Road to FRANCE PART1 【ワールドカップ・アジア最終予選篇】
代表の重さ

たとえば、ブラジル代表をセレソンと呼び、イタリア代表をアズーリと呼ぶ。一国の代表に選ばれることの栄誉と重荷を考えてみたい。

モチベーションなき戦い

きっかけは、11月2日のUAE対ウズベキスタン戦だった。日本が韓国に勝ったことで、ウズベキスタンにわずかに残っていた2位の可能性は消えた。UAEにとっては2連勝すれば自力2位だが、ウズベキスタンには消化試合でしかないと考えられていた。ゲームは予想通り、UAEの圧倒的優勢で推移した。雨あられと降るシュートの洪水をウズベキスタンは必死で守った。キーパー、ブガロが文字どおりゴールマウスを死守した。守って守って、奪ったボールからときどきカウンター。ウズベキスタンは困難と思われたスコアレスドローを実現してみせた。それが彼らの意図通りであったのは、試合終了の笛が吹かれた時の対照的な表情で容易にわかる。UAEの選手たちは、見ていた誰もが「4年前のドーハのイラク戦後の日本のように」と表現したように、ピッチに倒れ込んでしまった。対してウズベキスタンの選手たちには、使命を達成したような喜びがうかがえた。

目的はどこに

なぜなのだろう。この引き分けは、ウズベキスタンにとってどんな意味があるのだろう。サッカーは相手によって手加減できるような甘いスポーツではない。1試合で数キロも体重をそぎ落とされることもある。パスをもらおうと走る(フリーランニング)。パスをしたら、もう一回走ってディフェンスを崩そうとする(パスアンドゴー)。サイドを全速力で駆け上がっても、ボールが来ないことはしばしばある(オーバーラップ)。相手がバックラインでボールを回せば、届かないとわかっていても、走って、走って、ボールを追いかける(チェイシング)。足が止まったら終わりなのだ。選手たちを突き動かしているのは、「優勝」とか、「ワールドカップ出場」とか、具体的な目的であるはずだ。

誇りをかけて

私が思うに、ウズベキスタンの戦意を駆り立てたものは「誇り」ではないだろうか。ひとつの国を代表して戦う誇り。ワールドカップ1次予選を突破して最終予選に進出したプライド。強いチームと対等に戦ったという勲章。ぶざまな試合は決してしないぞという決意。彼らは、代表の名にかけて名誉を守ったのだ。

日本のお礼

この結果は、日本に幸運をもたらした。消えた自力2位の可能性が復活した。ウズベキスタンに、素直にありがとうと言いたい。しかし、ウズベキスタンは日本のために戦ったわけではない。そこを勘違いしてはいけない。4年前、韓国からイラク大使館にお礼の電話が殺到したそうだが、あの時もそうだった。予選突破の可能性のないイラクが、日本から目前にぶらさがったワールドカップへの切符をもぎとったのは、決して韓国のためではない。代表として戦うことの重さが、そこにはある。日本が果たすべきお礼とは、やはり代表の誇りをかけて、サッカーをすることしかない。

韓国は勝ちを譲ったのか

日本がアウェー韓国戦を快勝したことに対し、「1位が決まっている韓国が手抜きした」「2002年のために韓国が日本に同情した」との論調が見られることにも、同じ理由で反駁しよう。代表として戦っている限り、恥ずかしい試合はしないし、できない。選ばれた者の義務は、「勝つためにつねに努力すること」なのである。果たして、手抜きすることにしたチームが、ヘディングの競り合いでエースが骨折するような危険を犯すだろうか。キャプテンが、イエローを2枚もらって退場させられるほど厳しいマークをするだろうか。日本と韓国との歴史的経緯を考えても、勝ちに行かない代表を韓国国民が許すとは思えない。韓国は、真正面から戦いを挑んできたし、実際、後半の猛攻は韓国サッカーそのもののスピードと運動量だった。サイドをフルスピードで上がっていくハ・ソクジュとソ・ジョンウォン。執拗に中盤をチェックするユ・サンチョル、キム・ギドン。日本と韓国はお互いに自分自身のサッカーを繰り広げ、勝負をした。そのことに対して、私は敬意を表する。代表のプライドは、とてつもなく重い。その重荷に耐え、2か月に及ぶ長い最終予選を戦っているすべてのアジア地区のチームに、私は同じように敬意を表したい。

私は忘れない

日本代表の名のもとに集まった選手たちへ。私は、1985年の日韓戦を思い出す。木村和司と加藤久が共に戦ったワールドカップ予選を。あと一歩のところに立ちふさがった韓国の壁は厚かった。1993年。オフト・ジャパンはアジアナンバー1の勲章を引っ提げてカタールに乗り込んだ。結果は得失点差で韓国に及ばなかった。しかし、私は忘れない。夢を一緒に見た日々を。代表の名にかけて戦う姿勢をグラウンドの上で体で示したあなたたちを。そして、今度もまた私は数々のシーンを記憶に刻みつける。

ありがとう

なかでも、初戦のウズベキスタン戦の選手入場の時に味わった昂揚感は、特別なものだった。あの時、スタジアムは一体となって渦巻く熱気と化していた。私は、代表がなぜ好きなのか、いまだに合理的に説明することができない。しかし、理由はいらないのかもしれない。私は、日本代表が放つオーラを感じる。たとえば、ゴールの瞬間のあの幸福感を何にたとえたらいいのだろう。ただ、私は日本代表のサポーターであることを誇りに思っているし、感謝すらしている。ありがとうという言葉しか、今は思いつかない。代表の名にかけて戦う男たちを形容する言葉を、私は探しつづけるだろう。

text by Takashi Kaneyama 1997

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