Road to FRANCE PART2 【1998ワールドカップ本大会篇】

モンペリエの夕陽

1998年6月17日 モンペリエ スタッド・ラ・モッソン
イタリア対カメルーン

プロローグ(6月17日 午後5時40分)

もう、午後も更けていた。することもなく、スタジアムに向かうにはまだ早過ぎた。果たして、今晩のイタリア対カメルーン戦のチケットは、どこで手に入るのだろうか? 広場でも、駅前でも、それらしい人間は見なかった。もう、スタジアムに行くしかないのか? 連日の移動で疲労していた上に、照りつける陽射しは容赦なく体力を奪っていった。休もう、とベンチに座ろうとしたその時だった。


ロマネスクを訪ねて(6月15日〜17日)

朝早くSNCFでトゥールーズを立ってモワサックに向かった。サン・ピエール聖堂で扉口中央柱の有名な足を交差させた人物浮き彫りを堪能した。

カフェでビールとサンドイッチをとり、小さな本屋でレキップを買った。1面はバティストゥータだった。うしろに名波が写っている。ざっと読んだ限りでは、日本のサッカーはけっこう評価されているようだ。川口、相馬、名良橋がいい点をもらっている。マラドーナが去ったアルゼンチンの不調というよりは、東洋の国が堂々と中盤で渡り合ったことへの驚きが垣間みえる。

駅に戻ってトゥールーズで乗り換えてロデズへ。3時間半も列車に揺られて着いて、タクシーで羊や牛が歩く村を抜け、丘を登って30分。気のよさそうな運転手が話しかけてくるのに答えていたら「その声はどうしたんだ?」と言って喉をなでてみせた。"Hier, le Match, Japon et Argentine(昨日、試合、日本対アルゼンチン)"とだけ声を絞り出すと、うん、わかった、とばかり大きくうなずいた。私は応援で声が嗄れて、ほとんどささやくようなしわがれ声だったのだ。

午後5時、到着。コンクは、町というよりは、村の中心地区という感じの狭いところだった。オテル・サント・フォワ。私が今回の旅行で日本から予約した唯一のホテルは、昔から「コンクに泊まるならここ」という定番。ひと休みしてから聖堂へと詣でた。夢にまで見たタンパンの「最後の審判」。ホテルでの夕食は、メニューを検討するときにちゃんと突き出しが出るリッチなものだった。

翌日、TVではマルセイユでのフーリガン大暴れを報じていた。これで会場警備が厳しくなると、チケットなしではスタジアムのそばに近づけないかもしれない。さあ、どうやってチケットを手に入れよう?

朝食、風呂のあと、再びサント・フォワ聖堂へ。宝物館で聖女フォワの黄金の像を拝観してから、丘の上へと登って景色を愛でた。ホテルに戻ってチェックアウトし、10分遅れできたタクシーでロデズ駅へ。またもやトゥールーズ乗り換えでモンペリエへ。5時間の列車の旅だ。

手違い(6月16日 午後5時20分〜11時)

モンペリエ駅のインフォメーションは空いていた。地図をもらい、苦労してバスで郊外のホテルにたどり着く。しかし、2泊の予定が1泊だけになっていた。粘ってはみたものの、現実に満室ではどうしようもない。ホテルとはいっても"RELAIS"、モーテルである。殺風景な平屋の棟が並んでいる。

部屋で作戦を練り直した。フロントでは、明日の朝もう一度聞いてくれと言っていたが、可能性は低そうだし、部屋の中の料金表によれば、ワールドカップ開催日は料金が2倍になっている。しかも、こんな不便な地域ではどうしようもない。かといってモンペリエ市内で空室が見つかるとも思えないので付近の都市に移動することにする。ひたすら資料を読み込んで検討してみる。

この際だからアルルやニースを回ってみようかとも考えたが、やっぱりワールドカップを生で見る機会にチャレンジせずには帰れない。モンペリエから30分のニームに行ってホテルを探そう。

