福岡空港にて
23日(金)は藤森さんによる講義のあと、清和小学校と清和中学訪問。とくに清和中の校長がスウェーデン視察の経験があり、それで北欧諸国に親近感を抱いて、熱の入った歓迎ぶりであったそうだ。日本の子どもは試験や管理教育に追われてぐったりしているというあちらのマスメディアの与えるイメージをもっていたデンマーク人参加者はノビノビした子どもたちにびっくり。教員であるセーレンとウラはとくにここがお気に入りだった。
夜は彼らの当初の希望通り矢部町のカラオケボックスへ。名前は知ってはいてもカラオケ体験の少ないデンマーク人に見本をということで、福島さんや上羽さんがまず踊りつきで歌う。女性の最年長のドロテアは口を開けてぽかんと驚いていたそうだ。それでも慣れてくるとデンマーク人もビートルズナンバーやオールディズを英語で歌いだす。一昨日お世話になった延隆寺の住職さんも飛び入りで参加して盛り上ったとのことだった。この夜から通訳の田中さんが合流する。
24日(土)はかなりハードな日程。午前はまずお茶のお稽古をしてその後生け花に移る。正味2時間でこれだけのことをこなすのはたいへんだが、昨年の経験が生きて、段取りを充分に検討して用意しておいたのでスムーズに運んだそうだ。
その後は文楽館へ移動して、文楽の鑑賞をする。食事の後は小峰地区に行って老人会の書道練習に参加した。そしてその後はお待ちかねの仮屋地区での子ども奉納相撲大会。
これは昨年も大好評の企画で、豊作に感謝し、来年もそうであることを祈る神社の秋季大祭の一環だが、去年参加して以来、デンマークの人たちも祭に参加することを地区の人たちも楽しみに待っている。子どもたちの相撲を観て喜ぶデンマーク人参加者であるが、今年もクリスチャンとエミールが地元の人と相撲をとった。
最後の相撲は三番勝負で、双方が一度づつ勝ち、三番目は行司が割って入って、「この勝負行司預かり!」と宣言し、豊作を祈って勝負を来年に持ち越すのがこの祭のしきたりだが、事前にエミールにそのことを説明していなかったので、エミールは三番目も真剣勝負と思い込み、行司が止めるのも聞かない。しまいには周りの男たち5人で止めるが、それでも大きなエミールを止めることができずに、とうとうみなで土俵の端からころげおちたとか。地区の人たちは大爆笑だったそうだが、これでもし来年不作にでもあなったらどうしよう、とエミールをちょっと脅かしておいた。
夜は緑川に戻り、お別れパーティ。このときようやく私も合流し、福島さんの車で到着するなり、あいさつをしろと奈須さんに命じられる。わけがわからないまま、あいさつ。
キャンプファイアー
見渡すと地元の人たちも大勢参加している。バーベキューを楽しみながら、あちこちで会話に花が咲く。田中さん、上羽さんなどが地元民との間の通訳に忙しい。さっそく日本舞踊が始まり、デンマーク人参加者たちは日本の踊りを見られたと拍手。今年は緑川地区の人が所用で来れずに、他地区の舞踊ができる人を呼んだそうだ。
今年は天気に恵まれて戸外でキャンプファイアーのもとでできる。昨年は台風にたたられて体育館跡でやった。こうこうと燃える炎が楽しい雰囲気をかもしだす。クリスチャンは何度も「パーフェクト!ベリーナイス・ホスピタリティー!」を連発していた。
そして宴もたけなわになったころ、青壮年部の人による勇壮な緑仙太鼓。リーネはこれが大好きで、日本の男は男らしい、デンマークの今の男はダメだとしきりにいっていた。見事な演奏が終るとデンマーク人たちにも挑戦してみろという。さっそくみながためしに叩いてみる。私も呼ばれて叩いてみたら、気持ちよかった。
