Road to FRANCE PART2 【1998ワールドカップ本大会篇】

トゥールーズの嘆き後篇

1998年6月14日 トゥールーズ

一縷の希望もついえて(6月14日 午前8時〜9時55分)

バスに乗り遅れたので、バス停から電話でタクシーを呼んでチケット受け渡し場所のホテルへと向かう。昨日買ったテレホンカードが大活躍だ。

ホテルには「ぴあ」関係の表示はなかった。もしかしたら、日本の旅行代理店関係がまとまっているのかもしれない。とりあえず、携帯に電話してみた。本人はいなかったが、やはりまとめて対応しているようだ。それにしても、もらったチケット受け渡しの説明では、3人のスタッフの名前とそれぞれの携帯電話の番号が明記してあった。それなら、常時1人か2人はいるのが普通ではないか? もう、チケット入手をあきらめて撤退したのだろうか?

小さな会議室は、予想に反してまったく混雑していなかった。さっき電話に出てくれた女性が代表ユニを着たカップルに、チケットはない、代わりに体育館のスクリーンで観るための招待券を、という説明をしていた。ドア口のおじさんは、低姿勢でとにかく謝ってくれた。どうやら、各代理店が共同で応対にあたっているらしい。スクリーンは、体育館と、スタジアムに近い公園の2個所。スタジアム付近には、チケットがないと入れない。というか、チケットのない人はスタジアムのそばに行かないでほしい。「混乱を避けるため」。数千人の「ダマされた」人間が集まって暴動になったら収拾がつかない、というのが本音だろう。

件の女性から体育館のチケットをもらい、説明を受けた。払い戻しはする。それ以外の補償は未定。クロアチア戦も同様の措置になるだろう。詳細は決まっていない。前々日の木曜日にまた電話してほしい。実にビジネスライクで、クレームをつける気にもならない。

ホテルから、駅へと向かった。明日の朝のモワサック行きを予約。スタジアムのそばにも行けないのなら、もうひとつのプランをスタートさせよう。トゥールーズで、ロマネスク探訪だ。

駅から西へ、そして右折。のみの市にぶつかった。その中心がサン・セルナン聖堂だった。

さまよえるチケット難民(6月14日 午前9時55分〜12時40分)

静かな教会の中で、ごく自然に祈った。勝利ではなく、すばらしいゲームを。たとえ離れていても、私の声が、気持ちが選手たちに届くことを。

サン・セルナンから南下。キャピトル広場には、チケットを求める人々が群れていた。しばらく様子を見ていたが、それらしい人はいない。もはやチケットの交渉は峠をこしたか、場所をスタジアム近くに移したか。どちらにしろ、需要の圧倒的超過を考えるとチケット入手の見込みは低い。

公衆電話から、明後日以降のモンペリエ2泊を手配しようと電話作戦。3軒目でOK。しかし、ここも市内中心部から距離がある。

さらに、ロマネスク巡りを続行。オーギュスタン博物館で12世紀の柱頭に感嘆して、いよいよ体育館方向へと歩き始める。途中、ハムとチーズのサンドイッチとコーラ・ライトでおなかをなだめる。

やがて、大きな建物が見えてきた。通りの向こう側に大型バスが連なって駐車している。どうやら、着いたようだ。HIS、日通、各社ツアーが勢揃いしている。キックオフ2時間前なのに、すでに青、青、青の行列が蛇のようにのたうっていた。

歴史的瞬間を待つ(6月14日 12時40分〜午後2時15分)

よくわからないが、列の最後尾をめざす。ほとんどは日本人で、しかもツアー客。添乗員らしき人がいろいろ注意をしている。みんな代表ユニに身を包んでいる(添乗員を除く)。列は実質的には無秩序だったが、律儀な日本人は真面目に暑い陽射しの中、行列をつくり、静かに開場を待つのだった。

これもよくわからないのだが、ピエロのような扮装の一団が、ドラムと共に踊りだし、雰囲気を(どんな雰囲気じゃ?)盛り上げていた。もしかしたらトゥールーズの若者がかわいそうなチケットのない日本人を少しでも元気づけようとしてくれたのかもしれない。これがけっこうノリがよくって、ラテン系ならみんな踊り出すだろうに、われらが日本人はキョトンとして曲の切れ目に拍手するぐらい。それでも、不穏な感じはまったくなく、時折「ニッポン!」コールが湧く、実に品行方正なサポーター集団であった。

1時30分過ぎ、列が動き出した。4千人ぐらいはいるらしい。さしたる混乱もなく、荷物チェックを受けて次々に会場の体育館へと入った。中は薄暗い。当然ながら、「アリーナ」のできるだけ前をめざす。もちろん、そこは床に直座りだが、どうせ試合中は立ちっぱなしなのだ。意外なことにフロアへと殺到する人は少なく、左右と後方のスタンド椅子席へと向かう人が多かった。

