哀愁のヨーロッパ オーストリア・ドイツ篇 第2話

世紀末ウィーンの建築

オットー・ヴァーグナーを訪ねて

ウィーンの市街の中心部の旧市街、1区は、リンクと呼ばれる環状道路に囲まれている。9月19日の早朝、私は地下鉄U3号線をStubentor駅で降り、北西に向かった。7時55分、目的地に到着。建築家オットー・ヴァーグナーが設計した郵便貯金局(Postsparkasse)はまだ開いていない。職員たちだろう、通用口へと幾人かが小走りに急いでいる。8時ちょうどに扉が開いた。

郵便貯金局の内部 郵便貯金局

さあ、いよいよ、いまだに世界各国から建築を学ぶ者たちが見学にやってくる、世紀末建築の傑作だ。ガラスとアルミニウムをふんだんに使い、中央ホールの天井は優雅な曲線を描く。天気のいい日なら、陽光が燦々と降り注ぐにちがいない。床もガラスタイルだ。ここは、いまでも現役で使われており、しかも当時のデザインのまま、という。私は柱、机、椅子、戸口をゆっくりと目で味わい、写真に撮った。微妙な弧、高さと幅のバランスが見事。

続いて、U1号線で南下し、カールスプラッツ駅で降りて地上に出た。リンクの少し外側の南東には、やはりヴァーグナー作のカールスプラッツ駅舎が見える。現在は博物館とカフェになっている。

カールスプラッツ駅舎カールスプラッツ駅舎

窓の回りや扉柱の模様がアール・ヌーヴォーの香りを伝える。半円と直線の精妙な均衡。細かく見ていったらきりがない。内装の意匠も凝っている。流れるような金色の曲線でつくられた天井と壁の飾り。いつまでいても飽きない。

市場とアール・ヌーヴォーの対照

ヴァーグナーの建築は、ウィーン市内にまだまだ残っている。翌日、また早朝に私が訪れたのは、カールスプラッツ駅から今度は南西へと向かう通りの中央に長く続くナッシュマルクトという市場だった。

市場ナッシュマルクト

8時前、開店準備で忙しい。まだあるのか、というぐらい、市場は尽きない。肉屋には種々のソーセージや内臓もある。少ないが魚屋もあった。花屋も。そして一番多いのが野菜と果物を商う店。大きなズッキーニやオクラも見える。このナッシュマルクトがようやく終わるところで、通りの右側を見上げると、壁面を鮮やかな花模様で飾ったビルがある。番地でいえば40番地。その向かって右の38番地の壁面は金模様のレリーフがきれいだ。このふたつのビルは、どちらもヴァーグナーの作品として名高い。サーモンピンクの花模様の40番地のアパートメントは、通称マジョリカハウスという。イタリアのマジョリカ・タイルで装飾されているからだ。出来たときには一週間で部屋が予約でうまったという。このあたりは当時は川を埋め立てた新開地だった。壁面を子細に見ていく。屋根のすぐ下には横に並んだライオンのレリーフが口を開けている。その下に花開く花弁と茎。

マジョリカハウスマジョリカハウスと38番地の家

隣の38番地もアパートメントで、壁面上部にはめ込まれたメダル型のレリーフは、コーラ・モーザーの手になる。中には入れなかったが、どちらのビルもエレベーターホールの装飾は凝りに凝っている(はずだ。写真でしか見たことがないので)。洗練された様式美の足元には、庶民の健康な胃袋に応えるエネルギーに満ちた市場が広がるという対照もまた、ウィーンらしいではないか。

ウィーンの最終日

ヴァーグナーめぐりはまだ続きがある。21日、シェーンブルン宮殿から西へ20分ほど歩くと道路をはさんだ北側に流麗なフォルムの建造物が見える。これがホーフパヴィリオン・ヒーツィンクで、皇帝専用の駅だった。現在は一般に公開されている。ただし、よほどの物好きしか来ないのか、私がいた間は他に誰ひとりやって来なかった。

ホーフパヴィリオン・ヒーツィンクホーフパヴィリオン内部天井

中央に高いドームを頂き、その周囲を回廊のように部屋が巡っている。中央ホールの天井にはガラスの円形装飾とその回りの金のレリーフが12角形をなして並んでいる(写真参照)。暖炉の正面飾り、扉のガラスに彫られた曲線が何とも言えない。床と壁のカーペットにも植物文様。どこまでいってもアール・ヌーヴォーの精華だ。いかにも、ヴァーグナーらしい。

