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老子の部屋】TaoWorld
 第1部 「道(タオ)」の性格[1〜6章]

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               ───── 第1部 「道(タオ)」の性格


(1)絶対者「道
(タオ)」の本質

語ることができる「道(タオ)」は,真の道(絶対者としての道(タオ))ではない。
名付けられるものは,真の名前(絶対者の名称)ではない。

その“名付けえぬもの”は,天地(あめつち)の始まりであり,
その“名付けられるもの”は,万物の母である。

だからこそ,時に,人は心を空しくして“生の深奥(しんおう)”に近づこうとし,
あるいは,“明示された形”を知りたいと,情熱を捧げるのだ。

(深奥といい,明示ともいうべき)これら二つのものは,
(その本性において)同一である。
それらが明示される際に,多様な名前が付けられる。

それらは二つながら,“天地(あめつち)の謎”(宇宙の神秘)と呼ばれるべきものだ。謎(神秘)への探求の道は,さらなる深い謎をはらみつつ,
“すべての生の謎(本質)”へとたどる入り口(門,出発点)である。


(2)ものごとの価値は相対的

世上の人々が美しいものを美しいと認めるとき,
 そこには,醜さ(の認知)が生じてくる。
世上の人々が善なるものを善だと認めるとき,
 そこには,悪(の認知)が生じてくる。

このようであるから,
 有(存在)と非有(非存在)は,連なって生じ,
 難と易は,相互に成り(補ってあり),
 長と短は,対比して現れ,
 高と低とは,相対する位置としてあり,
 音と声は,調和して響き合い,
 前と後とは,あい伴う(順序をもつ)。

そこで聖人は,
 無為のままに物を扱い,
 無声のうちに道を説く。
聖人は,万物の生起ををあるがままに認め,
身を処するのに,名声を求めず(外的な評価とは無縁であり), 
ことを成就しても,栄誉の見返りを求めない。
なぜなら,それらはもともと聖人に備わったものとしてあるからだ。

(3)無為にして成就

いわゆる“賢者(知識ある者)”を重用することがなければ,
 民が企みごとをしたり,争ったりすることはない。
稀少な財貨に重きを置かなければ,
 民が泥棒をしたりすることはない。
欲しがる物があるところから民を遠ざければ, 
 民の心は安らかである。
そうだから,聖人が統べる政府のもとでは,
 民は心配事を無くし,
 その腹をたっぷりと満たし,そうして
 彼らに卑しい野心などが起こらないようにして,
 彼らの身体を健やかに保たせるのだ。
そうなってこそ,民は知識とか欲望といったこととは,無関係でいられるし,
小賢しい連中(なまじっかの智恵ある者ら)が余計なことをする余地が無くなる,というものだ。
 無為にして行い,
 世は平穏に治まる。
 

(4)「道」の性格
         *ここでの「道」は「タオ」と読む。以下も同様。

(タオ)は空(から)の器であり,
 その用は,汲めども尽きない!
底なしである!
 万物の“泉の頂”に似て,
 その鋭い刃先(へり)は丸められ,
 もつれは解きほぐされ,
 光は和らげられ,
 騒ぎは鎮められる。
深い淵のようにほの暗く,そこにあるようだ。
 (私は)それが何者の子かは知らないが,
 神の前に存在する“あるもの”のようである。

(5)自 然

自然はけっして親切ではない。
 自然は万物を,神に捧げた後に捨てられる“わら作りの犬ころ”のように取り扱う。
成人もまったく自然がそうであるように, 
 民を“わら作りの犬ころ”同然に扱う。

なんと天地(あめつち)は,風を送る“ふいご”のようであることよ!
 空虚であってなお,物の供給は途絶えることが無く,
 動けば動くほど,物は生み出される!
万言が費やされて,知は涸れて
なお,世界の“芯”(中,核心)は不滅である。


(6)谷の気(精神)

“谷の気”は死に絶えることはない。
それは“玄牝(げんぴん)(神秘の母性)”と呼ばれる。
 玄牝の門は,
 天地(あめつち)の根源である。
 絶えず休むことなく動いて,
そこに在るようだ。
それ(玄妙な道のはたらき)に身をゆだねる人に,
自在さがおとずれる。



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