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老子の部屋】TaoWorld
 第6部 統治について(1)[57〜66章]

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                     ──── 第6部 統治について(1)


(57)統治の業(わざ)

「正道」によって王国を統治する。
戦場では意表をつく奇策をもって戦う。
無為であることで世界を制覇する。
なぜそのことを知るのか。

それは,次のことでわかるのだ,すなわち
 禁止制約事項が多いほど,
  民の生活は貧しくなる。
 武器が鋭利になるほど, 
  国内の混乱は大きくなる。
 技術が進むほど,
  狡知にたけた事件が頻発する。
 法令の数が多くなるほど,  
  盗賊山賊の徒輩がはびこってくる。

だから聖人は言う,
 私が無為なままにあれば,民は自ら進んで自己改革を成し遂げ,
 私が静謐(せいひつ)なままにあれば,民は自ら進んで襟を正し(正しいことを行い),
 私が業務をしないままにあれば,民は進んで自ら富んでいく。
 私が無欲のままにあれば,民はおのずから素朴で正直になっていく。

 

(58)ゆるやかな統治

統治の府がおおらかに無為であれば,
 その民は生き生きと暮らす。
統治の府が有能で水際立っていれば,
 民衆は不満たらたらとなる。

災禍は幸運への通路であり,
そして幸運は災禍の隠れ家である(災禍と幸運はいつも隣り合っている)。
 誰がその帰趨(きすう)を知り得ようか。
このように,いつも正常な姿のままというものはない。
 正常な姿は,すぐにでも欺瞞の状態へと逆転するし,
 良い状態は災いへと転換する。
このようにして,人類は長きにわたってさ迷い続けてきたのだ!

だから聖人は,自分で真っ直ぐな形(しっかりした原則)を保持しながらも,
 とげたった形を直し(民の行き過ぎた行為をとがめたて)たりはしないし,
己は無欠なままに保っていても,民を(法などで)矯正したりはしないし,
己は身を正しながらも,民には高圧的な態度を見せないし,
自らの輝きで民を眩惑させるということもない。

(59)倹約が第一

人の世で物事を処するのには,つつましやか(倹約)に勝るものはない。
つつましやかであることは,物事に先んじることである。
先んじれば準備万端整い,足場は強固になる。
準備整い足場が固まるのは,常勝の道である。
常勝の道とは無限の能力を意味する。
無限の能力を保持する者にこそ,国を治める資格があり,
国を治める原理(母原理)であればこそ長らえられるのだ。
 これ(つつましやかであること)こそがしっかり根付くやり方であり,深い力をたたえ,
 永世そして不朽の考え方である。

(60)大国を治めるには

大国は小魚を焼(炒(いた)める)ように治めるのがよい。
「道」に則して世を治める者は,
 精霊(鬼神)が(悪さをする)力を出してこないのを知るだろう。
というより,精霊が(悪さをする)力を失ったのではなく,
 彼らが人民に危害を加えるのを止めただけなのだ。
精霊が人民に危害を加えるのを止めただけではなく,
 聖人自身もまた人民に害を加えないでいるのだ。
精霊(鬼神)と聖人の両者ともに危害を加えようとしない,そのとき
 本来の徳は回復されるのだ。

(61)大国と小国と

大国は川の下流の三角州のようなもので,
 そこでは人々が群れをなして行き交い,
 そこは世界の「牝(めす)(女性)の地」である。
「牝」はその静(せい)(静かなること)によって「雄(おす)」に打ち勝ち,
静によって低い位置に就く。

そこで,もし大国が小国より低い位置に就けば,
 大国は(巧まずして)小国を併合できる。
同様に,小国が自らを大国の下に就けば,
 (やがて)小国は大国を従えられる(吸収し,うち勝てる)。
それ故に,ある国は自らを下に置いて他国を吸収し(併合し),
 別の国も低きにおることで,他国を従える。
  大国が望むことは他国を庇護したいだけであり,
  小国が望むこともまた,(連合の)一員となり,庇護されたいだけなのだ。
こうして,両者共々望むところを勘案すれば,
 大国こそがその態度を低く抑え置くべきなのだ。

(62)善人の宝物(たからもの)

「道」は天地の深遠な秘密(玄妙な謎)である。
善人の宝であって,
不善なる者の逃げ場でもある。
 美辞麗句は市場で通用し, 
 気取った立ち振る舞いで,褒美の報いが与えられる。
不善なる者であったとて,
なぜ拒絶することがあろうか。

