嫌いでも入院した以上、それはかなわなかった。それにおそらく、市営の大きな斎場で、通夜や告別式を執り行われるのも、意に沿わなかったにちがいない。しかし、さまざまな事情でやむをえなく、ごく一般的な式場になった。

 ただ、菩提寺の和尚が、なかなかの哲学者で、また故人をよく知っていたため、お経と説法がわかりやすく、たいへんこころにしみるものであった。単なる儀式ではない、生きた言葉で司式された通夜、告別式だったのが、姪としてうれしかった。きっと、叔父自身は満足気に苦笑したと思う。

 叔父は、おそらく意に沿わない華やかな祭壇の真ん中で、意に沿わないきれいな棺に、横たわっていた。
 6歳になる親類の男の子がその棺の中を、かなり長いあいだ、のぞいていた。なにを考えているのか、不思議そうな顔をして、いつまでも棺をはなれようとしなかった。ふとその男の子が、このおじいさんは、いつ亡くなったのですか?と、近くの人にきいたらしい。その人は、火曜日に亡くなったのですよと、男の子におしえた。そうしたら、その子は、「じゃあ、日曜日には、生きていたんだね」と、ぽつんと言った。

 そのとおりなのだが、わたしたちには、目のさめるような言葉だった。日曜日には生きていた人が、火曜日にはもう死んだ。死とは、そういうものだと、あらためて知った。数日前の日曜日は、男の子にとって、なにか特別な日だったのかもしれない。その日曜日の生を、棺の中の故人と共有したが、今はもう共有できない。それが、男の子にとって、死という実感になったのだろう。

 叔父はきっと、この子どもの言葉を、和尚の説法と同じくらいよろこんで手土産にし、つぎの世へ旅だっていったと思いたかった。

 叔父の通夜は、子どもに、哲学をおそわった一日でもあった。

2007年2月
 友人を食事に招いたり、友人宅に招かれたりすることがよくある。わたしは、どちらかというと、大勢のパーティより、2,3家族の少人数の食卓が好きで、話題も食欲も適当に盛り上がって、楽しい時間をすごせるのがうれしい。 一品もちよることもあるし、もちよらないで、大ごちそうに出会うこともある。図々しくも、一汁一菜の普段の食卓に、平気でお呼びすることもあるし、地方名産の頂き物をメインに、ちょっとぜいたくな食卓を囲むこともある。

 きょうは、わたしにとって忘れ得ない食卓について、書こうと思う。今から数年前、真冬のある日、わたしたち夫婦は、近所のK氏を訪ねた。たしか、なにかの用事があっての訪問だったようにおぼえている。折りしも、厳冬の年で、道路は凍結し、道路の両側にかいた雪が高々と積もり、新聞配達も郵便配達も、大雪による遅配承知の連日だった。
 とうぜん、村内のスーパー店頭に、生鮮食品がとぼしくなり、隣村や隣町の大型スーパーに行くには、道路状況が悪くて、そう簡単に行かれなかった。そういうときのために貯食してある乾物や缶詰、レトルト、冷凍食品を総動員して、なんとか食べつないでいた時期でもあった。

 K氏の家で、用件を終えたわたしたちは、帰るしたくをしていた。早く帰らないと、道路がツルツルに凍結してしまう。我が家は、急坂をのぼったところにあるから、タイヤがすべったら、帰宅できないどころか、車ごと坂の下に落ちてしまう危険があった。

 それまでいっしょに話していたK氏の奥さんが、なにもないけど、夕食はいかが? とひきとめてくれた。道路の凍結はたしかに怖かったけれど、きっとそれより食い意地のほうがはっていたのかもしれない。「ええ、それじゃあ、ごちそうになります」

 ずっとおしゃべりしていたわけだから、奥さんに料理の時間はなかったし、道路状況は買い物どころではないので、わたしたちは別にごちそうを期待していたわけではなかった。数分待って、食卓に並んだのは、なんと4人分のおかゆと、4粒の梅干だった。2人分のご飯しかなかったので、それを4人分にふやすために、おかゆにしてくれたという。なんて、美味しくて、暖かくて、豊かな食卓だっただろうか!

 窓の外は真っ白で、冷え冷えしていたけれど、わたしたちは、おかゆの椀を大事にかかえて、楽しく語り、笑いあった。今、思い出しただけでも、こころがしゅんしゅんと音をたてる。

 たった2人分のご飯しかないときに、食卓にさそってくれたその気もちが、なによりのごちそうだった。後にも先にも、これほど感動した食卓はなかったように思う。じっさい、自分に同じことができるかと問われれば、まだまだ足りない修行が身にしみる。


2007年1月
 男女同権、男女平等が叫ばれて、かなり久しいのですが、昨今は同権、平等の理解がかなり誤っているように、感じます。職場での給料査定差別や、セクシャルハラースメントは、おおいに改善されなくてはならないと思いますが、ひとつ屋根の下の、夫と妻の同権というのは、非常にあいまいですので、下手をするとおかしなものになりかねないと危惧しています。

 これは研究結果にもよるのですが、男女の心身、社会認識のちがいはかなり大きく、短絡的に男女の差をないものと決めるのは、非科学的、非日常的、非文化的な示唆だと思います。その行き過ぎた啓蒙の結果、ひな祭りや五月の節句、「男の子だから」「女の子だから」という表現まで否定された時期が、ここ数年あり、その問題が表面化してあわてた文科省で、今年になってやっと見直される気配が耳にはいりました。

 妊婦の苦労を知るために、若い夫が妊婦教室に通い、自らお腹に布団をまきつけて家事をするというのをきいて、正直言葉を失いました。それなら、妻のほうも満員電車に乗って、いやな上司につきあい、理不尽な仕事をする夫の日常を同じように体験すべきだと、わたしは思います。

 きれい事を言わせてもらうと、夫と妻が同じことをするのではなく、それぞれに役目があって、たがいにその役目を尊重してこそ、家庭生活を営む意味があるのではないかとも思います。

 異議を唱えられるかもしれませんが、爺さんは山へ芝刈りに、婆さんは川へ洗濯にが、もっとも自然な夫婦の日常だと思っています。ふたりで川に洗濯に行くと、たしかにふたりで洗濯の苦労は実感できて、互いに協力しあっているという表面的な共感に浸れるかもしれませんが、ただそれだけのこと。子どもは混乱するでしょう。

 男には女の気持ちはわからないし、女には男の気持ちはわからない。でも喧嘩しながらも、分かり合おうと努力して、たぶんそれには数十年かかると察しますが、なんとか違いを尊重できる入り口まできたら、しめたものだと思います。
 喫茶店を営み、そう忙しい接客でもないのですが、年間数百組の夫婦を観察して、このことを痛感する2006年の年末です。


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