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老子の部屋】TaoWorld
 第3部 「道(タオ)」をなぞらえる [14〜25章]

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                 ───── 第3部 「道(タオ)」をなぞらえる


(14)有史以前の始まり

見つめて,なお見えないもの──
 それは,夷(い)(見えないもの)と名付けられる。
聴こうとして,なお聴き得ないもの──
 それは,希(き)(聴き得ないもの)と名付けられる。
捕らえようとして,なお触れ得ないもの──
 それは微(び)(触れ得ないもの)と名付けられる。
これら三つのものは,確かめようとしてとらえようがなく,
 渾然(こんぜん)として一者をなす(一体である)。
    *[原注]イエズス会派の学者は,この三つの語を(古代中国語音の i-hi-vei が,ほとんど
近似している語として)古代ヘブライ語の“Jahve”と(偶然にか)一致するのは興味深い,と考えた。

それは,昇り行くからといって,明るいわけではなく,
沈み行くからといって,暗いわけではない。
 絶えることなく,綿々と続いて,
 名状しがたく,
ふたたび,無の世界へと立ち返っていく。

これこそが,“無形の形”,
“無の形象”と称される理由なのだ。
これこそが,“杳(よう)として茫漠(ぼうばく)”といわれる理由であり,
 それに面して,その顔貌(かお)を知らず,
 それに随(したが)って,その貌(かたち)を知らない。 


(15)古(いにしえ)の賢者

古の真の知者(賢者)は,
 理解し得ない道の深さ玄妙さに思いをはせた。
ここで,その計り知れない玄妙さを強いて描写してみよう。
 凍る冬の川を渡るときのように,慎重に,
 回りから身に降りかかる危険におびえるように,おずおずと,
 客人として人に対するときのように,威厳を正して,
 溶け始める氷のように,控えめであり,
加工されない白木(しらき)のように,純無垢であり,
 谷間のように,心を広く保ち,
 そして,どんよりとよどむ淵のように,底知れない。

濁った世界をそのままに留めて,
 なお,清らかに澄んだ世界へとなしえる者は誰か。
永く静寂なままに保ち,
 なお,動かして,生命(いのち)を生々と呼び起こしえる者は誰か。

この道(タオ)をわが身に体する人は, 
 過剰に満ちることをしない。
満ちることを望まないがゆえに,
 使い尽くされず,日々新たなのだ。

(16)不朽(ふきゅう)の法を知る

安息の極みに達して,
 その静寂の根を守れ。

万物は生まれ出でて,生々と躍動して後,
 静寂の中に退く。
草木は青々と繁茂して,
 やがては,生まれ出でた大地に帰る。

その根に立ち返ること,すなわち安息。
 始源への立ち返り,それが万物の命運である。
また,その定め(万物が始源に立ち返ること)は不朽の法である。
 不朽の法を知る,すなわち悟りである。
この不朽の法を知らない者(悟りえない者)は,
 自らに惨禍をを引き寄せる。

不朽の法を知る人は,寛容である。
寛容すなわち,公平である。
公平なる人すなわち,王道の人(世界を己とする人)である。
王道の人すなわち,天地との一体者である。
天地との一体者すなわち,「道」を体得した人である。
(タオ)の体得者は,永遠の道と合し,
その生涯は,危害に遭うことがない。

(17)治 者(君主)

最善の君主の下では,
 民衆は,“君主がいる”と知るだけである。
次善の君主の下では,民衆は君主を敬愛する。
その下の位の君主だと,民衆は恐れおののき,
さらにその下の君主に対しては,民衆はあしざまにののしる。

 民衆の信義を育てない君主は, 
 民衆からの己への信義をつなぎ止められずに,
 事ごとに民衆に宣誓させるという手段に訴える!
一方,最善の君主の場合は,その仕事はなめらかに成就して,
民衆は“おれたちが仕事を成し遂げたんだ”と言うだろう。

(18)道(タオ)の衰亡

大道(偉大な道(タオ))が衰えると,
 博愛と正義(すなわち,仁義)の教義が声高になる。
知識や賢さが言い立てられたときに, 
 大いなる偽善が目覚めてきた。
親族間が仲よく暮らせないようになって,
 “慈愛の親”や“孝行息子”が喧伝されてきた。

国が大いに乱れて,無法が横行する時代に,
 “忠義の臣”などというものが,現れたのだ。

(19)素朴さの実現

智恵など追っ払い,知識など捨ててしまえ。
 そうすると民衆は,百倍もの利益を得るだろう。
慈愛など追っ払い,正義など捨ててしまえ。 
 そうすると民衆は,親族間の親愛を取り戻すだろう。
狡知など追っ払い,“効用”など捨ててしまえ。
 そうすると,泥棒や追いはぎなどいなくなる。
このような三様の言い方では,表面的で,十分ではないので, 
 民衆がわかる形で記してみようか──

 素朴さはそのままがよい。
 生地のままで振る舞え。
 利己は控えめに, 
 欲はほどほどがよい。


(20)世間と私

学ぶことを止めれば,悩みも消える。
 “ああ!”と言い,“おう!”と応える,
 その間にさしたる隔たりがあろうか?
“善”と言い“悪”と言うも,
 何ほどの差があろうか?
人が恐れるところでは, 
 恐れないと言うわけには行かない。
しかし,まあなんと,目覚めの兆しから離れていることよ!

