北海道のフォルケホイスコーレ運動 三愛塾運動と農村伝道その2 |
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農民たちと談話する樋浦誠(左から二人目)1985年 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3、大学開放の農民教育運動一第一期三愛塾一
酪農学園の出発は、1933年の北海道酪農義塾である。創立者黒澤西蔵は、当時の酪連(北海道製酪販売組合連合金、会長は宇都宮仙太郎、雪印乳業の前身)専務理事であり、北海道の酪農を担う青年の教育の必要性を唱え、酪連総会の決議を経て、これを開校した。1942年、野幌機農学校と改称したが、戦時体制下で皇道農業を基調とする教育がなされるに至った。 敗戦後、学制改革により野幌機農高校として再出発する際、黒澤は、同じく敗戦の中から酪農立国を成し遂げたデンマークを模範とし、教育の根幹をグルントヴィのキリスト教精神に置くことを決断した。そして1950 年の酪農学園短大設立に際しても、「キリスト教の精神に基づき、神を愛し、人を愛し、土を愛する有為なる農業人を養成することを目的とする」との建学の精神を定めた(14)。 黒澤が短大創設に当たり、学長就任を要請したのが、当時岐阜高等農林学校(岐阜大学農学部の前身)教授の樋浦誠であった。樋浦は北海道帝国大学で宮都金春に師事し、札幌組合教会(現札幌北光教会)で受洗したキリスト者であった。佐藤貢氏は当時をこう回想している。「樋浦先生は黒澤園長が教育理念として決定したグルントヴィの三受精神に強く共鳴し、この精神に基づき有為な酪農人及び指導者の育成に心血を注ぎ、情熱に燃えて学生の教育指導に当り、率先垂範学生の魂を躍動させ、宗教と科学に関する開眼に大きな力を発揮した。」(15) 樋浦は札幌農学校の精神の継承者であり、キリスト教信仰を土台とした新しい大学の建設に情熱を燃やした。自ら寮に宿泊して学生と生活を共にし、日曜日には教会の礼拝に導き、多くの学生がその感化で洗礼を受けた。その中で牧師の道を歩む者も数多く生まれた(16)。 その情熱は、大学に来られない大多数の農村青年たちにも向けられた。彼らこそ、新しい農村造りの中心的担い手だったからである。1950年3 月、機農高校の通信教育誌「酪農学校」に「酪農青年に告ぐ」と題する檄文を書き、大学塾の開催を呼びかけた。 「……日本人の約40%を占めている農村人が団結したらどうであろうか。……団結の力なくして日本の農村を救うことはできない。……唯、徒らに働くことのみ専念して居るのが農村人の一般ではあるまいか。考えてもどうにもならない。仕方が無い。このあきらめが農村の見せかけの平和を招来せしめて居るのではあるまいか。……あまりにも無知ではないか。・我々は宗教によって人間存在の根本を不動のものたらしめ、科学の方法を自由に駆使して現実の問題を打開し建設して行く方向を選んでいる。従って我々が新しい農村の建設に向かって邁進して行く態度は、常に宗教的であると同時に科学的である。 …正規の大学を卒業することが出来なくても、大学程度の教養を身につけることは必ずしも至難のことではない。……短期間の大学の塾教育を計画している。 ……賛成者はないか!……我々の大学塾は学歴は問わない。年令も間わない。農村を愛し、新しい農村を建設しようと夢みる者ならばすべて入学資格をみとめる。……神を愛し、人を愛し、土を愛する同志(男女)達で大学塾をつくりたい。三愛塾を開催したい。」(17) こうしてこの年の8月、短大の夏休みの期間、第一回三愛塾が開催された。31名の青年たちが食糧、寝具を持参して集まった。学長の志を共有する全教職員がこれに奉仕し、大学開放の農民教育事業が始まったのである。また、A. R. ストーン宣教師から1200ドルの献金が寄せられ、これが実施への大きな要因となった。 この後、夏、各年二回の塾が開かれ、1951年1月、29名、同年8月、21名、1952年1月、85名、同年8月、23名、1953年1月、83名、同年8月、23名、1954年1月、86名、同年8月、38名、1955年1月、78名……と全道各地から、また道外からも多数の農村青年たちが野幌に参集した。 三愛塾のプログラムは手元に1枚だけある。1959年8月、第二〇回男子、第六回女子三愛塾のものである。日程は8月10日から2週間、経費は受講料500円、食費2170円(主食費770円は米の代用可)。毛布1-2枚持参とある。学科目及び講師は以下の通りである。