お返しにとデンマーク人参加者は歌を歌ったり、フォークダンスを踊る。私の側に坐っていた地元の中年女性が、「こんなところにデンマークの人たちが来てくれてこんな楽しい会ができるなんていいですね〜」としみじみ私に語る。
最後はみなで手をつないで「蛍の光」を歌い、緑仙太鼓のリーダーだったシンジロウさん(みなが親しみ込めてそう呼んでいた)が三本締めをしてお開き。しかし、物足りない人はまだ続きをやっていた。そのうち、子どもの文化学校のエフタースクールツアーの参加者たちがやってきて、デンマーク人たちにフォークダンスを習って深夜まで延々と踊っていた。最後は役場の増田さん、川口さん、荒木さんたちとかたづけをして、深夜2時過ぎに私は寝たが、まだ起きている人もいただろう。
地元の人たちと手をつないで「蛍の光」を歌う
クリスチャンと増田さん
さて、翌25日(日)。いよいよ世話になった清流館ともお別れ。役場の人たちもまた朝早くから集まっていた。入口の前で記念写真を撮りながら、プレゼントを上げたりして、別れを惜しむ。今年も一所懸命お世話下さった奈須さんに大感謝。また今年も松崎さんを初めとした厨房スタッフの方々が泣いていた。坂を上って緑川が見えなくなるトンネルまで彼らは手を振り続ける。デンマーク人参加者はみな満足そうだった。
清流館前で記念写真
バスは蘇陽町を抜けて高森経由で阿蘇へ向かう。美しい景観が素晴らしい。天気もよく最高のドライブ日和である。
貸し切ったバスの属する南阿蘇観光の前を通ると職員が手を振って声をかけてくれる。運転手の山下厳さんは去年から引き続いてだが、クリスチャンからの要望でもあった。ベテラン運転手で、仕事ぶりがていねい。今回は事前に休みのとき、去年よっていないから下調べということで長崎の森山町まで一回車でいったくらいだ。明るい人柄でデンマーク人にもたいへん好かれていた。こういうバス会社と仕事ができるというのが田舎のよさだ。
百姓村につき、荷物を下ろしてから、昼食の場所に向かう。阿蘇名物の高菜飯。庭がある店で、「ナイスアレンジ」とみな喜んでいた。その後は阿蘇のロープウェイに向かうが、あいにくこの日はガスが出ているとかで火口まで行けない。やむなくそのあたりを散策し、帰りに火山博物館のマルチスクリーンで火口の様子や爆発のシーンを楽しむ。これは実際の火口を見るよりもよく見れたかもとクリスチャン。
火口近くで談笑する
ここで福島さん、上羽さん、伊藤さおりさんたちは帰路につき、私たちは一路長陽村の温泉センターへ向かう。一時間ほど温泉につかるが、初めてのデンマーク人たちにも好評。すごくリラックスしたといっていた。私は湯船でルーマニア出身のエミールにドラキュラ伝説の真相をここで聞かされたが、たいへん面白かった。
百姓村には、熊本の協会会員の円藤純子さんが厨房スタッフのお手伝いできていた。彼女はこの百姓村とも関係があるからだが、デンマーク人たちの泊まるこの一泊二日のお手伝いをする形でこのツアーに貢献しようというわけだ。こういう形の関与の仕方はとてもうれしい。夕食も朝食も心がこもってとてもおいしいものだった。
夜は百姓村のリーダー、山口力男さんからお話を伺う。日本の農業の現在、農民のこれからなどを話し、その後は質問に答えるという形式をとったが、同じ農民のペーターを初めとして質問が相次ぎ、一時間の予定が3時間くらいの長い談話になってしまった。力男さんも面白くてついつい乗ってしまったそうだ。
26日(月)になり、百姓村をあとにして長洲へ。ここからフェリーで島原半島へ渡る。前日フェリーに乗るといったら、みな喜ぶこと。昨年は陸路でいったからだ。デンマークはフェリー大国だったが、最近次々と大きな橋がかかり、フェリーが少なくなりつつある。昨年を知るクリスチャンやリーネは、ほぼ同じようなツアーでもあちこちにちょっとした変化を凝らしてあるので、すごいいいアレンジの旅だとよろこんでいた。
