第一章 表現を育む ― デンマークのフリースクールの実践から

ランスグラウ・フリースコーレでの表現遊び

 1、風車の町

 わらぶき屋根にまだ霜の残るデンマークの三月のある日。風は切れるように冷たい。だが陽射しは春の訪れを感じさせた。この日、アンデルセンの生まれ育ったフュン島、その南部にあるセーディンエ・フリースクールを訪ねた。前年オレロップという町にあるフリースクールの校長に、ここだけはぜひ見ておいた方がいいよといわれ、それ以来気になっていたのだ。何の因果か、教育の専門家でもないのに、このところデンマークの教育、とくに公立学校とは別個の、民衆運動にもとづく私立学校「フリースクール」の教育を調べる羽目になった。デンマークを訪ねる度に、友人の協力を得てフリースクールをあちこち訪れている。

 「フリースクール」という名前ではあるけれど、日本でこの言葉がイメージさせる教育、つまり、リベラルで、実験的で、ときには「反教育」にまでつながるようなラディカルな教育をやっているわけではない。デンマークの「フリースクール」は基本的に私立の学校を意味する。国家の管理から「自由な学校」という意味で「フリースクール」と称してきた。約百五十年前に始まり、デンマークでは公立学校とならぶ重要な教育として、市民権を得ている。

 今回は水先案内人として、ギスレウ・フリースクールの女性校長ヴェルボーが同行してくれた。彼女はデンマーク・フリースクール協会国際委員会委員長もつとめ、諸外国との交流、外国人ゲストなどへの応対をしている。美しい素敵な女性だ。私の面倒をみてくれた三日間、自宅に招いて旧知の友人のようなくつろいだ細やかな心遣いをしてくれた。楽しい思い出の一つとなった。

 ギスレウはこのセーディンエの近くにある。なのに地元の人間の彼女でもなかなか学校を見つけることができない。あちこち車でまわってやっと探し当てた。わからないのも道理で、学校らしき建物はなく、大きなわら屋根の農家の建物と、小さな町のミニチュアがあるばかり。はた目にはどう見たって学校には見えない。だいたいが、デンマークの学校は、味もそっけもない収容所のような日本の鉄筋コンクリートの建物ではなく、どこも人間的な建物ではある。だけど、それでもここは変わっている。なるほどオレロップの校長のいったとおりだ、と内心わくわくしつつ、車から降りるのだった。

 この学校は別名「風車の町(メレ・ビュ)」という。お店や図書館、教会など模したこぢんまりした建物があちこちあり、それらがクラスになっていた。ちゃんと道路が通り、信号機やミニバイク、ゴーカートなど走り、なんと鉄道やフェリーまであった。ちょうど、わが国の遊園地にミニチュアの町などがあるが、それの大規模なものとイメージしたらいい。事務室と職員室、それに幼稚園(年長組のみ)を兼ねる大きな古い農家の建物だけがもともとあったもので、あとはすべて手づくりの建物である。しかもこれはすべて親と教員そして子どもたちが力をあわせて、授業の一環としてつくり上げたものというから驚きだ。

 教会を模した建物にいくと、恒例の朝礼が始まっていた。みんなで歌を歌い一日が始まるのがデンマーク流。校長のグスタウが二人の生徒を膝に乗せ、少し話をする。そのあと、膝に乗った二人の生徒が今日の役割当番を発表した。この学校は小さな町として機能しているので、休み時間には、お店に入ったクラスはお店の仕事を、図書館に入ったクラスは図書館の仕事をする。そのほかにもいろいろな役割があり、毎日交替するものをこの朝礼で報告するのだ。心暖まる雰囲気の朝礼だった。ヴェルボーも「ここはいい朝礼をしているわ」とつぶやき、引き揚げる子どもたちを優しい眼で見守っていた。

 朝礼の後、校長のグスタウにいろいろと話しを聞いた。 話の中で彼が強調したことは、このようにして町を作り上げること、その中で生活をすることが生きた教育なのだということだった。それは何も大人のまねをするということではなく、また実利的なことを学ぶということでもなく、みなで話し合って何かを決め、協力して形あるものをつくり上げ、維持していくことに主眼があるのだ。

 現在ある町はあくまでも通過点で、過去には違う建物があったそうだ。それらはみな別の組織に売却したという。今までは一クラスが入る程度の小さな建物が多かったが、今後は複数のクラスが集えて、オープンスペースを生かして子どもたちの交流が可能となる大きな空間を持つ建物をつくることに主眼をおきたいとグスタウは語った。このように風車の町はつねに可変的で生きている。新しいことにチャレンジし、子どもたちの創造心を刺激し続けるのだ。

 自分たちで校舎をつくるということは、「フリースクール」では、必ずしも珍しいことではない。このセーディンエは全員で何もかもする点が特徴だが、ほかのフリースクールであれば、親と教員が力を併せて校舎の一つや二つをつくったり、改築したりすることはよくあることだ。校舎とまではいかなくとも、あらゆる創造活動が重視されているのが、フリースクールの特徴なのだから。

 シェラン島のスラエルセにあるランスグラウ・フリースクール。ここも校舎の一部と遊具の全部を親たちがつくり上げた。この学校も例に漏れず、教科よりもワークショップを重視している。午後はすべてワークショップの時間に当てられる。染色、陶芸、木工、バンド演奏、料理などなど、生徒たちはいろいろなグループに別れて活動をする。もちろん異年齢集団となり、上級生は下級生の面倒を見、下級生は上級生に教わりながら、いろいろな技術や工夫を身につけていく。

 料理のグループは当日トルコ料理に挑戦していた。朝礼で遠い日本からの訪問者である私が紹介されたので、私を呼ぼうと花まで飾った招待席が用意されていたそうだ。なのに、たまたまそのときだけ座をはずしてしまった私。担当教員に後で子どもたちががっかりしていたと聞かされ、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。もちろん、そのあと、日本の文字で自分たちの名前を書いてくれと子どもたちに頼まれて、スーパースターよろしく、群がる子どもたちにサインをしてあげることで、お返しとしたけれど。

 校長のフレーデ・ハンセンは、子どもたちのファンタジーや創造性は、こうした創作表現活動を通じてこそ、もっともよく育めるのだと力説する。デンマークでもスラエルセ程度の都会になると、公立学校は知育の面が強くなり、創造活動がおろそかになりがちだ。ここランスグラウ・フリースクールには意識的な親たちの心強い支持があり、子どもにファンタジーの力を育んでほしいと願う親たちが子どもを通わせているとのことだった。

 ランスグラウのその特徴は子どもたちの元気さによくあらわれていた。異国人のこの私にもものおじせず素直に語りかけ、私といっしょになって授業を受けたり、体操の時間のフィンランド・ベースボールを楽しんだ。近所にいるなじみの子どもたちのようで、なんともいえない親しみを感じた。今回が二度目の訪問ということもあるけれど、私は遠いデンマークに来ているのも忘れて、ここが視察の場所というよりは、気心知れた仲間たちのもとにいるような感じがしたものだ。

(清水 満『共感する心、表現する身体』新評論より)

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