Road to FRANCE PART1 【ワールドカップ・アジア最終予選篇】
長い旅の終わりに

青い炎よ

歓喜の嵐が過ぎ去ったいまもなお、青い炎は静かに燃え続けている。物はもっとも高い温度で燃えるとき、青色を発する。サッカー日本代表が青い炎を身にまとうことは、偶然ではない。

このまったく個人的なメモリアルに蛇足を付け加えることを許してほしい。自己満足にすぎないかもしれないが、最後に私はいくつか言っておかなければいけないことがあると感じている。

ああ、出遅れ

7日、一般紙朝刊は休刊。予想はしていたが、駅売りのスポーツ紙はすべて売り切れ。私はインターネット版の日刊スポーツでがまんするしかなかった。

サポーターのヴァーチャル広場

インターネットといえば。ついに百万人を突破した「サッカー日本代表を応援するホームページ」とその掲示板が独立した「J-NET」の存在を忘れてはいけない。日本が負けても、引き分けを繰り返しても、ここをのぞけば希望が湧いてきた。失いかけていた勇気を取り戻すことができた。

勝利より大切なもの

この最終予選のあいだ、私は多くの支えてくれる人たちに恵まれた。人生には、勝利より大切なものがある。たとえワールドカップに日本が出られなかったとしても、私はかけがえのないものを得たと思う。そのことに気づいただけでも、大きな進歩だ。

NICE FIGHT

ひとつは、素晴らしいゲームを繰り広げたイランの選手たちに感謝を捧げたい。長旅、時差、慣れない高温多湿の環境と悪コンディションのなか、118分を戦い抜いた闘志は賞賛に値する。延長に入ってから押されに押されながら、一瞬のうちにマハダビキアのドリブルからダエイのシュートにまで持ち込んだ集中力は日本サポーターの心肝を寒からしめた。左肋骨付近を痛めたゴールキーパーのアベドザデが、最後の中田のシュートを左に飛んで止めたシーンも印象に残る。そのこぼれたボールを岡野がVゴールで決めたわけだが、痛いはずの左側をグラウンドにたたきつけてもゴールを死守しようとした彼の気力を称えたい。

イランよ、まだ戦いは終わっていない

照明も落ちたグラウンドで、イランの選手たちは次のオーストラリア戦のための練習を始めたという。同じアジアの代表として、健闘を祈ってやまない。すばらしいファイトを、ありがとう。

私は、忘れない

「死闘」と呼ぶにふさわしい試合だった。これこそがサッカーだ。最後まであきらめない執念を両チームとも燃やし続けた。長いワールドカップの歴史のなかでも、名勝負として名を残すにちがいない。いや、たとえ残らなくてもいい。私は、決して忘れない(11月19日、FIFAのホームページhttp://www.fifa.com/のトップページで岡野の「史上初」のゴールデンゴールについての記述を見つけた。少なくとも岡野は歴史に名を残す)。テレビというメディアを通じてさえ、選手の息づかいが、祈りが、ワールドカップへの夢が、伝わってきた。国を代表して戦う誇りを、そのプレーで私たちに見せてくれた。

Good game.

J-NETから、ひとつの逸話を紹介しよう。ワシントンのスポーツバーで日本対イラン戦がテレビ実況されるので、日本人が15人ほど集まった。そこには、150人ぐらいのイラン人もいた。「もしも日本が勝ったら無事に帰れるだろうか?」不安がかすめる。それでも彼らは君が代を歌った。中山のゴールには飛び上がって喜んだ。イラン人たちは静まり返る。アジジ、ダエイの連続ゴールで形勢は逆転する。沸き返るイラン、沈黙する日本。しかし、日本サポーターの名誉にかけても、応援を貫徹する。結局岡野のVゴールで日本が勝利を決めた。喜ぶ日本人にイラン人が近寄ってきた。かけてきた言葉は「Good game.」だった。そして「Congratulations!」とも。「Good luck, versus Australia」と返す。遠い異国で故国のチームを応援する心情に違いはない。サッカーはたしかに国境を越える。