このように酪農学園のスタッフをほぼ総動員して実施されていた。 三愛塾の参加者は5年間で600名を越え、この青年たちが各地で「三愛友の会」の支部を結成し、それぞれの地域での三愛塾が開かれるようになった。三愛友の会支部は上川(東鷹栖)、十勝(帯広)、北空知(深川)、興部、幌州内、中標津、和寒、北桧山、名寄、湧別、北見、瀬棚などの他に、岩手県西山、青森県十和田支部などが記録されている。 また1955年、日本YMCA同盟主催の「日本農村青年塾」が樋浦の構想によって開催され、以後30年間、彼自身が塾長として全国レベルの農村青年教育運動を推進した。この塾は現在も毎年1回御殿場東山荘で開かれている。 1955年7月には、全国の三愛友の会々員を結ぶ機関誌「三愛」が創刊された。この機関誌は1957年まで年数回の発行であったが、1958年から61年までの4年間は、実に毎月発行された。酪農学園短大(1960年に大学創設)の事務局体制の充実と奉仕者の熱意がこれを可能にした。樋浦は毎号巻頭言で健筆をふるい、会員一人ひとりを励まし続けた。これらの中から樋浦の理念を伺うことができるいくつかの文章を引用したい。 「乳と蜜の流れる理想郷を農村に実現したいと真剣に考えるとき、農人達自らが想を新たにして、過去の農民達に欠けているところを補っていかなければならない。塾を通して、今まで考えなかったことを考えたり、想像もしなかった大きな理想を共に持つことに目を覚まして行きたい。」(18) 「新しい農民に新しい自覚がめざめるに到った。如何に増産しても、増産だけでは新しい村は決して出来ないことに気が付き出したのである。増産が奨励され、その増産が農民以外の者から利用されるだけであった過去の農民の在り方に対して、何かしら、最も大切なものが欠けていることに気がつき出したのである。……それは端的に言えば社会意識の欠如であり、即ち政治意識の欠如である。しかし社会も政治も人間から出てくるものであるから、結局人間的自覚をハッキリ持つことに外ならない。人間意識の欠如が、実に農民が常に社会の下敷きにされた致命的な原因であったのである。……社会意識に目ざめる必要がある。この事から自分の人間意識が重大な事柄として自覚されるのである。」(19) 当時の農村は人口の40%以上を抱えていた。そしてその大多数は貧農であった。樋浦の中心問題はここにあり、これにどういう構想をもって取り組んでいったか、次のように記されている。少し長いが引用したい。 「この貧農大衆こそ日本農村の中心課題である。何としても人間改革と環境改革の両方をやらなくてはならぬ。どちらも同時に、しかも一刻も早く遂行されねばならぬ。かくして我々の突貫作業は次の如き順序をとる。 先ず富農に呼びかける。富農の中から幹部候補生を育てる。この幹部が自己の地域に於て同志を育てるために奉仕する。かくて各地域に幹部団が形成される。この幹部団が横に手をつなぐ。この段階でいよいよ各地域の貧農大衆に呼びかける。 我々はこの道を既に10牛歩いた。そして今やボッボッと北海道の各地に幹部同志の団体が形成されつつある。我々のマボロシが実現するのを見るのは愉快である。デンマークの村道りが、かの有名な国民高等学校によって成し遂げられた事実は甚だ参考になる。国民高等学校は3ヵ月から約1ヵ年の短期教育である。その卒業生が横に手をつないで、ガッチリした村の社会を構築したのである。そのために約40年を要したのである。 我々の三愛塾は僅か2週間乃至1週間に過ぎない。