北海道のフォルケホイスコーレ運動
三愛塾運動と農村伝道その3
道北三愛塾
道北三愛塾
興部町:ノースプレインファームにて 2001年
4、農民の自主的学習運動一第二期三愛塾一

 酪農学園が運動の拠点でなくなるのと前後して、北海道各地で定期的に三愛塾が開催されるようになった(26)。名寄で道北三愛塾が、道南の瀬棚で瀬棚三愛塾が、いずれも1961年から、野幌の三愛塾と平行して開かれた。

 道北三愛塾は、1960年、F、G、ハウレット宣教師が中心になって北海道農村のための働きの拠点として道北クリスチャンセンターが建設されたのち、センターのメインプログラムとして翌年一月開催された。冬は一週間、夏は「家庭造りパーティー」の名で三日間の日程で欠かすことなく続けられ、その働きの中心を担ったのは中村光夫主事であった。

 瀬棚三愛塾は、酪農学園短大を卒業した生田正案氏が、同短大宗教主任神塚アーサー宣教師の協力で瀬棚町ガンピ岱に入植し、ここに三愛会館を建設して1961年4月に開催したのが最初である。1964年、瀬棚町、北海道、酪農学園、北海教区等の協力で財団法人北海道三愛畜産センターが設立され、生田氏は所長として、酪農経営の傍ら、三愛塾運営の中心的役割を担い、後に入植した西川求氏、河村正人氏らと共に夏、冬2回の塾を続けてきた。

 樋浦学長の退任の後、北見三愛塾、農村女子三愛塾(札幌)が開始された。

 北見三愛塾は1966年2月、北見クリスチャンセンターで第一回が開催された。R. L. ラーマズ宣教師、田村喜代治牧師、植西光雄主事が尽力し、田中誠治氏、水口馨・一枝夫妻らが運営委員となって毎年続けられた。しかしスタッフの移動、センターの閉鎖等により、10年間、冬10回、夏5回の塾を開いた後休止となった。

 農村女子三愛塾は1965年、札幌の北海道クリスチャンセンターで開催された。三愛友の会と北海教区農村教化研究所の共催で続けられ、農村の家庭のあり方、女性の主体的生き方を考える場となった。しかし教区の機構改革等により、10回の開催をもって1971年で終わることとなった。

 日高の新冠町では1966年、日高青年塾が開始された。これは町の勤労青少年育成会長浅川義一氏と樋浦との出会いから始まったもので、浅川氏の寄附によって青年の家が建てられた際、樋浦に農民教育を託して始められた。町の助成事業のため「青年塾」となったが、キリスト者の奥田原嘉・眞子夫妻らが運営委員となり、今日まで続けられている。

 1970年代以降、新たに上富良野三愛塾、根釧三愛塾(中標津)が誕生した。上富良野三愛塾は、道北三愛塾に出席していた高松克年・恵子夫妻らが自分の地域でも塾を開こうと仲間達に呼びかけ、1975年2月第一回を開いた。「ここ(名寄)に来て勉強するだけではだめだ。地元に帰うて何をするかにかかっている」と言われてきたことを実践したのである。以来、工藤次郎・和子夫妻らよき同志を得て24年間休まずに続けられている。

 根釧三愛塾も、道北三愛塾に参加して樋浦に出会った鈴木勇氏が、自分の地域でも勉強の場が必要だとの願いを抱き、柵木真富夫氏らと協力して1980年1月開催した。以後今日まで、文字通り農民の手遣りの三愛塾として続けられている。

 道外では、岩手県山形村で岩手玉愛山村塾が1970年、角谷晋次氏が中心となって開催された。以後、夏期は山形村で、冬期は盛岡の善隣館で続けられ、角谷氏の留学により中断されたが、1981年8月再開され、年1回の山村塾が続けられている(27)。

 これらすべての塾の塾長(または名誉塾長)として、樋浦は時間の許す限り各地を巡り歩いた。飛行機に乗らず、鉄路を乗り継いでの年2回の長期間の旅は、高命者にとって容易なことではないが、彼にはそれを乗り越える熱情があり、体力があった。そして多少にかかわらず、集う一人ひとりに語りかけ、農民の魂を揺さぶり続けた。樋浦の三愛塾巡回の旅は、1964年から視力が失われた1985年、87歳まで22年間続けられた。