ああ、ワールドカップ

日本が初めてワールドカップに挑戦したのは1954年スイス大会の予選と報じる記事が多い。それはその通りなのだが、もっと前に出場の機会があった。1938年フランス大会。アジアにも出場枠が初めて与えられたが、参加したのはオランダ領東インドだけだった。前年ベルリンオリンピックで優勝候補のスウェーデンを破った日本がもし参加の意志を表明すれば出場の確率は高かった。オランダ領東インドに勝ちさえすればよかったのだから。今から思えば信じられないことだが、日本は予選に出なかった。日本がワールドカップを軽視する歴史は続いた。1958年大会、1966年大会ではオリンピックを優先して予選に参加しなかった。

不死身ベッケンバウアー

私が覚えているのは、1974年西ドイツ大会でのベッケンバウアーからだ。その時はヨハン・クライフよりもベッケンだった。1970年メキシコ大会の準決勝(だったと思うんだけど)、対イタリア戦で肩を脱臼しながら包帯でぐるぐる巻きにして延長もピッチに立ち続けたベッケンバウアーは憧れだった。1982年スペイン大会はブラジルの黄金の中盤が席巻した。ジーコ、ソクラテス、ファルカン、セレーゾのカルテットがグラウンドを縦横に舞った。だが、もっとも印象的だったのは準決勝の西ドイツ対フランス戦。延長に入ってフランスが2点をリード。誰もがフランスの勝利を信じた時、西ドイツは故障していたルンメニゲを投入。フィッシャーの劇的オーバーヘッドゴールなどで同点に追い付き、PK戦に持ち込んだ。ゴールキーパーはシューマッヒャー。PKをはずして泣き崩れる自軍の選手を抱え上げ、俺に任せておけとばかりにゴールに向かっていったシーンは忘れられない。その時、フランスは「将軍」プラティニの時代。今はワールドカップ・フランス大会の組織委員長。

ジーコ対プラティニ

1986年、舞台はメキシコに移る。前回涙を飲んだフランスとブラジルが準々決勝で顔を合わせた。先制はブラジル。右サイドの崩しから理詰めでカレカのゴールに結びつけた。対するフランスはプラティニのゴールで追い付く。後半、ケガの直りきらないジーコが途中から出場。切れ味鋭いスルーパスでゴールを脅かす。ああ、しかし。ジーコは痛恨のPKミス。延長戦はノーガードの壮烈な打ち合い。どこからスタミナが湧き出るのか、ボールを持ったらシュートまで必ずもっていく華麗な中盤が見る者を魅了した。結局PK戦。なんと、ここでプラティニがPKをはずす。ワールドカップには魔物が棲んでいる。結局フランスが勝ったのだが、あまりにもスタミナを消耗したのかつづく準決勝で敗れ去った。

期待を裏切って

1990年、イタリア。前評判の高かったオランダは、フリット、ファンバステン、ライカールトを擁しながら1次リーグで3引き分け、決勝トーナメントの初戦で敗れ去った。私にとって、その年のワールドカップはそこで終わった。1994年、アメリカ。私が予想した本命コロンビアは、「ライオン丸」バルデラマがまるでぱっとせず、対アメリカ戦では自殺点を献上し、そのディフェンダー、エスコバルが帰国直後に射殺されるという最悪の大会となった。

優勝の栄誉と伝説

こうやって思い出してみると、1974年の西ドイツ以外は私は優勝チームをほとんど覚えていない。74年だってあれは普通にはクライフのオランダの年だった。78年はケンペスのアルゼンチン、82年はロッシのイタリア、86年はマラドーナのアルゼンチン、90年はベッケンバウアー監督の統一目前の西ドイツ、94年はブラジル。ああ、そうだ、レオナルドが颯爽とデビューしたんだった。左ハーフのジーニョと左サイドバックのレオナルドのコンビネーションは久しぶりに楽しいサッカーを感じさせてくれた。今考えるとあのレオナルドがサイドバックなんて贅沢だったよなあ。

