「風の教室」

『そのとき風がどっと吹いたのでした』

      福田英二(鹿児島県出水市)

呼びかけの文章から;

はじめに
『この学校は、校舎もなければ教師もいません。ましてや、試験も教科書もありません。でも学校です。

 私たちの教室には壁がありませんから、花の匂いも、鳥たちのさえずりも、風の昔さえも渡ってきます。天井はどんな巨人も届かない、大空です。だから、ときには雨さえも降ってきます。

 また、とりあえず講師はいますが、それぞれが先生であり生徒になります。人間はサルでも牛でもありませんから、教えるとか教育するといった事は考えていません。自分で考え、人の意見を良く聞いて、そして学んでいくのが、この学校の主旨です。 頭の悪い人もいい人も、身体の悪い人もいい人も、心の悪い人もいい人も、年齢も性別も、国籍も所得も関係ありません。つまり、あなたが作る学校であり、あなた白身の「私の学校」です。

 また、この学校は農学校です。しかし、農業学校とも連いますし、農民の学校とも違います。田んぼを作ったり畑を作ったり、ときには海に出かけたり、山に行ったりして学びます。米作りをしながらチーズ作りもします。山菜取りもしますし、炭焼きもします、ときには漁師に習って海苔作りをする事もあります。そういう訳で初めはは農学校ですが、どんな学校になるか分かりません。ただもう一度「農」を見直して、真剣に考えてみたいと思っています。』

 これが私たちの「風の教室」の夢多きスタートでありました。十分な討論や資料の検討といったことは全くなく、ただただ熱意と希望的な信頼感だけの出発でした。物事の始まりがいつも期待と不安をはらむように、この教室もウキウキ、ドキドキするような夢のなかから始まったのです。

 この教室の開校までの経過は、四年前の偶然な出会いから始まります。当時鹿児島の有機農業研究会の活動をしていた私は、その仲間から「民衆大学・上陽インターナショナル・セミナー」を知る機会を得、幸運にも鹿児島での実行委員会に参加することになりました。その過程でフォルケホイスコーレの存在を知ったのです。

 私の感銘は大きく二点でした。一つは、グルントヴィのこの試みが農民の教育と自立を目指していたこと、二つには、学校は自分たちで考え作りあげるのだ、ということに大変なショックを受けました。その頃私はようやく農業の面白味や大変さを実感するようになり、いかにして農民が単なる生産活動以外の領域で自立していけるのかを考えはじめていましたから、余計にこの衝撃は強いものでした。

 そして、いよいよ鹿児島での開催となり、来鹿した多くの外国のお客さんとの出会いがかないました。そのときのことは今でも鮮明な記憶となって、今の私の原点になっています。別れが切なくなるほどの幕切れに反して、幕開けは何ともやり切れないものでした。

 初めてお会いした私たちの幾人かがこんな質間をしました。

「デンマクでは〜のことはどうなっているのでしょうか」「〜はどんなやり方をしているのでしょうか」「〜の制度は.・・」

 これに対してあるご婦人が丁寧な説明の後こう締めくくりました。「・・私たちは今回の来日で多くの日本の友人と接しました。その中で特に印象深いのは日本の方たちはHOWと言う質間は多いのに、WHYと言う質間がほとんどありません。出来れば私たちに、なぜこんなやり方をしているのかという質間を出してください」というものでした。私は顔から火が出るほど恥ずかしく、この時ほど私たちの精神の貧しさを思ったことはありませんでした。そして通訳を通してしか話せない自分が悔しくて、会に参加していた友人たちに当たり散らしたのを覚えています。 「調べて分かることは後から自分で調べてください。」ガンジーのような眼差しのヴィスワナタン氏(インド)の思い出と裏腹に、何とも情けない思いの二つを残して、私にとって記念すべき且つ運命的な出会いが終わったのです。

 二年後再びオヴェ・コースゴール氏をかこむ集い「おやおやこんな学校もあったの?!」の企画や一昨年の橋爪氏の留学?を祝いながら、細々とその火が私のなかに絶えずに残っていましたが、その思いは次第に地元の仲間たちのなかで膨らむことになりました。

 