しかしこの塾を通して青年達は新しい理想を確立することが出来るのみならず、新しい人間の自覚、新しい家庭形成、新しい村のあり方についての要点だけはくみとることが出来る。その上、大いに立ち上がって村道りに挺身する情熱を呼びさまされるのである。まことにデンマークに於ける国民高等学校の日本版であり、現代版である。」(21) 「三愛」誌は1958年12月に10周年の特集号を発行し、ここには塾修了者1027名、主旨に賛同する準会員309名、短大卒業者385名、活動に協力する賛助会員74名、合計1795名の同志が与えられたことが記されている。こうして樋浦の構想は着々と前進して行った。彼は「十年を省みて」と題して次のように記している。 「村道りは"人造り"からと言う不動の真理を、ひたむきに追求して居る間に早くも10年の歳月が流れ去った。まことに束の間であった。 ……我々は50年のプランを立てて、この難問題と取り組んできた。三愛塾は農村青年を啓発する教育運動である。しかし決して単なる青年運動に終始すべきものではない。教育された青年が壮年となり、老年になるに従って理想の村の実現にいよいよ挺身して行くような教育運動である。三愛友の会には"卒業"はないのである。棺にはいるまで村道りのために生きぬくのである。 では改めて問う。我ら何をなすべきか。 農民の大衆化、組織化のために年長に訴え、後輩に呼びかけると言う極めて地味な道をたゆまず前進することである。この仕事が如何に困難な縁の下の仕事であるかに、今更の如く思い及ぶのである。何か、不動の拠点によるのでなければ、遠い前途に不安なきを得ない。 デンマークのグルントヴィが村道りのために奔走して疲れはて、教会堂へ行って神の前にうなだれて祈って居る額の前で、私はこの筆を進めている。心のよりどころなき者は浮沈も動揺もさけがたい。三愛塾でバイブルを学んだことを想い出し、改めて読み直してみる者もあろう。それぞれに独自の道がゆるされて居る。時あって、新しく自己を発見することもまた万人の体験である。」(22) ここで樋浦が語っているように、三愛塾は聖書の使信の提示を真剣に行いながら、塾生を信仰に導くことを目的としたものではなかった。1960年2月、三愛キリスト者の会が開かれ、次のような確認がなされた。 1、三愛運動はキリスト教そのもの福音そのものではない。しかもそれらと切り離し得ない関係にあるものである。即ちキリスト教なり福音なりが、現在の日本の農村社会に触れて、それとの関連において生きようとするところにでてくる一つの具体的な生き方、態度である。 2、したがって三愛運動はいわゆる教会ではなく、福音の伝達を第一義的な目的とするものでもない。むしろ一つの「村づくり運動」であり、キリスト教を信ずる者と信じない者とが協同して行う世俗的な営みである(23)。 新しい村つくり運動は着実に前進していた。しかし突然人きな転機を迎えることとなった。1964年3月、酪農学園理事会は樋浦学長を解任したのである。「理事会で何が問題とされ、いかなる協議がなされたのかは分からないが、公式には4年の任期が切れたとのことである。しかし、それは誰もが納得する理由ではなかった。教育観や大学の理念に対する相違が理事会にあったのかもしれない。或いはもっと暗い人間の相剋が底流に秘められていたのかもしれない。いずれにしても酪農学園は惜しい人材を失ったのである。」(24) 樋浦はこの時66歳、以後3年間大学構内に居住したが、学生と触れ合う機会はほとんどなかった。研究員として名古屋大学での日々の後、1969年、浜松衛生短大初代学長に就任した。 この出来事は三愛塾運動にとって、はかり知れない打撃となった。これによって本拠地酪農学園を離れざるをえなくなり、これまで樋浦と共に献身的に運動を担ってきた多くの教職員が、第一線から離れることとなった(25)。 こうして大学開放としての第一期三愛塾は1963年8月の第28回をもって幕を閉じた。酪農学園を推進母体とした農民教育運動はデンマークの農民教育に比肩できる内実をもっていたと思う。以後、運動は地方に分散し、新しい段階を迎えるのである。 |