このようだから,皇帝の戴冠の儀において,
 三人の大臣(三公;最高位の役人)の就任の場であってさえも, 
 宝玉の貢ぎ物や四頭立ての馬車を献呈することより,
 「道」を進言することが勝るのだ。
古人たちは,どんな点でこの「道」を褒め称えたのだろう。
彼らは“罪人たちを探しだし,その者たちの罪を許せ”と言わなかっただろうか。
 このように,「道」は,世界の宝なのである。

(63)難行(なんぎょう)と易行(いぎょう)(困難なことと平易なこと)

 無為(為すことなし)を成し遂げる。
 無事(事件なし)を為すこととする。
 無味を味わう。
大小,多寡に拘わらず,
憎しみに徳で報いる。
 難事はそれが容易なうちに取り扱い,
 大なるものはそれが小なるうちに扱う。
世間の困難な問題は,
 それがまだやさしい(芽のうちに)処置すべきなのだ。
世間の大問題と称するものは,
 それがまだ簡単であるうちに,処理すべきなのだ。
こういうことだから,聖人は“大問題を処理する”などといったことをしないで,
 偉大なことを成し遂げる。

軽々しく約束をする者(安請け合いする者)は,
 しばしば彼の真義を反故にしてしまう。
物事を軽く考える者は,
 多くの難事に出合うことになる。
これにより聖人は,物事はもともと難事と考えて処置する,
 だから,困難に直面することがないのだ。

(64)始めのうちにと,終わるころにと

じっとしてそこにある物はすぐに手に取れるし,
 兆候が現れる前なら処置しやすい。
氷のように固いがもろい物はすぐに溶かせるし,
 ちいさなものは手で簡単にまき散らせる。
それが表に現れないうちに,事を処理し,
混乱は芽のうちにつみ取る(鎮(しず")める)。
 両手で抱えられないほどの大木も,始めの小さな芽から成長し,
 九層の高台も小さな土の一盛りから始まる。
 千里の旅も一歩の歩みから始まる。

人は,物事を為そうとしては,駄目にし,
捕まえようとして,取り逃がす。
聖人はあえて物事を為さないので,ぶちこわさないし,
無理に捕まえようとしないから,取り逃がすこともない。
 人々がやることは,よく完成間際というときになって,だめにしてしまうものだ。
 始めるときと同じように,終わりになっても用心深くあれば,  
 失敗は防げるのだ。

このようであるから,聖人は(世人のような)欲望を持とうなどとはしないし,
 また得難い財宝などには目もくれない。
(聖人はまた)無学なままであることを学び, 
 大衆が学んで失った以前の状態に引き戻す。
かくして(聖人は)「自然」の運行を助けて,
 それを邪魔だてしようなどとはしないのだ。


(65)大いなる調和

「道」に順応することをよく知っていた古人は,
 民衆を啓発するのではなく, 
 むしろ無知なままに止めておこうと考えた。
なぜかと言えば,民衆の知識があまりに多くなると, 
 民衆自身が平穏に暮らしていくことがむずかしくなるからだ。
知識によって国を治めようとする者(治者)は,
 民に災いをもたらす者だ。
知識によらないで国を治める者(治者)は,
 民に恵みをもたらす人である。
このような二つの原則を心得ている者(治者)は
 よく古人が行った基準を知っている。
このような古人の基準を心得ることは,
 「玄徳(神秘的な能力)」と呼ばれる。
「玄徳」が明らかになり,辺土にまで及ぶとき, 
 物事は本来の源泉(あるべきところ)に立ち返る。
 そうして,そのときにこそ(この地上に)「大いなる調和」が出現するのだ。

(66)百谷の王

大河や大海は,いかにして峡谷・河川の「王」となるのであろうか。

 それは己をよく低きに保つからである。
それが「百谷の王」となる理由だ。
このように,人々の長となろうと意図する者は,
 よくへりくだった発言をすべきである。
人々の先頭に立とうとする者は,
 人々におくれた背後から歩を進めるべきである。
こうして聖人は(おのずと)人も上に立ち,
 そのことを民衆は少しも負担に感じないのだ。
聖人が先に立って歩いても, 
 民衆は聖人を害しようなどとはしない。
そして,国中の人々は後々まで彼を推戴したいと願う。
聖人は人と争うことがない,だから
国中のだれもが彼に反対などできないのである。 



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