拠点を確保(6月17日 午前8時〜午後2時)

昨日の夕食も今朝の朝食もパスしてチェックアウト。バスでモンペリエ駅へ行き、すぐにニームへと向かう。列車で30分、インフォメーションで地図とホテルリストをもらってから電話作戦に取り掛かる。フランスに来てから早くも3回目だ。地図とホテルの住所を照合して駅近くにありそうな中級ホテルを抽出。なんと、1軒目でOKになった。しかも駅から1分で着いてしまった。

部屋を確認して荷物を置いてから、すばやく外出。フロントで表のドアは深夜は閉めないということを確認。なにしろ、夜9時からのナイターを観るので、帰りは午前0時を確実に回る。ついでに明日の朝食7時を予約して街に出た。

せっかくなので、ニーム市街を2時間で見て回ろうという安易な散歩。ローマ時代の遺跡から公園へ。ディアヌの神殿という廃墟を見て、パノラマという文字に惹かれて何とか塔へと登ると、見晴らしもよいが、渡っていく風が涼しい。

あとはひたすら下り。公園から駅へとひたすら歩く。ニーム駅とモンペリエ駅の往復切符を買ってホームの列車に乗り込むが、時間になっても発車せず、結局降ろされて別の列車に乗り換え。席がなくて立ったままになってしまった。

チケットはどこだ?(6月17日 午後2時〜5時35分)

三度、モンペリエ駅に降り立った。駅前にたたずんでみれば、日本人がけっこういる。ここから出るスタジアム行きのシャトルバス乗り場を確認する。20フラン。市内バスなら、7フラン。と、子どもの2人組につきまとわれた。あいさつのふりをして、足を絡め、ポケットに手を伸ばしてくる。時計を指さしたり、にこにこ笑いかける。握手を求めてきたので、握手しかえしたが、なんとも下手な泥棒だった。しばらく遊んで、とにかくポケットにもデイパックにも触らせなかったら、結局あきらめて行った。被害はなし。だが、いい気持ちはしない。

北上して、中心部の通りへ。イタリア人が陽気に騒いでいる。コメディー広場で<Quick>を見つけたので、食事にする。要するにフランス版マクドナルドなのだが。座ると、空腹と疲労が押し寄せてきた。今日はじめての食べ物だし、午前中は暑い中ニームを歩き回っていたので限界に近い。いったい、チケットはどこで手に入るのだろうか?

試合開始は夜9時。2時間前にスタジアムに行ってチケットを探すにしても、まだ時間がある。こりもせず、美術館を回ることにした。モンペリエにはファーブル美術館がある。ところが、間違えてパヴィリオン(特別展をやっていた)に行ってしまい、そのあとに目当てのファーブル美術館でクールベなどを鑑賞する。なかなかよいところではあるが、チケットが気になってそれどころではない。

アンティゴーヌ地区に、ボフィルの都市計画による建築群があるというフランス政府観光局のホームページ上の記事を覚えていたので、探してみる。迷った末に、ギャルリー・ラファイエットに入ったらその先がアンティゴーヌだった。これは見間違えようがない。ボフィルの世界が延々とつづいている。歩けば、カフェではカメルーンとイタリアが踊り、ホテル前では本格的に打楽器を揃えてカメルーンがパフォーマンスを繰り広げていた。その周囲の建築は、全部ボフィルのポストモダンなのだから、なんだか別世界に来たようだった。

カメルーンからの使者




原初のリズムに心を任せていると、「これがワールドカップだ!」という感慨がふつふつと湧いてきた。それほど人通りがあるわけではなく、どうやらカメルーンの偉い人が宿泊しているホテルらしかった。見ていたら、それらしき人が出てきて、カメルーンの半裸の応援団(腰みのだけ)と記念写真を撮って、リムジンで出かけていった。


偽か幻か(6月17日 午後5時45分)

疲れた。休もうと、カメルーンの踊りを背にしてベンチに座ろうとしたその時だった。

"You need a ticket?"
"What? You have a ticket?"
"Yes. Here are."