 私は1970年から9年間、道北クリスチャンセンター主事として道北三愛塾の運営に直接関わった。この時期の三愛塾の様子を簡単に記してみたい。

 この時代は農業基本法が制定されて十年を経て、農村は大きく変貌していた。農村人口は急激に減少し、各農家は国際競争力を高めることを強いられ、ゴールなき規模拡大とそのための莫大な負債に苦しめられていた。その中で塾のプログラムは、農業の展望をどう切り開くかを模索し、技術面の学習よりも農政や農協のあり方など社会的テーマが重視された。

 樋浦塾長の話もこの傾向がはっきりと見られた。また憲法・政治学者太田一男氏(酪農学園大教授)が常任講師として運動の推進者となった。太田氏は三愛塾について次のように述べている。「キリスト教の信仰を強いるのでもなく、社会変革運動への参画を求めるのでもなく、農業改善運動を組織的にやろうというのでもなく、自立した農民として主体的に生きることを共に追求するという三愛塾の在り方は、農民教育の中で経験することのなかったものである。……その中から、様々な農業問題が生じてきた時に、問題提起をし、組織運動を担い、地域で農業を営みながら、農民の声を組織していった人びとが具体的に育ってきている。」(28)

 私は事務局としてプログラムの責任を担い、毎回必ず準備会を開き、集まった農民たちの現状報告の中から何を学ぶかを話し合った。学習の主体は農民であった。講師や体験発表者には直接合って依頼することを基本とし、そのため全道各地を巡り歩いた。

 名寄には全道各地からの参加者があったが、特に酪農学園短大IIコース(冬期間、三年間のコース。ほとんど農業後継者)の学生が多数参加し、60名を越える出席者になることもあった(29)。

 この時期の三愛塾は熱気に溢れていた。参加者の一人下川孝志氏は、後にこう感想を述べている。「三愛塾に行ってみてびっくりしました。同じ農業という土壌で育ち、そして学ぼうとしている集団があった。大学に行けないけれど勉強したいんだ、と真剣な目で学ぼうとしていました。教室では見られない意欲的な授業が行われていました。2時間、3時間と聞く私たちにとっては1年分、10年分の思いがしました。そこで私は初めて、学ぶということの大切さを本当に知りました。」(30)

 道北三愛塾のプログラムの特色の一つは「聖書と人生」である。当時は毎朝、朝食前、体操の後30-40公行われた。聖書講義ではなく、ハウレット宣教師が短かい導入をした後小グループで一人ひとり自由に感想を語るというやり方をしていた。聖書に初めて出会う人たちが多かったが、抵抗なく聖書の世界に目を開かせる方法であったと思う。これは三愛塾の根本精神を塾生たちが感じ取ることができる貴重な時間であった。

 当時名寄女子短大の中嶋倍氏は、1979年1月7-10日朗かれた第19同道北三愛塾に参加し、「30年目を迎えた三愛塾」と題する報告を雑誌「北方農業」に寄稿した(31)。その時のプログラムは以下の通りである。

 

テーマ「混迷の時代をいかに生き抜くか」
われら農民一わたしの主張@一 静内町 下川孝志
われら農民一わたしの主張A一 名寄市 嶋田東美夫
われら農民一わたしの主張B一 旭川市 黒川博義
北海道農業の展望をどこに求めるか 北大助教授 大田原高昭
地域農業の振興と自治体の役割 名寄市議 中村光夫
自立農業の道を求めて 酪農大助教授 太田一男
農業婦人の生活と夢 名寄市 佐藤慶子
三愛塾30年の歩みをふりかえって 塾長 樋浦誠
聖書と人生 道北センター館長 F. G . ハウレット

 中嶋氏はこの論文の中で、三愛塾30年の歩みを紹介し、「運動の性格は、大学の開放から農民の自主的学習へと変化し、大学の先生に教えられるという側面が後退し、農民が自らを鍛え合うといった側面がより強まってきている」と述べ、「三愛塾の内容が、よくありがちな技術偏重でなく、農業技術・生活科学から社会観・人生論までの総合的な構成であることが教育上の大きな効果をもたらしている」と指摘する。そして30年にわたる学習運動を支えてきた要因として、農民の学習運動という提起が農民の要求に根ざしていること、運営が自主的・民主的であること、さらに樋浦をはじめとするスタッフの存在をあげている。また、「新しい農村社会を築く」という目的のための具体的プログラムを明らかにしていく必要があるとし、「自らが目ざす農業、農民の姿を示し、それに向けて運動を提起することで、塾の活力は一層高まり、運動の輪は拡大するだろう」と今後の課題を指摘している。

