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老子の部屋】TaoWorld
 第6部 統治について(2)[67〜75章]

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                     ──── 第6部 統治について(2)


(67)三つの宝

世間の人は誰でも,私の教え(道(タオ))を,いかにも大きいが愚かなもののようだという。
 それが大きいからこそ,愚かなふうに見えるのだ。
もし愚かなように見えなかったならば,

 とっくの昔に,ちっぽけなものになりさがっていたことだろうよ!
もし愚かなように見えなかったならば,
 とっくの昔に,ちっぽけなものになりさがっていたことだろうよ!

私には三つの宝がある。
 それを大切に保ち続けている,
 その第一は慈愛(慈母の愛)だよ。
 二番目は倹約(むさぼらない)とでも言おうか。
 三つ目が世の中で“第一人者”にはならない,ということだ。
慈愛の中で,人は安心していられるし,
むさぼりすぎないことで,人は(力を保って)ゆったりとしていられる,さらに
私が世の中で先頭に立つことをしないので,
 世の人たちは自分の才能が伸ばせるし,自分の技が磨けるのだ。

もし人が愛と安心を見限り,
 自制を止め,権力を握り, 
 後塵を拝する(後から付いていく)ことをいやがって,先頭をまっしぐらに突き進んだなら,
その者は,破滅するだけだよ。

慈愛があるから,攻撃では勝利するし,
 守っては負けることがない。
天は慈愛で身を包み, 
 それら(いま述べたようなこと)で,破滅を見ることなくさせてくれるのだ。

(68)不争の徳

勇敢な兵は粗暴ではない。
よい戦士は平静さを失わない。
偉大な征服者は(小さなことで)争わない。
人をよく用いる者は,自分を他の者より下に置く。
─これが不争の徳であるし,
 人を使う達人と言われ,
 天の高みに達する人と称される,と
 このように古くから行われるところだ。

(69)カムフラージュ(偽装の術)

勇敢な軍の用兵についての金言がある,
 私はあえて最初に進入させる者とはならないで,侵入される側に立つ,
 一インチを進めるかわりに,一歩退かせる,と。
それは,陣形を整えないで進撃し,
 袖はまくり上げ,
 正面攻撃なしに攻撃を仕掛け, 
 武器なしに武装する,などということ(と同じ逆説的表現)である。
敵軍を過小評価することほど大きな破局を迎えることはない。
敵を見くびることは私の“三宝”を失うことに帰結しよう。
 このようだから,兵力が同じような敵に遭遇した場合,
戦いに勝つのは,戦を悲しむ(殺戮を憎み悲しむ将が指揮する)軍の方である。                      *31章に同趣旨の言があるのを参照。


(70)私を知る者はいない

私の教えはとてもやさしいし,
 またすぐに実行できる。
それなのに,誰もが私の言葉を理解できないし,また
 それを実行できない。
 私が述べる言葉には原則があり,
 私が述べる世情のことには筋道がある。
こういうことを知らないからこそ,
私を理解しないのだ。
 私を理解する者がほとんどいない,ということは,
 私が卓越しているということなのだ。
このように,聖人は表面には粗いぼろの衣服をまとい,胸の内に宝玉を抱いているのだよ。

 

(71)心に病める者

自分が知らないと自覚している者は最高だ。
知らないのに知っているふりをしている者は,心が病(や)んでいるのだ。
そして,心が病んでいることを病んでいると自覚する者の心は健全だ。
 聖人の心は病んでいない。
 というのは,聖人は心が病(や)んでいることを病んでいると自覚しているからこそ,
 聖人の心は健全と言えるのである。

(72)罰について(1)

人民がお上の権力を恐れないようになると,
 (通常によく行われることなのだが,為政者から)強圧手段が民衆に加えられる。

民衆の住まい(生活の場)をさげすまず,
民衆の生業(なりわい)を卑しめるな。
 為政者が民衆を嫌うことがなければ,
 為政者は民衆に嫌われることがないのだから。
このようであるから,聖人は己自身を知って,それを表に出さず,
 自愛の心を持ちながら,他人に驕(おご)らない。
そして聖人はまた,人に威圧を加えることを避けて,
 他人をやさしく受け入れる。

 (73)罰について(2)

あえて人を殺すべしと決断する(断罪の判決をする)人と,
人を殺すべきではないとあえて決断する人と,
これら二通りの場合に,
 両者にはどちらにもそれぞれいくぶんかの理にかなったところがあろう。
 仮の話として,天の神がある人々を嫌ったとしても,
 どの者が殺されるべきで,またその理由は何なのか,誰が知り得ようか。
このようだから,聖人においてすら,このことは難しい問題なのだ。 
 天の道(道(タオ))のやり方は争わずに勝利を手にする。
 無言の内に悪徳と美徳とに報い,
 予告しないでその結果を明らかにし,
 招かなくても(手の内を見せないで)ちゃんと結果をもたらす。
天の網は広大である。 
その網の目は粗くても,何ものをも取り逃さない。
       *末尾の二行は,中国の現行のことわざ「徳は必ず報いられ,悪徳は必ず罰される」となった,という。

(74)罰について(3)

人民は死を恐れない。
なぜ死をもって人民をおどすのか。
 仮に,人民が死を恐れないとするならば,
 そして我々が無法者を捕まえて殺せるとしたとしても, 
 誰があえてそのようなことをするというのか。
死刑執行人が殺されるということはよくあることだ。
そして死刑執行人の代わりをすることは,
 名工(練達の大工)に代わって,手斧を扱うようなものだ。
名工に代わって手斧を扱う者は,
 滅多には,自分の手を傷つけないですます,ということはない(傷つけてしまう)。

(75)罰について(4)

人民が飢えているのは,
為政者達が税の穀物を収奪しすぎるからである。
 それだから,飢えた人民の無法な行為は,
 為政者達が干渉しすぎる結果なのだ。
 これが人民の無法の理由なのだ。
人民が死を恐れないというのは,
彼らがその生活を維持するのが苦しいからなのだ。
これが人民が死を恐れない理由なのだ。
 人民の生活に干渉しないということこそが,
 生活を活気づける賢明なやり方なのである。



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