フェリーで一路島原半島へ
フェリーを降りて、森山町へ。車での旅は退屈だからと、通訳の田中さんが日本クイズなる余興をして車内で盛り上る。10問の日本に関する問のうち(一番高い山は何かとか)いくつ正解したかを競わせたが、合気道をやる日本通のエミールがやはり一番で賞品をせしめた。
昼食の「草ぶき」という手打ちのわら屋根のおそば屋さんで村山寛子さんが待っていた。ここの店とこの後訪ねる長谷川さんのギャラリーを紹介してくれた会員だ。阿蘇から同行したが、しかし昨夜は深夜に一回戻っていた。ここで解説つきでおそばをいただく。材料はすべて有機無農薬の手製で、しかもここの主人は陶芸家でもあるので作品が展示してあり、陶芸家のリーネは興味深そうに眺めていた。
食事を終えて長谷川さんのギャラリーへ向かう。ここで磁器のコーヒーカップの絵付けのワークショップを行った。さすがに表現力豊かなみなさん、最初はどうしようかと迷っていたが、そのうち個性的な模様を鮮やかに描いていた。この辺は似たような意匠が並ぶ日本人とはちと違うところだ。自らも陶芸家であるリーネは「産業スパイだわ」といって一生懸命ろくろや窯の検分に余念がない。手順やデザインに参考になるものはないかと興味深く眺めていた。
一段落すると上のカフェでコーヒーを楽しむ。コーヒーを飲む回数が日本では少なくなるので、こうしたひとときは彼らにとっても嬉しい。とくに目の前には作品が並ぶギャラリーがカフェにもなっているので、はなはだぜいたくなひとときだ。
絵付けの様子
さてここにも別れを告げて、長崎市の原爆資料館へ。私とクリスチャンはみなが見ている間、帰りの飛行機のリコンフォームをする。そしてみなからあずかった絵はがきを出しに郵便局へ。この辺も下働きの役目である。だから今年は資料館を見る暇がなかった。
資料館見学のあとずっと通訳をして下さった田中さんとここでお別れ。東シナ海に沈む夕日がきれいな式見ハイツへと急ぐが、残念ながらかすんでいてよくは見えなかった。式見ハイツは広い浴場とゆったりした和室の部屋でクリスチャンやリーネには好評だった。ここで浴衣を着られるというのもデンマーク人参加者にはお気に入り。エミールはこれを買いたいそうだ。
村山寛子さんはそのエミールが市内で三菱重工長崎造船所に来ているデンマーク人の友人と会いたいということでドライバーになっていただいた。すごいご馳走が出たそうだから、まぁその甲斐はあったものと思う。
食事の時、料理長の方が「デンマーク語でいらっしゃいは何というか」と聞いてくる。もてなしの気持ちがこもっていて職員のみなさん感じがよかった。二年目ということもあるのかな。ここはお勧めですよ。
夜は私がホームステイの説明会をした。ここで面白い話が一つ。
スペイン人の姉妹ローサとオイゲニアは、姉のローサがデンマーク人と結婚し、そのままデンマークに住むが、妹のオイゲニアはバルセロナに住む生粋のスペイン人である。しかしクリスチャンから来たメールでは、名前がバルセロナ・オイゲニア・リーバスとなっており、名前にしてはおかしいなと思いながら、仕方なく名札はその通りにつくった。これは彼がコピーアンドペーストをするときに間違えて前の住所のところまでとってしまったミスなのだが、私はそんな人もスペインにはいるのだろうと思ってしまった。それから彼女はツアー中は周りの参加者から「ミス・バルセロナ」と呼ばれるようになってしまった。