 この三愛塾で樋浦は「三愛塾30年の歩みをふりかえって」と題する講演をした。ここには晩年(81歳)の樋浦の理念が明確に語られている。その要点は以下の通りである(32)。

  「神と富に兼ね仕えることはできない」という聖書の言葉が私に刺し込んで来る。イエスは決して富の問題を疎かにはしなかった。今飢えている者には食べ物を与えた人だった。問題は富の分配がどうなっているかである。

 古くからの友人である社会学者鈴木栄太郎先生は、ある土建会社の社長が社員の千倍もの給料を取っていることを調査し、日本の社会は出口のない檻の中に狼と羊が一緒にいるようなものであり、弱者は食い物にされるだけだ、制度を変えなければ革命が起こる、と指摘している。三愛塾を始めた頃、日本は農工一体をスローガンとしたが、30年の間に工業一辺倒で独占資本化されてしまった。こういうことを特に道北三愛塾では学んできた。

 ……戦後の新憲法の精神は主権在民であり、私たちが国の主人公であり、公務員を雇っているのだと叫ばれてきたが、今はどうか。今日の学校ではこの教育がなされていない。三愛塾は、主権在民の精神がしっかりと板につくようになるために自分たち自身でする教育である。政府が悪いと言うだけでなく、自分自身のこととして責任をもって関わっていく。言わば日本の歴史をつくる役割を担っているのである。

 ……三愛塾は「無知からの解放」を掲げてきた。この歩みの中で、農村青年たちだけが無知だったのではない、大学教授も、私自身も無知から解放されなければならないことを学んで来た。宗教、科学、芸術、文学など人間に関わるすべての面で、集まる者皆が互いに啓発し合って無知から解放されていく。そうした人間教育という課題を負い続けていくのである。

 ……聖書は「敵を愛し迫害する者のために祈れ」と教える。人間の次元ではわからないことだ。しかし特別な力が加われば不可能が可能になっていく。そして「天の父は、悪い者の上にも善い者の上にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」という無差別な愛、人殺しをも愛する神の愛である。親になってみると、この愛がわかる。できない子、つまずいている子どもを特別に愛する愛がわかる。この神の愛が私をとらえる。三愛塾は終始一貫、神の愛とは何かを探究し、神の愛に導かれていく。どんな時代が来てもこれは変わらない。

 ……人間の愛には、神信仰に生きる者が到底及ばない深い姿があるという生きた事実に出会う。人間の愛が昇華され極致に達すると、人間が「神のかたち」として神に似せてつくられていることを伺わせるものがあるのではないか。人間中心に生きる人道主義者も神信仰に生きる者も、根底において神に似せてつくられている。だから、神を信じる者、信じない者の違いはあっても、三愛塾は本質的に、誰とでも心を開き、手をとりあって歩んでいく。過去もそうであったように、これからもそうである。 

 この樋浦の理念を受け継いで、道北三愛塾はその後実行委員会が組織され、R. ウィットマー・圭子夫妻を中心に、井澤敏郎氏、大竹陽子氏、尾潟鉱一氏、宗方利行・広美夫妻、内藤芳伯氏、安部一徳氏らが運営を担い、農民の自主的学習運動が展開されて今日に至っている。 

 5、今後への課題と展望一三愛塾運動と農村伝道一

 1991年1月、樋浦は93年の生涯を閉じた。農村に生まれ、生涯農民を愛し、農村社会をつくっていく農民一人ひとりの人間教育の使命に心血を注いだ。

 樋浦亡き後も三愛塾運動は続いている。道北、瀬棚、上富良野、根釧そして日高青年塾は、一つとして休止されていない。これは、この運動が樋浦ひとりのものではないことを意味している。農民が自らの力で農村社会をつくり、一人ひとりが日本の社会の主体とならなければならない。そのためには人間教育こそ最も大事だとの理念は、デンマークのグルントヴィと共通し、時代を超えて意味を持ち続けている。世が必要とする限り運動は続けられるであろう。