前方にはたしかに大きなスクリーン。20メートル以上はあるだろう。うまく中央前方にポジションを確保。みんなは思い思いに準備をはじめた。垂れ幕。紙吹雪。寄せ書き入りの日の丸。太鼓。私は、ここでシャツを脱いだ。この日のために買った日本代表ユニフォーム・レプリカの98年アシックス。2002JAPANのタオルマフラー。臨戦態勢だ。

また、あのドラムが響いた。今度は、みんな踊り始めた。少ないがアルゼンチンの水色縦縞ユニも見える。ここでは、たしかに選手はプレーしないかもしれないが、このときから、ワールドカップは始まっていた。スタジアムだけがワールドカップではないことを、それから私はだんだんと感じとっていた。勝負、戦争、ゲーム、お祭り、さまざまな側面があるだろうが、そこには「誇り」といっていい何かがあった。ワールドカップの本大会を英語で"FINAL"と表記することがある。すなわち、本大会出場国は"FINALIST"なのだ。

スクリーンにはトゥールーズのスタジアムの歴史(闘牛をやったとかラグビーチームがどうとか)や、昨日の試合のリプレーが映っていた。ナイジェリアのオリセーの弾丸ドライブシュートには会場全体から嘆声がもれた。これこそ、ワールドクラスだ。

キックオフ(6月14日 午後2時15分〜午後3時20分)

ステージから、日本語とスペイン語であいさつがあった。チケット問題についても、遺憾の意と怒りがトゥールーズ市民の気持ちとして表明された。しかし、いったい誰が悪いんだろう? 

次第に盛り上がってくる緊張感。応援コールが自然発生的にわき上がり、その頻度が増え、ついにスクリーンがスタジアムからのライブ映像に切り替わった瞬間、みんなが立ち上がってそのときを待ちかまえた。

それからのことは、もう夢中だった。スタジアムは観客で埋まっていたし、日本からのサポーターも多かった(なんだ、チケットはあるところにはあったんだ)。FIFAのテーマと共に、選手が入場。体育館の中も、スクリーンの中のスタジアムも、紙吹雪が舞っている。目の前が見えない。本当に、日本がワールドカップに出たのだ。ああ、あのスタンドにいたかった。わずか数キロ先なのに。「君が代」は、テレビからも聞こえるほどの大合唱だったらしいが、全然わからなかった。だって、回りのみんなが大声で歌っていたので。夢に見たワールドカップの舞台。なぜか、泣かなかった。泣いたら、応援できないではないか。届くはずもない声を、しかしその気持ちだけでも外に出さなければ来た意味がない。

試合が始まった。予想通り、アルゼンチンはゆっくりボールを回して機をうかがう。日本はチェイシングとプレスで前にボールを出させない。アルゼンチンが攻めあぐねている。そんなに興奮するようなシチュエーションではないのだが、体育館では大声援がこだまする。もはや、理性はどこかに忘れたかのように、声を限りに絞り出す。

けっこう、試合になっていた。攻めさせないし、逆に攻撃の形もつくっている。最初のシュートは、山口だった。体育館は、もう絶叫の渦だった。もしかしたら、守りきれるかもしれない。そんな望みを、バティが打ち砕いた。オルテガのパスをカットしにいった名波の右足に当たったボールは、バティの前に転がってしまった。ダッシュして身を挺した川口は、定石通り、利き足の右に飛び込んだが、バティは左ですばやくボールを浮かしてゴールへ放り込んだ。

0-1。果たして、アルゼンチンのゴールラッシュが始まるのか? さらに、シメオネの左からの絶妙なクロスに、バティがどんぴしゃのヘッド。川口が見送ったボールはポストに跳ね返った。悲鳴が重なる。クラウディオ・ロペスがその跳ね返りにダイヴィング・ヘッド。決まったかに見えたそのシュートを、川口が横っ飛びでつかんだ。安堵の溜息、拍手、「ヨシカツ!」コール。日本は、まだ死んでいない。

ハーフタイムになったころには、みんな疲労困憊していた。私は、完全に喉をやられていた。脱力感に包まれていたときに、日本の女の子2人が大きな横断幕をもって舞台にあがった。

"WE HAVE NO TICKETS, BUT WE KNOW ETIQUETS."

きれいに韻を踏んでいるではないか。この期に及んで、礼儀どころではないぞ、おひとよしになるよりも怒りの抗議を! と思わないでもなかったが、わざわざメッセージを手作りしたその苦労を偲んで拍手を送った。せめて、マスコミはこのような善意の人々の意志表示を報じてくれたのだろうか?

