風力発電 それは Made in Denmark

 ウルリヒ・ヨヒムセン
フォルケセンター理事、ドイツ分散エネルギーネットワーク代表)

デンマーク・フォルケセンターの風車実験場

 デンマークで最初に風力利用ができたのはなぜなのか。風力に富み、かつ重要な産業をもったほかの国々、たとえばイギリスやフランスでそれができなかったのはなぜだろうかを考えてみよう。

かつてほとんど百パーセント石油エネルギーに頼っていたデンマークは、1973年の石油危機を強く意識した。家の中が明るく心地よいかどうかという問題が、中東の石油富豪たちの機嫌に、将来にわたるまで依存しないですむには、何かが起きねばならなかった。ほかの西欧諸国と同様に、デンマークでも、政府、財界、電力会社それにマスメディアは原子力エネルギー推進の立場をとったが、一方では、コペンハーゲンには、そこからたった20キロメートルしか離れていないスウェーデンのバーゼベック(Barsebeak)原発に反対するデモもあった。彼らは「やめるべきは?」「バーゼベック!」「とるべきは?」「太陽と風力!」と声を挙げていた。

 こうした中で二つの組織がつくられた。OOA(反原子力情報のための組織)とOVE(再生可能エネルギーのための組織)である。OOAとその参加者は、住民はドイツやフランスのようにお上や専門家によって教え諭される存在ではなく、大事なことは住民自身が知らねばならないというグルントヴィの民主主義の伝統に立っていた。素人でもわかることは、原子力エネルギーは絶対にミスのない人間を必要とするということだ。仮にそんな人間がいたとしても、デンマークでは、そんな面白みのない奴は絶対あいさつもされないだろう。1985年、チェルノブイリ原発事故の一年前、国会(デンマーク語では「Folketing (民衆会議、あるいは民会)」)で、デンマークには原発はいらないとはっきり決議された。

 OVEは、前世紀から今世紀にかけてのポール・ラ・クールの仕事と、SEASのエンジニア、ヨハンネス・ユルの仕事を受け継いでいる。ポール・ラ・クールはグルントヴィの伝統に立つアスコウ・ホイスコーレの校長を務めた人物であり、1890年に、ホイスコーレの照明用に、水素利用とともに、世界で最初に発電用風車を建てた人物である。ユルは1957年に200キロワット風車を建て、それは10年間運転された。

 70年代の最初の風車は、このユルの風車の十分の一のスケール、20キロワットのもので、固定式でゆっくりまわる三枚羽根、そして非同期の発電機というものだった。80年代中ごろにグラスファイバーを使い、コンピュータ制御によって、1953年と1960年の間に目標とされた羽根の表面積の平方メートル当たりの電力産出量をようやく越えることができた。

 ここではグルントヴィについて詳しく報告することは出来ないが、彼は150年以上も前からデンマークの民主主義的な文化の発展に本質的な影響を与えてきた人物である。この伝統のおかげで、デンマークは人間を犠牲にすることなく平和な近代への転換を可能にした。「外に失いしものを内に求めん」という当時のスローガンがそれを如実に示している。デンマークがグルントヴィの影響で19世紀に民主主義と国民国家を成し遂げたのに対し、このデモクラシーの運動は南の国境で、ビスマルクとドイツ帝国の株式会社によって葬られてしまった。よく知られているように、ドイツ「国民」は、神の恩寵たる鉄と血によって統一されてしまったのである。

 「上からの指導」というドイツ的伝統の中で、数年にわたる実りのない議論を経て、ドイツ有数のコンツェルンMAN(重機、重電メーカー)が3000キロワットの出力のグロヴィアン風車(GROWIAN、大きな風力施設という言葉の略称)をプロシア電力、RWE(ライニッシュ・ヴェストファーレン電力)、シュレスヴィヒ電力の三者の委託により建設した。このグロヴィアン風車によって、EVU(エネルギー供給企業体、日本の電事連みたいなもの)は、風力利用は実用性がなく代替エネルギーにならないことを証明しようとしたのである。このことを彼らはコストをかけて証明した。もちろんそのコストは納税者にかかってくる。費用の一億マルクのすべてが連邦政府の科学研究省予算から出され、同時に再生可能エネルギーのための予算は捨ておかれた。契約上では、あれこれ試みて、遅くとも3年後にグロヴィアン風車はただデモンストレーションのためだけに跡形もなく消えるということで一致していたが、結果は予定とは異なっていた。グロヴィアン風車はわずか158時間の運転実績を残しただけで巨大な遺跡になってしまったのである。

 われわれは、グロヴィアン風車を観光客の見せ物とし、風力エネルギー利用の不可能性の記念碑とするための市民運動を展開した。多くの公的な資金をもってして、原発に比べれば単純な風力発電ですら運転させられなかった巨大企業に、より困難な原発の建設ができるはずがない、永久に禁じられるべきだと主張したのである。