世間の人々は笑いさんざめいており,
 供物を神に捧げるお祝いの席にいるかのように,
 春,高楼での楽しみの真っ盛りだ。
私は,独り静かに,世間とは縁なき形で,
 まだ笑うことも知らない新生児のように,
 独り離れて,世捨て人のようだ。

世間の人々は,豊富に満ち足りているが,
私だけは独り,すべてが失われているかのようだ。
 私の心は,白痴のそれのように,
 ぼんやりとして,かすみの中にただよう!

俗人たちが,訳知り顔で,明るく立ち回っているのに,
 私は独り,ものうく,当惑したままだ。
俗人たちが,賢げに,自信に満ちているのに,
 独り私だけが,気落ちしたままだ。
海に浮かぶ受難者のように,
 目当てなく,漂い続けている。

世間の人々は,しっかりと目標に向かって進んでいるのに,
 私だけは,融通が利かなくて不器用なままである。
私独り,他の人々とは異なり,
 自然なる母に養われることの大切さを知る。

(21)道(タオ)の姿

大いなるものの徴(しるし)は,
 ただ道(タオ)のあり方に従う。

(タオ)と呼ばれるものは, 
 茫洋としてとらえどころがない。
とらえようとして,
 なお,遙かな中にある。
遙かに茫洋として,
 なお,何かがある。
どこまでもほの暗く,
 なお,生の力があある。
生の力は,姿を見せないままに,
 確かなものとして,そこにある。

古い昔より今に至るまで,
その名付けられてあるもの(現れた形,万物)は,止むことなく生起し,
われわれは,その現れた形を通して,“万物の母”の存在を知るのだ。
私が万物の母の形をいかにして知る,と問うのか?
 それは,このように現れた形(自然の中に人が目にする事物)を通じて知るのだ。

(22)自己宣伝の空しさ(自己宣伝は愚かである)

捨てることが,保全することだ。
曲がっているから,真っ直ぐになる。
くぼんでいるから,満たされる。
ぼろぼろになっているから,新調される。
欠乏の状態であると,物が手にできる。
過剰に物があれば,混乱するばかりだ。

それだから聖人は「一」(すなわち「道(タオ))を抱いて,
世界の人々の模範となる。
聖人は自らを顕わにしない,
 それだから(輝く存在として)世に明らかになる。
彼は自分をひけらかさない(おしでがましくしない),
 それだから広く世に知られる。
彼は自分を宣伝したりなどしない,
 それだから,人々は彼に信頼を寄せる。
彼は自慢することがない,
 それだから,人々の上に立つ。

「捨てることは保全の道」という古人のことばは,
 正に真実を言い得て妙(みょう)と称すべきではないか。
こうして,聖人は身を保ち,世界は彼の家となる(彼に忠誠を誓う)。

(23)「道(タオ)」を体得する

「道」自然は寡黙である。
たとえば突風が,朝を通して吹き荒れることはない。
驟雨が終日降り続くことはない。
風雨はいずこより来るか。
自然より来る。
自然においてさえ,その現象は永くは続き得ないのに, 
 人間がなし得ることの,なんとささやかなものであることか!

このことから,以下のことが導かれよう:すなわち,
 「道(タオ)」を悟った者は,「道(タオ)」そのままに振る舞い,
「道のかたち(現れ方)」を体得した者は,「道のかたち」のままに振る舞う。
 「道(タオ)」を放棄した者は,「道の放棄者」として振る舞う。
「道(タオ)」を悟った者は,
 「道(タオ)」に迎え入れられる。
「道のかたち」を体得した者は,
 「道のかたち」に迎え入れられる。
よく誠実を保ち得ない者は,
 他人の信を得ることができない。


(24)かすのような屑的人間

つま先で立っていようとすると,しっかりと立っていられない。
歩幅を伸ばして大股で歩こうとすると,うまく歩き続けられない。
己を目立たせようとする者は,すこしも認められず,
己を正当化しようと言い立てる者は,世間の評価とはほど遠い。
己を自慢して言いふらす者は,人々の上に立てない。
 「道(タオ)」の基準に照らして言えば,
 これらの者どもは,人をむかつく気分にさせる 
  “おり・かすのような屑的人間”とも言うべき奴らである。
だから,「道(タオ)」を究めた人は,これらの者を寄せ付けない。

(25)四つの永遠の法(あり方)

天と地が存在する前から
渾然としたものがあった。
 言を発せず,孤立して,
 独りあって変わらず,
 よどみなく永遠に回転し続ける,
 至聖なる万物の母。
私はその名を知らず,
 仮に「道(タオ)」と位置づけてみた。
それをしいて名付けて,「大」と言おうか。
「大」は遙か彼方に及ぶことを含意し,また
遙かなる彼方は,遙かなる空間の果てを含意し,
遙かなる空間の果ては,始源の点に回帰する。

したがって,
 「道(タオ)」は「大」であり,
 「天」は大であり,
 「地」は大であり,
 「王」もまた大である。
宇宙に「四大」あり,
王もまたその一員である。

王の法(王のあり方)は,地に帰し,
地の法(地のあり方)は,天に帰し,
天の法(天のあり方)は,「道(タオ)」に帰し,
「道(タオ)」の法(道(タオ)のあり方)は,本来の己に由来する。



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