普通のビジネスマンのように見えた。カテゴリー1で1,000フラン、2で800、3で500だという。値切るまでもなく、予算内ではないか。あとは、本物かどうかだ。

"Show me a ticket."
"Not here. Follow me."

隅のベンチに並んで座って、かがみ込むようにして見せたその手には、チケットの束が! 手にとらせてくれた。ホログラムもある。発行はApr. 9とある。しげしげと見つめるが、なにしろ本物を見たことがないのだから、判別できるわけがない。疑いが際限なくわき上がる。簡単に手渡すところが怪しい。最初から安いのも変だ。だいたい、ここは観光客がフラフラするところではない。

決断(6月17日 午後5時50分〜8時)

しかし、結論は最初から決まっていたようなものだ。私は、とにかく試合が見たかった。もしも偽だったら授業料と考えてあきらめよう。値切ることもせず、あっさり500フラン(約12,500円)でカテゴリー3のチケットを手に入れた。それが高いのか安いのかはわからなかった。ただ、やっとワールドカップを生で味わえることを考えれば、私には納得できる金額だった。

市内バスの乗り場を確認して、時間つぶしにFNACでCDをのぞき、セルフサービスのレストランでサラダとビールとストロベリーヨーグルトを取った。疲れすぎて食欲がない。いったん座ると二度と立てないような感じだ。向かい側のテーブルではR.バッジョのユニのお父さんとデル・ピエロのユニの息子とがパスタを食べていた。日本人のバックパッカーもやってきた。ふむ、たしかにワールドカップの日だ。

力を振り絞って立ち上がり、バス停へ。しかし、シャトルバスが通過するだけで市内バスは全然来ない。仕方なく、駅まで歩いて20フランのシャトルをつかまえる。ものすごい人の波で、列もあってないようなものだ。シャトルは蛇腹で2台連結したものが次々とやってくる。とにかく乗り込んで30分立ったまま耐えていると、スタジアムに着いたようだった。

スタッド・ラ・モッソン(6月17日 午後7時50分〜8時10分)

そこは、夢にまで見たワールドカップの舞台だった。といっても、スタジアムは見えない。とにかく、人の流れに流されていく。"CHERCHE 3 TICKETS(3枚探しています)"という札を出している女性も。イタリア国旗カラーのペインティングおじさんが多数。なんかイタリアサポは年齢が高い。最初の持ち物チェック。ミネラルのボトルは蓋を取られてしまう。水を詰めて投げれば凶器になるということか? 役人根性の杓子定規か。しかし、蓋を別にしてポケットに入れておけばいいわけで、まったくザル。

そこから先はお祭り状態。竹馬に乗ったピエロや、コーラやダノン(フランスでは有名な食品メーカー)やスニッカーズの売り台。人の流れのまま、スタジアムへなんとなく着いた。私のチケットでは"MEDITERRENIAN JAUNE(地中海の黄色)"ゾーンなのだが、すぐ目の前だった。いよいよ、チケットが本物かが試される。

あっけなく、もぎりを通過。ボディチェックもOK。入ってすぐの階段を上がったところが、私の席3-184だった。ちょうどコーナーフラッグの真上、2階。ロベルト・バッジョを至近距離で見られるか? 左にはイタリア人の大群、右上にはカメルーンの原色軍団。よくよくチケットを見れば、「カメルーンサッカー協会」に発行されたものだった。例の問題になった横流し分であろうか? カテゴリー3の中では見やすい席なのだが、西日をまともに受けるのが辛い。もう8時10分なのに。

南アフリカの男(6月17日 午後8時15分〜9時15分)