 三愛塾は新しい段階を迎えており、現在はそれぞれ地域的な限定があり、集う者も多くはない状況である。しかし新しい出会いやつながりが生まれてきている。以下残された紙数の中で、今後の課題と展望を考えてみたい。

 一つには新たな連帯をつくり出すことが今日の課題だと思う。樋浦が終始言い続けたように、いつの時代も農民の連帯が大事である。今日ますます農業を担う者が減少していく中で、この課題は急務である。

 1976年に開かれて以来休止されている三愛塾交流集会(33)の再開が必要であろう。これまで三愛塾と関係を持たなかったキリスト者農民も多く存在し、1996年には北海道農民キリスト者の集いが開かれた(34)。ここには新しく農業の担い手となった新規就農者も参加し、交流の輪を広げて行く可能性が拡がった。また消費者との連携も必要とされている。安全な食べ物を求め、日本の農業を大切に考えている幅広い人たちの連帯をつくっていくことに三愛塾は貢献できると思う。

 更に国際的な連帯も視野に入れるべきであろう。1996年11月、酪農学園で神塚アーサー牧師(ニューヨーク在住)は「21世紀に向けて三愛精神の意義と役割を問う」と題して講演し、グローバルな思考とローカルな行動の必要性を唱えた。国際的にますます食糧が不足していく時代の中で、日本人に課せられている課題は重い。

 第二に、どのような農業を目ざすべきかという問題がある。飯沼二郎氏は、従来の農村伝道論に欠落していたことの一つは日本農業の技術的性格への理解だとし、複合経営に立ち戻ることが日本農業回復の道だと言う(35)。しかし北海道という地域では、酪農家に複合経営を要求するのは無理があると思う。経営形態が多様であるという現状から出発し、農民各自が出会いと自由な論議の中で主体的に決断し、変えられていくことが願わしい。

 但し、今後の農業のあり方を考える際、大事な視点が二つあると思う。一つは環境の問題である。環境破壊が進む中で、農業はどちらの方向に向かうことも可能である。「土を愛する」とは、神から託された大地を守り、次の世代に継承していくという意味をもつ。環境を豊かにしていく農業のあり方が求められている。もう一つは地域に密着した農業である。できる限り、近くで収穫した作物を近くの人たちが食べるという方向性を求めていくことが大事だと思う。

 最後に、農村伝道との関わりについて一言述べたいと思う。

 三愛塾は教会の活動として生まれたのではない。またキリスト者だけの働きでもなく、キリスト者を生み出すことを目的としたものでもない。信じる者も信じない者も共に、農業と農村の課題を担っていく運動である。その点で、今日も続けられている農民福音学校とは性格が異なっていると思う。

 しかし教会と無関係の働きではない。樋浦をはじめとして、この運動の担い手のほとんどは教会員である。その意味では教会の業だと言ってよい。教会が地域の農業を担っている人たちと課題を共有し、一つの運動を共に担ってきた、,しかも三愛精神と言う聖書を基盤とした理念を中心に掲げ、これに共鳴する人たちが集まったのである。そして教会員でない人たちが、各地の三愛塾を主体的に担っている。この事実は重要である。

 この運動は農村伝道の業である。三愛塾を通して、また樋浦との出会いによって信仰に導かれたものは少なくない。戦後北海道の農村伝道は、この運動を抜きに考えることはできない。北海教区では宣教方針の中に「各地の三愛塾を支援し協力する」という一項目を入れているのである。教会の側から言えば、伝道(宣教)とは神の業への参与であり、「神の国」を目指す業である。

 樋浦の最愛の聖句は「求めよ、さらば与えられん」(マタイ7、7)であった。彼が最終的に求めていたものは「神の国」であった、と私は思う。賀川豊彦について、小川主治氏は、「挫折につぐ挫折を乗り越えて賀川を生かし、働かせたものは、かれの信仰の中に生きつづけたユートピアニズムの理念である。」というバイタルの言葉を紹介している(36)。このことは樋浦にも当てはまると思う。理想(神の国)を追い求め、そのための使命を受け、これを担って邁進したのがキリスト者樋浦誠の生涯であった。