戦いは、終わらない(6月14日 午後3時20分〜4時40分)

後半戦をいちいち振り返るのは、やめよう。アルゼンチンは緒戦だからか慎重に勝ちを守りにいき、日本は大量失点を防ぐためか攻めにかからなかった。それでも、日本の中盤は立派に戦った。とくに両ウィングの名良橋、相馬は5バックにならずにポジションを高く保ってシメオネ、サネッティを抑えてしかもよく攻めに絡んだ。

コーナーキックからの流れでペナルティエリア手前からゴール前の秋田にボールを上げた相馬は、猛然とポストへ走り込んだ。ジャンプにせりかった秋田のヘディングは、その相馬の目の前のポストへ。ゴールキーパーのロアが飛び込む。相馬がスライディング。この試合で、もっとも得点に近づいた場面だった。しかし、サッカーの神様は微笑まなかった。

1点差のまま、試合は終盤に入った。日本が攻める。もう、声はガラガラだ。少なくとも、アルゼンチンを安心させてはいない。かといって、日本に得点が入りそうな気配はない。怖さを感じさせる分厚い攻めとかスピードがないからだ。だからといって、私たちがあきらめるはずもない。いくら不満があろうと、弱かろうと、サポートすることを決めたからには見捨てることはできない。「私たちの代表」なのだから。

フィールドにも、あきらめない男がいた。センターバックなのに勇敢に攻めに上がった中西は、右サイドでディフェンダー2人に囲まれながら、その間を強引に突破した。ゴールに迫る。しかし、角度がない。呂比須の足元へパス。ダイレクトでニアへシュート! しかし、呂比須とゴールの間にはディフェンダーが立ちはだかっていた。

そのとき、私の体は震えた。アルゼンチンに勝てると信じ、自分の力を信じてリスクも省みずにドリブルで2人を一緒に抜き去った中西には、勝利への執念があった。あの瞬間のどよめき。中西には四日市中央のころから期待していたが、卓越した運動能力の割には、いまひとつ精神的集中が欠けていた印象があった。しかし、中西はフィールドで自分の意志を見事にアピールしてみせた。「このままでは終わらない」。そう、善戦ではなくて、勝ち点が、結果が重要なのだ。ゴールへ。最後まで、ゴールへ。

タイムアップの笛が鳴った。放心した群れ。「よくやった」という拍手。「もしかしたら」という無念。それから、私たちは無言でゴミを拾い始めた。誰が指示したわけでもない。青いゴミ袋に、素手でかき集めた紙吹雪を入れていく。誰ともなく「川口、よかったよな」「最後の中西、凄かったな」「あの秋田のヘッドが入ってればなぁ」と感想をかわす。10分ほどで、床は元通りきれいになった。

顔を上げれば、日本サポたちが、わずかなアルゼンチン・サポと握手し、記念写真を撮り、マフラーやユニフォームを交換する平和な風景が広がっていた。体育館の外では、現実を見せつけるかのように陽射しが照りつけていた。1人の私は、隅で人の流れを眺めていた。あの輪の中に入るには途方もない違和感があった。負けたからだろうか? スタジアムではなかったからだろうか? 満足できるサポートができなかったからだろうか? たぶん、私は自分がふがいなかったのだろうと思う。全力を尽くすことなく、負けてしまったイヤな後味。それは、日本代表にではなく、私自身に向けられていた。

しばらく、歩き出せなかった。不思議に、まったく涙は出なかった。日本に帰ってから、思い出してみたときの方が大泣きしたのだが。それも、ゲームではなくて、終わったあとのゴミを拾っているときの方をよく覚えているのだ。この日の日本の応援には、きっと、サッカーのことを知らないとか、応援が一律で自由さがないとか、プレーを見る目がないとか、決め歌がないとか、あの「ニッポン! チャチャチャ」はやめてくれとか、いろいろな悪口を言われるのかもしれない。ゴミ拾いだって、建て前だとかいいかっこしいとか日本人は真面目だからとか、素直にほめられるものではないのかもしれない。そうした意見に、私は反対するわけではない。一理あると思うし、いくつかはたしかにこれからの課題だろう。

それでもなおかつ私は、この日トゥールーズ体育館で一緒に戦った日本人サポーターのみんなを誇りに思う。私たちの声は、祈りは、きっとスタジアムの選手たちに届くと信じていたあの2時間を、私の宝物にしていきたいと思う。最後まで、素手でひとつのチリも残さずきれいにそうじした君たち、アルゼンチンサポーターと握手をかわし、胸を張って歩き出した君たちに心からの拍手を送りたい。

そして私は、日本代表のユニフォームを脱いだ。私にとっての初戦は、今、終わった。

「トゥールーズの嘆き」完

text by Takashi Kaneyama 1998

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