さて、この日はウィーンに泊まる最後の日だった。そして、とっておきのヴァーグナー建築に詣でる日だった。

傑作中の傑作と言われるアム・シュタインホーフ教会。写真でしか見られなかったその教会は、土曜日の午後3時からしか公開しない、という。今日がその土曜日だった。近代美術館に寄り、遅い昼食を摂って48Aのバス停を探す。時間は余裕があった。しかし、肝心のバス停が見つからない。古い街の例にもれず、ウィーンも一方通行が多い。ために旧市街のバス路線は複雑を極める。汗をかくほど走り回ってもまだ見つからない。だめだ。時間は刻々と過ぎていく。タクシーは、タクシー乗り場でしか乗れない、とガイドブックには書いてあるし、確かに東京のように流しのタクシーが頻繁に走っているわけではない。気持ちはあせる。その時、空車のタクシーを見つけた。信号待ちをしているその車の後部ドアを開けて飛び乗る。幸い、人のよさそうなおじいさんだった。行き先を口で言ってもらちがあかないので、地図に印をつけてみせると、ようやく飲み込んでくれた。

ヴァーグナーの精華を集めた教会

教会は、精神病院の敷地の中にある。病院の入り口から、教会まではずいぶん距離があった。車でいけるところまで行って、小高い丘を登りきったところに教会は立っていた。2時40分。教会にしては珍しく、入場料が要る。40シリング(約465円)。いよいよ、憧れの内部へ。正面主祭壇の壁画はレミギウス・ガイリングの、左右の祭壇壁画はルドルフ・イェトマーの作。しかし、この空間は紛れもなく、オットー・ヴァーグナーそのものだ。

アム・シュタインホーフ教会アム・シュタインホーフ教会

素材と建築とデザインの融合。アール・ヌーヴォーの聖地と言っていいかもしれない。3時からは、延々とおそろしく長いスピーチが始まった。それも、ドイツ語で。たぶん、いろいろ説明しているのだろうが、ユーモアのかけらもない話しぶりにいらいらする。そのあいだ、ステンドグラスを見、天井の模様を眺め、説教壇の鷲のレリーフを確かめる。48分、やっとスピーチが終わった。最後まで名残りを惜しんで、ヴァーグナーに別れを告げる。ヴァーグナーの作品は市内にまだ、ヌスドルフ水門、ヴァーグナー・ヴィラ1、2、ハイリゲンシュタット駅、市営鉄道橋とあるが、今回は時間が尽きた。

世紀末の新建築

ヴァーグナー以外にも触れておこう。ゼツェシオン(分離派館)はヨーゼフ・オルブリヒの1898年の作品。当時のアカデミズムからの分離を主張して「分離派」と名乗ったクリムトらの拠点となった。金色の玉葱のような球形を乗せている特異な外観で有名だが、内部にはクリムトの代表作《ベートーヴェン・フリーズ》が1985年に修復されてよみがえった。

分離派館ゼツェシオン

アドルフ・ロースにはふたつの代表作がある。1910年頃に相次いで建てられたカフェ・ムゼウムとロースハウス。どちらも極端なまでに装飾を排した内外装で、とくに後者は王宮の真向かいに建てられたので、大変な物議をかもした。バロック盛期の真ん前に、コンクリートの壁面に四角い窓が開いているだけののっぺらぼーである。結局、今見られるように、道路側の窓下に花箱を取り付けることで妥協が計られた。

ロースハウスロースハウス

世紀末のリンクに面した建築群の代表としては、ブルク劇場(1888年 後期ルネッサンス様式)に登場してもらおう。1860年代からのウィーン大改造で城壁をこわしてリンクがつくられ、市庁舎、国会議事堂、博物館、歌劇場が相次いでつくられたが、様式はゴシックから新古典までの各様式の模倣と折衷でしかない。ウィーン世紀末への前史とでもいうのだろうか。ブルク劇場の階段の間の装飾画を若きクリムトが手がけている。暗くなったころには正装した男女が参集し、観劇と社交に興じる。

ブルク劇場ブルク劇場

そんなウィーンの夜に、一人でさよならを告げた。

哀愁のヨーロッパ オーストリア・ドイツ篇 第2話 【世紀末ウィーンの建築】 完

text & photography by Takashi Kaneyama 1997

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