 1992年1月、酪農学園で召天一周年記念会が開かれ、礼拝説教の中で私は次のように語った。「モーセは約束の地に入ることなく生涯を閉じたが、神の業を担う者はこれで十分である。神の業である限り、必ず後継者が立てられ、その業は完成される。樋浦先生は誰かに『後を頼む』とは言わなかったが、志を継承するものが各地に散らされている。誰も同じことはできないが、自分に出来る行動をしていくことが残された者の使命だと思う。」

 この意味で言えば、三愛塾運動は、人間的(歴史的)評価を超えて、神が必要とされる限り、次の世代へと継承され続けられていくであろう。


1、福島恒雄『北海道三愛塾運動史一樋浦誠先生の歩んだ道一』同刊行合、1987年。
「求めよさらばあたえられん一樋浦誠先生遺稿・追憶集」同刊行合、1992年。
2、出納陽一『デンマーク復興の父グルントヴィ伝』(日本基督教団出版部、1953年)の序文。
3、土橋慶吉「三愛の種」(『求めよさらば与えられん」所収)、258頁。
4、出納陽一、前掲書、164頁。
5、飯沼二郎「日本農村伝道史研究」日本基督教団出版局、1988年、31-62頁。
6、清水 満「生のための学校一デンマークで生まれたフリースクール「フォルケホイスコーレ」の世界一』新評論、1996年改訂新版。
7、清水 満、前掲書、12頁。
8、御園喜博「デンマークー変貌する「乳と蜜の流れるさと」一』東京大
学出版会、1970年、84頁。
9、清水 満、前掲書、71頁。
10、清水 満、前掲書、189頁。
11、戒能信生「知られざる教団史の断面一満州開拓基督数村一」(『福
音と世界」1981年12月)、39-46頁。
12、清水 満、前掲書、189頁。
13、河村正人「言葉の重み」(『求めよさらば与えられん』所収)、174
頁。清水 満、前掲書、277-285頁。
14、「酪農学園史」、1980年、53頁。
15、佐藤貢「情熱の志士樋浦誠先生を偲んで」(『求めよさらば与えられん」の序文)。
16、酪農学園機農高校、短大、大学出身で牧師になった者は今日まで31名を数え、農村伝道神学校に進んだ者が8名いる。
17、福島恒雄、前掲書、7-15頁。
18、樋浦誠「三愛塾の役割」(『三愛』1958年8月)。
19、樋浦誠「人間意識」(『三愛』1958年12月)。
20、樋浦誠「協同主義」(『三愛』1958年5月)。
21、樋浦誠「独立農民」(『三愛』1959年3月)。
22、樋浦誠「10年を省みて」(『三愛』1959年12月)。
23、往々木悟史「三受精神の源流を探ねて」(『三愛』1960年3月)。
24、福島恒雄、前掲書、334頁。
25、残念なことだが、この出来事の要因の一端が樋浦自身の側にもあり、彼の行為がつまずきをもたらしたことは否めないのである。
26、福島恒雄、前掲書、104-184頁。
27、角谷晋次『みちのくの三愛運動』キリスト新聞社、1993年、200-
232頁。
28、太田一男『三愛塾の意義と役割』(福島恒雄、前掲書所収)200-213頁。
29、このコースは1964年設置され、1986年廃止された。現在各地の三愛塾を担っている中心メンバーの多くがこのコースの出身者である。
30、『第一回北海道農民キリスト者の集い報告書』(1996年)33-34頁。
31、中嶋信「30年目を迎えた三愛塾」(北海道農業会議『北方農業」1979年3月)9-12頁。
32、未発表の講演テープ。私が関わった最後の塾であり、このテープだけを所有している。私には樋浦の遺言のように思われる。
33、『北海道三愛塾交流集会の記録』(1976年)が発行された。
34、注30参照。
35、飯沼二郎、前掲書、177-191頁。
36、小川主治「土の薄い石地に立つ教会一賀川豊彦をめぐって一」(『福音と世界』1984年2月)、40-46頁。

 初出『福音と社会』(農村伝道神学校 紀要)第23号 1998年

 写真は『未来を拓く三愛精神 三愛塾運動50周年記念集会報告』三愛塾運動50周年記念集会報告実行委員会発行(2001年8月)より

<その2へ戻る>[<その1へ戻る>