出水の農業を考える会 

 ”行動するときは自分のいる地域で、考えを巡らすときは地球の規模で”というヴィスワナタン氏との出会いから瞬く間に時がすぎました。その間に農業も、農村も、そして私の生活も大きなうねりにのみ込まれていきました。地球環境を破壊し尽くすような勢いで農業が工業化していきます。有機農業自体も生産・流通の合理化・商品の差別化に巻き込まれ、農業が単なる農産物の生産だけに奔走する農民の集まりに変貌していきました。

 実際にはすべての生き物が生産者であり消費者であるにもかかわらず、実態のない消費者という亡霊に踊らされて、安全や新鮮といった商品価値だけに振り回される農民が増えていきました。すべての生き物が食生活を通して農業や、地域や、地球を、そして自由に振る舞える自分を形作っていかなくてはならないのに、単なる生産者と消費者という分類の関係からはそれは生まれていきません。都市や農村を形成しているのは単に農民と消費者だけに限らず、もっと豊かな精神性と可能性を秘めた人々の集団であり、生き物たちの集まりであることを忘れてしまったのです。

 こうした思いが「農業を考える会」を生み出していきました。呼びかけに集まった二十名ほどの仲間は、様々な職種を持ちそれぞれの生活のなかから「農」を考えていこうとしました。それぞれの職業と「農」との距離はまちまちですが、それでも共通の上俵で行動を共に起こして行くことになったのです。

 月一度の会合は初めて顔を合わせをする仲間ばかりでした。こんな片田舎の町にこれほど心を痛める仲間がいることに、お互いが新しい発見をしていきました。その中から朝市「なかもんななか市」が生まれました。議論だけではもう時代の激変についていけない、百の議論より一つの具体的な行動を通して未来を実現しようと始まりました。

 朝市の命名は[この世にあるものは統べてある=ないものはない」という願いが込められました。とりあえず農産物を主体として地域内にあるいろんな産物を集め、お互いの顔のみえる関係から農業や地域を見ていこうと考えました。

 そしてわたしたちは始めの意図を越えて、人きな発見をしたのです。それはこの朝市がわたしたちの財産であるということでした。商品の生産販売、それに係わる人の動きと心の通い合い、それ自体も多くの喜びがあります。しかしそれを越えて、そうした人間模様がじつは大切なお互いの出会いと可能性を保証することに気づきました。

 わたしたちの今の生活はたぶんに合理的で、意味や理由無く自由に他人と出会うことはありません。人が集まるときは常に目的があり、何らかの条件を必要とします。恐らく一過性の祭りやイベント以外にこうした自由な出会いを経験できるのは他にはないでしょう。かつてはどこの町にもあったこうした市が、いつしか近代社会のなかで破壊され、それに応じて他人との関係が希簿になっていったのです。

 始めは地域内の地場流通の手段として、その後は顔のみえる信頼感の醸成として、そしてつぎには新たな人間との自由な出会いの場としてこの朝市が変わってきました。朝市の移り変わりは同時にわたしたちの成長ともなっていったのです。

 なか市が一年続いたころいよいよ次の段階として「農学校」の話が浮上しました。が、何度も繰り返される議論はいつも同じ所で空回りしているようで、遅々として作業が進まなくなっていました。子供たちに農業の体験をさせてみたい、一般の消費者を巻き込んでやりたい、体験だけではなくもっと理念的なものを考えてみたい、それぞれの思いと考えが交錯しました。再三の会議もいつしか半年を経過し、ともかく誰も身近にやった経験もないのだから、まずは少しづつでもやってみよう、その上でいろんな課題をそのつど考えていこうと動きだしたのがこの四月でした。

 

風の教室

 とにかく欲張りで大雑把な計画は次のように設定しました。芋の苗植え、田植え、草取り、稲刈り、搾乳実習、アイス作り、等の季節に応じた農作業をしながら、もっと精神的な部分での取組を期待しました。

『・・作業をするだけでは面白くありませんから、同時に二つのことを仕上げていきたいと思っています。一つには、風車作りです。これが今回の”風の教室”の所以です。小さいものから大きなものまで、いろいろ作ってみようと思います。話が膨らんで、世界一の手作り風力発電所がデンマクにありますので、そことの交流会を計画してみてもいいでしょう。