試合前のイベントが終わったところらしい。イタリアチームがゲーム前練習でピッチに出ると、大歓声が出迎える。イタリアは初戦のチリ戦はなんとか2-2の引き分けに持ち込んだのだが、1点目はR.バッジョのダイレクト・アシスト、2点目もR.バッジョがハンドを誘って得たPKを自ら決めた。半年前まではスターターどころか代表入りも危なかった男が........4年前の決勝で、最後のPKをはずした男が、忘れ物を取りに帰ってきた。

同じ列の男が、ひとつ向こうに寄ってくれと言ってきた。そこは、もともとは彼の席なのだが、もう移ったから、というのだ。意図不明ではあったが、おとなしく受け入れた。席の状況はたいして変わらないが。彼は南アフリカから来たそうだ。日本から来た、というと、チケット大変だろう、今日はどこで手に入れたんだ? と聞いてきた。今日、市内で買ったよとぼかしておいた。南アフリカは0-3でフランスに負けたねえ、と言うと、そうさ、と全然こたえていなかった。

やがて選手紹介になった。日本のようにフィールドビジョンがあることは期待していなかったが、電光掲示板がまるで電光ニュースのように1列しかないので、ひとりずつ名前が出るだけ。しかも、時計がない。席にも背がないし、通路は狭いし、だけれどもサッカー専用だから客席と選手が近いので許す。

国歌斉唱。起立、脱帽、拍手。ブーイングはなかった。ところが、右前方の中国人の一団は、座ったまま、帽子そのまま、煙草スパスパ、もちろん拍手なんかしないとそこだけ異次元空間になっていた。キックオフの前に黙祷があった。フランスサッカー協会の偉い人が亡くなったらしい。あとで知ったのだが、プラティニとの共同委員長だった。せっかくの大舞台の前に、残念なことだ。

9時、キックオフ。イタリアはうまい。ただし、攻めないというか省エネというか、まず守る。とにかく得点どころかシュートさせない、ラストパスを出させないところがいかにも。カメルーンは、ヘッドの競り合いにも勝つし、パスカットしたりするのだが、パスがつながらない。イタリアががんがんプレスをかけているわけではないのに、ミスしちゃうのだ。このまま退屈なゲームが続くのか? と思った矢先に、試合が動いた。

ついにゴールを見た(6月17日 午後9時15分〜55分)

R. バッジョのショートコーナーから、ワンクッション置いてポイントをずらしてからR.バッジョがゴール前に絶妙のクロス。青のユニフォームが飛び込んだ。ディ・ビアッジョのヘディングが炸裂、ゴールネットへ。1-0、イタリア先制! 

カメルーンのキャプテンにして10番のエムボマはどこにいるんだ? ボランチらしいのだが、全然目立たない。というか、カメルーンの選手はみんなエムボマ体型で区別がつかない。金太郎飴ならぬエムボマ飴みたいなものだな。せめて髪型を変えてくれ。そのうちにレッドカードが出た。カメルーンの選手が、イタリアの選手が倒れたところを蹴ったとされたらしい。フランス人の観客は大ブーイング。カメルーンはフランス語圏というか、関係が深いからか、はたまた判官贔屓か? 

30分過ぎにとなりの席にフランス人がやって来た。"Quand-il commence?(何時に始まったの?)"と聞かれたのだが、最初なかなか意味が取れなくて困った。スタジアムには時計が(いわゆる時計もフィールドクロックも)ないから、試合開始時刻は人に聞かないとわからない、ということがすぐに思いつかなかったのだ。"A Neuf heurs.(9時だよ)"と教えたのだが、こいつは信用しなかったらしく、同じ質問を例の南アフリカ人にもしていた。可愛くない奴だ。

