◆ 科学 vs 宗教 ◆


「宗教や思想は、人間の脳を住みかとする寄生生物だ」 (宗教・思想と生物)
と前に書きました。それらのうち、科学と宗教についてもうすこし 考えてみます。


「ローマ法皇ヨハネ・パウロ二世は23日、 『進化論は仮説以上のものである』 と表明し、進化論に一定の評価を与えた。」 1996/10/25 新聞各紙

科学は、宗教とは全く別の観点から、人間の生活をより便利に、 快適にと変えて来ました。そして多くの人々に信用されるに至り、 これらの間で矛盾が生じた場合には、今では宗教よりも 科学を選んだりします。
たとえば、キリスト教の「人間は神がお作りになった」という考えを 科学(進化論)は支持しないし、実際多くの人はそうは思っていないでしょう。 人間は進化によって、人間ではない何かの祖先生物から次第に変わり、 人間となったのです。
(キリスト教に比べて、仏教は科学と相反するような教義を持たない ようなので、科学とは比較的相性が良いかもしれない。死後の世界なんて 証明できないから。)

しかし宗教はなくなりはしないでしょう。人間関係における、自己犠牲の 精神や思いやりの心といったものは、現代においても集団生活を維持する 上でとても役に立つ信条です。そしてこれを科学で説明することは難しい。
科学を教えても犯罪はなくならないけれども、宗教を教えて平和な街が つくられるならば、科学よりも宗教を優先する場合だってあるはずです。 アメリカの一部の学校では授業で進化論を教えることが禁じられている そうですが、このような背景もあるのではないかと想像します。

また最近では、科学技術による便利な生活というものがある程度 行き渡り、みなそれに慣れてしまい、科学による直接的な利益が 感じられないほどコストパフォーマンスが悪くなってきたことと、 科学知識が多すぎて教育 / 理解が難しくなったこと、 環境悪化などのマイナス面が目立ってきたこと、 科学の注目点が人間の直観的快楽からどんどん離れて行ってしまって つまらない、という傾向が感じられます。
これも科学の支持率が下がりつつある原因ではないでしょうか。

科学者は知識欲を満たすために、どこまでも先に進んで行きますが、 それは少数で、一般の人々は便利さや気持ち良さを求めているのです。
家庭は電気製品であふれ、使いにくくなるばかりです。 だから「アウトドアしよう!」とか「キモチ良く生きよう!」なんて 見出しの雑誌が増えるのです。

繰り返しますが、思想の進化を考える場合、大事なことはその思想が 真実かどうかではなく、人間にとってどれだけ利益があり、どれだけ 支持されるかなのです。


コントロールする道具としての宗教

上記を書いた時は、個人としての利益(精神の安定とか)のみを 考えていましたが、まったく別の観点として、権力者の立場から見た場合、

  「宗教は民衆をコントロールするのにとても便利だ。」

という点に思い至りました。
宗教を広め、それによって多くの民衆の心理を一様にした上で、

  「王は神である!」
  「私は神の声を聞いた!」

なーんて言っちゃえば、実に簡単に民衆を操ることができます。
ピラミッドは建つわ、大聖堂は建つわ、 神の名のもとに、侵略戦争なんか始めたりする訳です。 そして信仰(精神)の力で勝ち進んで行くのです。 (「捨て身の攻撃」ほど恐ろしいものはないと思う。)

宗教と政治が同一であったり、親密な関係を持つことは キリスト教をはじめ、日本の仏教でもあったし、過去には どこにでもいくらでも例が思いつきそうです。

個人の利益としての信仰と、権力者の利益としての信仰、 それは両方が絡み合って相乗効果でぐんぐん大きくなって 行ったように思えます。

ただし現在の日本では、宗教・政治・科学は、ゆるい繋がりは あるけれども、分離した思想・組織として存在しているので、 民衆を一つの強力な信条でまとめることは難しい時代になっている、 といえるでしょう。


1996/10/26 T.Minewaki
2000/02/18 last modified T.Minewaki
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