 とりあえず、小さな風車を作って風を感じてみたいと思っています。なかには自転車の発電機を付け、風の吹く日にちらちらと灯る明かりから、「自然」を感じる人もいるでしょう。講師には、鹿児島大学理学部の橋爪さんにお願いしようと考えています。氏は昨年一年間、デンマクに客員教授として赴任され、最適の講師です。

 二つには、文集(できれば詩集か童話集)を作ります。農作業や教室の合間に感じた風や光のなかから、作物や土の匂いのなかから発見した心の広がりを、いろんな人達に伝えていくものにしたいと思います。今年は宮沢賢治生誕首年に当たるそうですので、ぜひそれにふさわしい講師をお招きして、文集を作りたいと思っています。・・・』

 これまで五回の教室が開かれました。芋植え、田植え、草取り、コスモスの苗植え、アイスクリーム作り、搾乳実習の農作業を行いました。しかし残念ながら風車作りと、文集作りはまだまだ夢のなかです。

 参加する大人も子供たちも、それぞれがいろんな思いと期待を込めてやってきます。まったく縁もゆかりもなかった人達がすぐに打ち解けるほど、まだわたしたちの心は開放されていません。スケジュルをこなすことは簡単ですが、もう少しゆっくりとやってみたいと思っています。

 初めての農作業、初めての田植え、初めての出会い、などまだまだ時間がかかりますが、その代わり田んぼの畦道で食べた弁当の味や、畑の一角に腰を下ろして話し込んだあのひと時は確実にわたしたちをなごませます。

 栫さん親子は、今まで作っていた家庭菜園にもなんとなく違った温かみを感じると言います。二時間ほどもかけて車でやって来る杉本さん夫妻は、子供のころの辛い農作業がここではこんなにも楽しいとしみじみ話してくれました。朝のいちばん列車で鹿児島から来る上原さんは、毎回泥だらけになりながら子供たちの夕飯の時間に間に合うようにと、息せきって帰っていきます。農大生の池田君は家業が牛乳屋にもかかわらず、初めてこの教室で乳絞りを体験しました。ハム工場に勤める田中さんは、農作業と夫婦喧嘩しか思い出にないと言いながら、いつもかわいい子供たちを連れて楽しんでいます。

 紹介すればキリがないほどたくさんのエピソードが、まだ言葉や文章にならずにわたしたちを包み込んでいます。

 

わたしたちの未来へ

 『農」は本来空間の芸術です。農村山村漁村を含めた地域的な空間と、農業をなりわいとしながら生きていく人々の、民芸や伝承や技といった風俗の、精神的な空間を豊かにするものでした。それぞれの村は、田んぼや川や森や海を美しくアレンジして、唄を生み、祭りを起こし、子供たちを育んできました。この事に価値を見いだし、この事をしっかり守っていくかぎりには、何の不都合も起きなかったでしょう。 事実、つい最近まではどの地域もさほど違いはなかったのです。山に行けば木の実がありましたし、川にはたくさんの魚や虫たちがいました。ホタルもいました。大きな羽をゆったりと広げて飛ぷ、ギンヤンマやオニヤンマにどれほど憧れたことでしょう。学校の行き帰りには、田んぼの畦のお地蔵さんが、そっと見守ってくれていました。「カラスが鳴くからかえろ」というこえが、子供たちの合言葉てあった時代はそんなに遠い世界のことでしょうか。

 しかし私たちは農と工を交換し、貧しいささやかな幸せを捨てたその見返りに、豊かですさんだ世界を手に入れたのでした。どんなに科学が進歩しようと、わずか一グラムの土を作りだすことも出来ません。ましてや、莫大な経済力でさえも、ささやかな幸せは作れません。水も空気も光も土も、およそ何一つ人の手で作れないという認識から、すべてが始まっていたのです。ヒトは生まれたときから人ではありません。土の匂いを嗅ぎながら、風の音を聞きながら、そして生き物を味わいながら、ほんのすこしささやかに生きてきたものです。その事をもう一度、自分たちの手で確かめ、未来へつなげていこうと患います。』

 わたしはこの教室が一日も早く、多くの子供たちや大人たちを受け入れる学校になることを念願しています。この教室からデンマークの教員養成学校に行く人が生まれ、またかの地からこの教室にやって来て共に生活できる日を願って止みません。もしよければ、どうか貴方もここに来て一緒にやりませんか。あなたの風を求めて。(1996年10月)

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