可愛くないと言えば、異次元中国人の一団は試合とは無関係に豆やらお菓子やらをひたすら食べていた。あか抜けない服装、大家族と考えると中国本土の万元戸だろうか。不気味なことに、せっかくワールドカップを生で観ているのに、試合にまったく反応しない。ゴールした時も、煙草をつけ、豆を回すのみ。サッカーを知っているとか知らないとか以前にまったく興味を示さない。こういう人間になぜチケットが渡るんだろうか? 対照的にカメルーンのおばさんは巨体を揺すって踊りっ放し、太鼓のリズムはアフリカの大地の響きとばかりにテンションが高い。なぜかけっこう多い日本人はほとんどがカメルーンの応援に回っている。エムボマ応援のバナーを用意している者までいて、楽しもうとする姿勢が見える。

さあ、帰れるのか?(6月17日 午後9時55分〜10時45分)

ハーフタイム。後半へ。1点リードしたイタリアが積極的に攻めるわけがない。カメルーンは相変わらず冴えず、ついにエムボマは交代で下がる。イタリアがうまいのは、バックでボールを回しているときのフォワードの動き。マークをはずし、牽制しながらチャンスをうかがっている。そして、スピードの変化の付け方。いつも勝負に行くわけではなく、ここぞというときにパスを出すタイミングがすごい。

カメルーンは(というかアフリカに共通するのだが)みんなドリブルで抜く機会を狙ってパスをもらうので、ワンタッチ多く、結局ドリブルもパスコースも消されてしょうがなく他の選手にボールを回すという感じで、守備を崩せない。せっかくの個々人の技術、スピードが生きないのが辛い。

イタリアも交代。こちらは予定通り、R.バッジョに代えてついにデル・ピエロが初登場。ああ、生バッジョに生デルピ。嬉しい。イタリア、2点目。カメルーンも思い出したように攻め、ファウルをもらってチャンスをつくるのだが、点にならない。念願のコーナーキック、ついに目の前、すぐそばにデル・ピエロがやってきた。ミーハー丸出しで写真を撮る。

コーナーキックからデル・ピエロがボールキープ
(アップの写真はここ/65K)

そうこうするうちにイタリアが3点目。スルーパスから抜け出したヴィエリがダイレクトできれいなゴール(シュートの瞬間に撮った写真、タイミングはバッチリ! だったが標準レンズなので遠かった)。彼はチリ戦につづいて2点目、いずれもファインゴールで、さすがの決定力とうなった。

ヴィエリのシュートがゴールインする決定的瞬間

フォワードにタレント揃いのイタリアで、ポストを任されるだけのことはある。身長もあるし、足もけっこう速いし。こういうフォワード、日本にも欲しいよう。

試合はもはや決定的。あとは、いかに素早く撤退するかだ。モンペリエ駅から11時46分に出るニーム行きを逃すと、2時間近く待たなければならない。すでに、ちらほら帰り始めている。今は10時45分になっている。もう、通路はラッシュ状態だ。駅からここまでバスで30分、さらに歩いて10分だった。この混みようだとスタジアムを出るまで何分かかるかわからない。

野性の勘(6月17日 午後10時45分〜11時13分)

試合は続いている。初めて生で観たワールドカップ、元を取りたい貧乏根性で、腰を下ろして最後まで観ることにした。ロスタイムは4分。中腰で笛を待つ。終わった! ユニフォーム交換とかの余韻を味わう間もなく、前を失礼し、南アフリカの彼に別れを告げて出口へと向かう人の波に加わる。幸い、席は出入口に近い。それ行け。やった、出口だ。外は暗い。バス乗り場ってどこだろう? こうなればタクシーでもいい。前進する。大きな道路の右側を歩かされているのだが、その道路の反対側にタクシーの列が見えた。ところが、警官は道路を渡らせてくれない。ロープを張り、とにかく前へ進めの一点張り。遠い前方には停車しているバスの列があるのだが、乗り込む行列が遅々として進まない。要するに歩行者渋滞