観客ではなくサポーターとして

それにしても日本のサポーターの成長には目を見張った。最初のウズベキスタン戦の前、「みんなで一緒に応援しましょう」と呼びかけて回った青年に期せずして拍手が起こった。「ゴール裏だけじゃなく、メインスタンドもバックスタンドも一緒にやりましょう。声を出すのが恥ずかしかったら手拍子だけでもいいです。選手入場の時、『ニッポン! チャチャチャ! ニッポン! チャチャチャ!』で迎えてあげたいんです」そして国立競技場で選手とサポーターは一体になった。

12番目の選手

私には、ジーコの言葉だけで十分だ。「ウズベキスタン戦の開始の時の歓声と雰囲気は最高だった。私は久しぶりに選手としてこのピッチに立ちたいと思った。あの時、サポーターはたしかに12番目の選手だった」

17日の夜、あるテレビ番組では金田喜稔がこう断言した。「ここまで来れたのは、サポーターのおかげです。日本のサポーターは間違いなく世界一です」

本当に? 「あきらめが悪い」ことではたしかに世界一だと思うが。1勝4分1敗、勝ち点7の3位で迎えたアウェーの韓国戦に1万人以上が海を渡った。成田から、名古屋から、大阪から、福岡から。飛行機が取れなければ船で渡った。たとえ勝っても、自力2位の可能性はなかったのに。あの戦いが転機だった。日本の積極的なプレスが、サポーターの後押しで甦った。

不勉強なマスコミへ

残念ながら不快なこともなかったわけではない。とくに日頃サッカーに力を入れていないマスコミが、この時とばかりに訳知り顔で評論する論調には閉口した。いちいち例はあげないが、日本のスポーツ・ジャーナリズムの底の浅さがはかなくも露呈された。その程度の低さには反論する気さえおきない。サッカーを愛するがゆえの酷評なら甘んじて受けるし、批判がより日本サッカーを強くする。ただの受け売りでゴミ評論をメディアに流すのは無責任だ。サポーターはメディアの姿勢を鋭く見分ける。ちなみに私が大好きなのはNHKの山本浩アナウンサー。ワールドカップでの実況は名人芸。テレビ朝日のニュースステーション。今回の最終予選では中継がないにもかかわらず、毎週応援しつづけてくれた。日刊スポーツのインターネット版は毎日見ていた。AULOSは毎日新聞と朝鮮日報の共同編集で、韓国情報に強かった。

日本サッカー協会の責任問題

もうひとつ、いやなことだが、これからのために批判しておかなければならない対象がいる。日本サッカー協会。オフトが責任をとってやめたのはやむなしとして、招聘したファルカンをわずか1年で解任し、後任は二転三転して加茂監督に。さらに当時の加藤久強化委員長が「加茂ではワールドカップ予選を戦えない。ネルシーニョがベスト」と答申したのに、上層部は「結果を出している指揮官をやめさせられない」と結論をひっくり返して加茂の続投が決まった。今回の苦戦の原因は、加茂の作戦ミスというよりは、協会の無策にある。あの頃だったら、いまプレミア・リーグで破竹の進撃を続けるアーセナルのベンゲル監督だって呼べたのだ。もう遅いけど。岡田監督のおかげで、ワールドカップに行けることにはなったが、だからといって日本サッカー協会が無責任でいるわけにはいくまい。加茂を解任しながら協会の幹部がそのまま居座るのではまるでトカゲの尻尾切りだ。ファンは怒っているぞ。

ひとつの旅が終わり、また新しい旅がはじまる

あてどもなくさまよった日々がいまはむしょうに懐かしい。長い放浪の旅が、いま終わる。やっと世界の舞台に立てる日が来た。「ジョホールバルの死闘」で、あれほど待ち望んだ奇跡は完結した。いや、奇跡ではなく、努力の積み重ねの歴史が生んだ現実なのだ。たとえばデットマール・クラマーのコーチが日本に近代サッカーの風を吹き込んだ。ハンス・オフトがワールドカップは夢じゃないことを戦術で実践した。そして、今年、日本サッカーは自ら歴史をつくった。これは、まだほんの始まりに過ぎない。

扉は、開かれた。歩き出すのは、これからだ。

text by Takashi Kaneyama 1997


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