このときも大阪行きの航空券を事前にとったとき、「バルセロナ・オイゲニア・リーバス」でとっているものだから、私は詫びながら「もし空港で名前を呼ばれたとき、バルセロナ・オイゲニア・リーバスさんというのはあなたのことだから、必ず行くように。そしてパスポートの名前と違うといわれたら、『私はホントはバルセロナ・オイゲニア・リーバスが正しい』というように」というと会場は大笑い。彼女もいかにもスペイン人らしく「まぁ何とかなるでしょ。マニアーナ、マニアーナ(明日のことは明日任せ)」と陽気に答えていた。
その後温泉に入る。浴衣を着てロビーのソファでビール片手に談笑。いよいよセミナーもここまで来れば終わりに近づく。
27日(火)になり、式見ハイツにお別れ。みなさん外に出て見送りをしてくれた。大村湾が見える展望台で休憩をとる。ここでオイゲニアが芝生でサンダルを脱ぎ裸足で歩いていたら、公園の管理人が誰かの忘れ物として事務室に片づけてしまった。彼女はサンダルがないと一騒動。私が管理人事務所に行ってもらってきた。とにかくこのスペイン人の姉妹はいかにもノリがラテン系で楽しく、ツアーの中では異彩を放っていた。
福岡市のホテルぞんたあくで昼食をとりながら、ホストファミリーのみなさんとご対面。その前にこれまでの一週間ずっとバスの運転をしてくれた山下厳さんとお別れをする。ホントによくして下さってすっかりこのツアーには欠かせない名物運転手になってしまった。
山下運転手といっしょに
協会会員のみなさんにホストファミリーや空港や駅までの送迎をお願いした。デンマーク人にはこうしたメンバーや関係者がそろって本当に頼もしく映ったに違いない。あちこちでお手伝いしてくれる協会会員に出会って、グルントヴィ協会のメンバーの半分を見たのでは?と冗談をいうデンマーク人参加者もいた。それぞれのホストや送迎のみなさんといっしょに彼らは散り、私もリーネとエミールを博多駅で見送るといったん家に戻った。
それぞれ楽しいホームステイを体験し、29日(木)の夜8路に再びホテルぞんたあくに集合する。仕事の関係で遅れてついた私はみなが近くのスパゲッティ屋さんで最後の打上げのビールを飲んでいる場に行く。すでに駅に迎えにいって下さった白木ゆかりさんもいて、私がいない間は彼女がいろいろとお世話した。「ホームステイは楽しかったかい?」と私が聞くとみな一斉に「イエース!」と大きな声で答える。とてもいい時間を過ごしたようだ。会員の楯宏子さんのところにステイしたエルセは「私たちとても似た者同士で話がすごく合ったのよ」と嬉しそうに語る。各人自分の体験を仲間と語り合っていた。
そして翌日朝6時に起きて福岡空港へ。チェックインに手間取るがスムーズに進んで、いよいよ搭乗口へ。最後のお別れをして一同関西空港へ向かった。関西へステイした3人と合流して11時台の飛行機でデンマークへ戻る。
セーレンもマルタもアリスもボーもみな素晴らしい旅だったといってくれた。エンジニアのボーはかつて仕事で日本(東京)に来たことがあり、そのときはビジネスライクでだったが、今回は百八十度違う日本の姿、日本人と会って、すごく面食らったそうだ。東京での体験がだいたい向こうでの日本人一般のイメージに近いが、今回の旅では全然違う印象を得て、頭を整理するのがむずかしいといっていた。でも今回の日本がほんとうの姿だろうとも。東京にも京都にも行かず、ただ熊本、長崎周辺を旅しただけだが、九州にいる人間からすればこれはごくふつうの日本の姿の一つではあるだろうと思う。
クリスチャンとリーネは二度目で同じような内容なので、退屈に感じるだろうとも思っていたが、逆にますます印象を深くし、より楽しめたようだった。リーネは清和でのお別れパーティのとき、「こんなに遠くに来ているのになぜか私はここにいると故郷に戻ったみたいよ。世界のどこよりもここが身近に感じる」といっていた。これが一番のほめ言葉だったのかもしれない。(終わり)