 1977年、グロヴィアン風車から北へ300キロ離れたトゥヴィンド・フォルケホイスコーレに三枚羽根の2000キロワット風車が建てられた。住民の参加の下、廃物利用から、200万マルクでつくられたこの風車は、15年間にわたって活動し、風力発電では世界最高のキロワット時間あたりの稼働記録をもっている。これに対し、1988年に1500万マルクで、EUの助成金によって、2000キロワットの風車がエスビャウにつくられた。これはデンマークの「グロヴィアン風車」といえるだろう。これにかんしては、三年間の試験運転の後のいかなる撤去も取り決められなかったので、つねに注意して見ておかねばならないだろう。こうした動きとは対照的に、そのそばでは小さな私的な風車が1500キロワット規模まで建てられ、よい収入をもたらしたが、資金の無駄使いはいっさいなかった。

 デンマークのグロヴィアン風車はまた、それが鳥を迫害するという主張を可能にするためにも建てられた。しかし、デンマークの風車監督局の報告によれば、長年にわたるドイツでの研究、すなわち、「鳥はたしかに、大きな、とりわけ動くもので方向をとる。だが高圧電流線とは逆に、風車の回転翼は鳥の飛行に危険ではない。なぜなら鳥はそれを認識し、よけることができるから」ということが証明されたのである。デンマークでは「風車による鳥の死」という議論は跡形もなく消えていった。

 1997年11月、サムセ島(ユラン半島とフュン島の間の島)が将来の「再生エネルギーの島」として宣言された。環境・エネルギー大臣のスヴェン・アウケンはサムセ島住民と一緒に、ここにデンマークのエネルギー技術の国際的にみても卓越したデモンストレーション・プロジェクトや展示場をつくった。サムセ島を知るものは、この島がデンマークのミニチュアになっていることを知るだろう。この島の中で4400人の住民は向こう10年間はエネルギーを外から取り入れることなく、完全に自立した生活ができるのである。あらゆる参加者の開かれた民主的で友愛に満ちた協同性(デンマーク語でfolkelige 注)が、デンマークの持続的な成功の深い秘密である。ドイツからの観光客は深い印象をもたずにはいないだろう。

 このアジェンダ21プロジェクトは、また北ユランの半島地区トュイホルム(人口3700人)でも申請され、良好な結果を挙げた。今日では、その隣の町、人口12000人のシドトュでも、必要なエネルギーの96パーセントを個人が協同組合をつくって建てた風車でまかなっており、そのおかげで、年間42735デンマーク・クローネの金額がその地方から出ていかずにすんだのである。このことはなんら驚くべきことではない。ここには豊かな風があり、デンマークの再生エネルギーの中心地、フォルケセンターがあるからだ。

 当然のことながら、中央集権論者たちはこうした成果を阻害しようとする。1984年以後、原則として、風力発電設備の近隣で生活を営むものはこの新しいエネルギーの享受者となるという分散の原則が政治的に決められたが、現実においては事態は逆だった。ドイツでは、最初に風力発電が運用されてから、シュレスビヒ・ホルシュタイン州政府は逆の道をたどった。彼らは風力発電を風車パークに集中するという方式をとったのである。だが、「電力供給ネットワークとしては、風力発電は主流になりえない」というEVUのよく知られた議論は、田園風景の中に個々に建てられた26の風車のケーブル協同組合の設立によって、その議論がおとぎ話でしかないことが証明された。とどめは、トュ高圧電力という会社が一番安い電力供給者となり、ケーブル協同組合の委託で、向こう5年以内に減価償却され、北海に面した地区に住む風車発電の所有者たちには最高の利益が上がるような電力供給を行ったという事実である。この地では、(過疎や地域崩壊を防ぐべく)家や庭を都市の住民のサマーハウスとして売らないようにするために風力発電利用が進められた。このシドトュでのほとんど百パーセントに迫る電力自給はこのデンマーク特有の民衆運動(folkelige)の伝統の結果だったのである。

 今日ユラン半島やフュン島では電力の35パーセントは風車やメタンなどの民衆のエネルギーから生じている。このことはすでに100年前にポール・ラ・クールが可能にしたことだ。20世紀の最初、電力供給を民主的・共同的なやり方(folkelige)で行った者たちはアスコウ・ホイスコーレのポール・ラ・クールとともにあった。それゆえにこそ、デンマークでは小さな商売を営もうとするものはヨーロッパで最低の電力料金を払えばいいが、ドイツではヨーロッパ最高の料金を払うという結果になったのである。(訳 清水 満)

出典:Windiger Protest. Konflikte um das Zukunftspotential der Windkraft, hrsg. F.Alt, J. Claus u. H.Scheer. Bochum , 1998 ISBN 3-920328-37-X

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 この本は、ヨーロッパ太陽エネルギー協会の前代表をつとめたHermann Scheerらが編集したもので、上のウルリヒの記事も入っています。ウルリヒ・ヨヒムセンはグルントヴィ協会のいわばドイツ会員的存在で、デンマークとドイツの国境町フレンスブルクを拠点にドイツ・デンマークにまたがって活躍し、再生エネルギー運動の中心的人物の一人です。

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