そこへ、右側の大外を駆け上がるイタリアらしい集団がいた。こういうときにはラテン系の血についていこう、とイタリア人に混ざって走って行くと、そのままバスに乗れてしまった。順番をズルしたのだろうか? でも、これも生きる知恵ということで。ひとり旅で全然知らない場所で真っ暗だし。切符を買うどころではなく、そのまま詰め込まれて即出発。10分ぐらいしてバスが止まった。駅だろうか? なんか早過ぎるぞ。行きの半分以下しか時間がかかっていない。"C'est La Gare? La Gare?(駅ですか?)"と聞きまくったら何人かうなずいたので、勇を鼓して降りる。たしかに見覚えがある。昼に子ども2人にまとわりつかれたところだ。ふう。ほっと一息。結局キセルしたのかも(よくよく考えると、シャトルバス20フランは往復料金だったに違いない。それで全部符合する)しれない。

駅に着いた。出発線表示で列車を確認。VOIE A(A番線)だ。11時13分。余裕で間に合ってしまった。ここにもたくさんの日本人。彼らは夜行を宿代わりにナントへ移動するらしい。なかなかタフだ。コンポストゥールの機械の前に群衆がいて、どれもうまく行かないらしく、女性駅員が悪戦苦闘しているが、うんともすんともいわない。私は基本的にはフランス・ヴァカンス・パスなのだが、今日の移動は短距離だしパスの日数が1日足りなくなるので別に往復切符を買っていたため、コンポストゥールしないといけない。切符を差し出してお願いしたら、なぜか私の切符は一発でパチン! と印字された。駅員のおばさんの勝ち誇った顔よ。要するに機械の機嫌なのであろう。それからあと、どうなったかは知らない。

最後の最後に(6月17日 午後11時15分〜 18日 午前1時)

ホームで列車を待つ。44分に入線。列車は真っ暗だ。さすがにがら空き。寝ている奴は通路に足を投げ出して邪魔。起きている奴は歌い狂ってやかましいことこの上ない。あまりに暗くて停車する駅名なんか読めないが、幸い、ニームは終点だ。日が変わって零時17分にニーム駅に着いた。ホテルはすぐそこ、もうすぐお風呂だ、ルンルン(死語か?)と上機嫌で歩く。出かける時の約束とは違ってホテルのドアは閉まっていたが、ベルを鳴らす。"SONNAIRE"と書いてあるもんね。ルルルルルルルルルン。出ない。もう一度。ルルルルルルルルルン。出ない。ええい、と3度目。ルルルルルルルルルン。やっと開いたぜ。ぜいぜい。あせっちまった。4分も待ったじゃないか。

"Pardon monsieur, Chambre numero dix-neuf, s'il vous plait.(すみません、19号室をお願いします)"と下手に出る。やっと部屋に入れる。いつのまにか、もうひとり日本人の男がうしろにいた。気が付かなかった。私に一礼して、同じように(彼は英語だったが)鍵を受け取っていった。こんな時間でなかったら、酒でも飲んでお話するところだが、疲労困憊の上に、明日は(もう今日だが)パリ行きのTGVに揺られる身、会釈だけで別れた。さあ、生き返る時間だ。まず水を飲む。バスタブにお湯を張る。おや? 蛇口から出る液体は一応お湯だが、情けないチョロチョロ状態。いつになったらたまるのか? しょうがないので、歯を磨き、バッグの中を整理する。チケット類をしまい、撮影済みフィルムを仕分け、予備を補充。テレビのリモコンは壊れていたのでチャンネルを手動で切り替える。オーストリア対チリの録画放送だ。夜食代わりにスニッカーズを1本かじる。よやくお湯がたまったのは1時だった。ああ、快感! と思ったら湯が日焼け跡にしみる。モンペリエの西日のおみやげだ。あの夕陽を浴びて、私はワールドカップにデビューした。階段を上がって、見おろせばきれいな芝生が太陽に映えていた。あの瞬間が、今日の私の宝物だ。

「モンペリエの夕陽」完

text & photography by Takashi Kaneyama 1998

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