学校を巡る冒険 ー 「放課後の教育論」を書き終えて

手島 純(神奈川県秦野市)

 今回、私は初めて「ハイルダーム」に原稿を書くのですが、今の私は表現したいことが一杯詰まっているというよりは、自分の思想構築(少し大袈裟ですが)の方で手いっぱいという状態です。要は迷いが多く断定的なことを言うことに躊躇しているのです。しかし、畏友の清水 満氏に原稿を乞われれば断るなどという愚行は差し控えたいですし、私自身も会員の端くれなので、とりあえず最近考えていることを、自らの体験を踏まえながら少し書きたいと思います。教育や学校についてです。

 kenka学校が壊れてしまっているという把握はかなり正しい認識だと思いますし、多く論じられている通りですが、なぜそうなってしまったのかということについてはだれも語ってはくれません。せいぜい教師の怠慢を嘆くか、理想の教育と比較して現実の教育を批判するかのどちらかぐらいでしょう。
 しかし、学校現場に勤務する者としては、そんなレベルの言説ではとうてい納得できないのです。確かにかなりひどい教師はいます。が、教師たちが皆ランランと目を輝かせて教育に打ち込んでも(そんな光景そのものも異様かもしれませんが)、今の教育事件や教育現象がそう変わるとは思いません。私見では、教育を学校教育に限定しないようにするとともに、近代学校というシステムそのものが行き詰まっているという視点を掘り下げる必要がありそうです。ここでは後者について少し述べます。

 近代学校の特徴として、@学校にはカリキュラムがありそれにそって時間割がつくられ授業が進められる。A学校では同一年齢の生徒を同一空間で一斉授業の形態で教える、などが挙げられます。これを近代学校の「同一性」という言葉で表現しましょう。実はこの同一性にこそ生徒たちは反発しているのではないのでしょうか。通信制高校の人気、単位制高校や総合学科の設置は、同一性に対抗するものとしてとらえるべきです。ここでは多くを述べられませんが、今後学校は近代主義から脱皮していかないと、ますます息苦しいつまらないものになっていくと思います。

 そこでどう変わるべきかということについては、フリースクールやフォルケホイスコーレなどのオールタナティブスクールの考え方が参考になるはずです。しかし、どのような考え方も内容がきちんと吟味されていないと、上滑りの現象を起こします。
 私が通信制高校に勤めていた時は「自由」の意義を感じていたのですが、転勤した定時制高校では自由が「何でもあり」になっていて、所構わずの喫煙や暴力がそれらしく理論武装されてまかり通っていたのには少し面食らいました。
 フリースクールなど欧米の考え方を日本にスライドさせた時、個人主義の問題をどうクリアーするかが大切なように思います。日本では肥大化したエゴと個人主義がボーダレスになっている状況なので、そこの問題意識を曖昧にしない方がいいでしょう。

 さて一方、今の学校批判がどうも陳腐に感じるのは、近代学校のあり方を問わない理想論や精神主義になっているからで、現実社会が示す思想のエキス(なぜ社会主義が崩壊したのかなど)と真摯に向き合えば安易な理想論など論外なはずです(誤解のないようにすぐに付言しますが、私は理想を追うなと言っているのではなく、安易な理想論でものごとを批判したり一元化するなと言いたいのです)。 学校批判の言説における悲劇とは、例えて言えば、神戸で起きた校門圧死事件の被害者の悲劇、そしてそれをある必然をもって起こした教師の悲劇、加えて「一県の一高校の一教師による一生徒の事件」と言ってはばからない教育行政の悲劇、以上を「あるまじき行為」としてしか言及できないマスコミの悲劇なのです。
 今、学校は壊れているのですが、学校を取り巻く環境もまた壊れているのです。この迷路からどう抜け出るかが私の問題意識です。それゆえ、当分はそのことについて考えていきたいのです。考えた結果はまたおいおい書いていきます。これを「学校を巡る冒険」とでも言っておくことにしましょう。

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