渡辺 兵衛
(北海道野幌教会牧師)
酪農学園大学
酪農学園大学(北海道江別市
1、はじめに

 三愛塾とは、1950年、北海道野幌の地に酪農学園短期大学が設立された年、大学に来られない農村青年のために、大学を開放して開かれた農民教育運動の名称である。その提唱者は、同短大の初代学長樋浦誠(1898-1991)であった。彼はこの運動に生涯、身を献げた。

 この塾には、北海道各地から、また道外からも多数の参加者が集い、戦後の農村復興の担い手たちにとって、大きな精神的支柱となり、この教育運動は、野幌から北海道各地に拡がって行った。

 その後、樋浦が学長を辞任した1964年以降は、大学を離れ、各地で志を継承する者たちが三愛塾を継続し、1991年の樋浦の死以後今日も、道内数ヵ所で開催されている。この運動と樋浦の歩みについては福島恒雄氏が『北海道三愛塾運動史一樋浦誠先生の歩んだ道一』の中で詳細に記しており、また、遺稿・追憶集「求めよさらば与えられん」が刊行されている(1)。

「神を愛し、隣人を愛し、土を愛する」三愛精神は、戦前から、デンマークの国民高等学校(デンマーク語で「フォルケホイスコーレ」)とその提唱者N. F. S.グルントヴィの精神として伝えられてきた。

 日本で農民福音学校運動を推進した賀川豊彦は次のように述べている。「愛土、愛隣、愛神、の三愛主義は、グルントヴィから始まり、今では日本各地の農民福音学校の精神となっている。」(2)しかしグルントヴィ全集に三愛の言葉はなく、彼の理念を継承し実践したクリステン・コルに由来する言葉だと伝えられている(3)。コルは、「この学校で何を教えるのか」と質問された時、「全力をもって、神を愛し、隣人を愛し、祖国を愛することを教えたい」と答えた(4)。これがデンマーク国民高等学校の精神として日本に紹介され、その際、「祖国」が「土」に言い換えられたものと思われる。

 賀川豊彦、杉山元治郎らは、デンマークめ農民教育を模範とすることを調い、農民福音学校を推進した。この運動は、「日本における農村伝道の新しい出発点」として飯沼二郎氏により詳細に論じられている(5)。戦後、北海道で始まった三愛塾運動は、その発生も、その後の展開も独自なものであるが、樋浦の理念と実践は、根底において、デンマークのグルントヴィと通ずるものがあると考えられる。私は、1970年から9年間、直接三愛塾運動に関わり、ここで決定的な出会いを経験した。この三愛塾の意味を問うことは容易ではないが、自分の務めだと受けとめ、理解の及ぶ範囲で記してみたい。

2、デンマークのフォルケホイスコーレとグルントヴィ

 三愛塾の歩みに入る前に、その精神的ルーツと言ってよいデンマークのフォルケホイスコーレの特色について記しておきたい。この学校については、戦前から「国民高等学校」と翻訳され、特に農民教育の分野でのすぐれた実績が知られていたが、最近、清水満氏の著書『生のための学校』が出版され、その全体像が明らかにされた(6)。清水氏はこの学校を次のように紹介している。「フォルケホイスコーレとは、デンマークに150年ほど前からはじまった自由な学校です。その言葉は『民衆(国民)の大学』を意味します。現在100校を数え、また世界に拡がっています。17歳半以上であれば、誰でも学ぶことができ、特色は、試験を拒否し、資格も与えず、全寮制で教師と学生が共同生活をして学び、カリキュラムは自由で、国家の干渉を受けない私立の学校であるということです。近代デンマーク精神の父N、F、S、グルントヴィ(1783-1872)によって構想され、今日のデンマークを築く原動力となりました。」(7)

 グルントヴィは、デンマークが絶対王制から立憲君主制に転換し、ブルジョアジーが台頭した時代、国民の大多数を占める農民たちの声が正しく政治に反映されない限り民主主義は形骸化するとし、そのために民衆の教育こそ最大の課題だと考えた。民衆が高いレベルの教育を受け、官僚や知識人と対等にものを言い、あらゆる権威に立ち向かう自主独立の精神を身につけるために新しい学校の創設を提唱した。これがフォルケホイスコーレである。

 彼は、この学校での教育内容とその方法にまで構想を広げ、ひと握りのエリートを養成するような試験制度を廃し、学生、教師が互いに生の経験を生きた言葉で語り合い、相互に啓発し合いながら学ぶという教育方法を提案した。グルントヴィのこの理念は、多くの人々によって支持され、実践者が次々に現われ、1844年、ロディンという町に最初のフォルケホイスコーレが設立されたのを皮切りに、デンマーク各地に拡がっていった。この教育運動の中で、農民のための学校が各地につくられ、農村青年の三分の一がここで教育を受け、「デンマーク農民の自主的・民主的な農業協同組合結成の精神的風土」(8)がここで培われていった。グルントヴィの提唱したフォルケホイスコーレは、その後継者クリステン・コルによって子どもの教育にまで拡大され、以後150年間、デンマークの中に深く根を下ろして今日に至っている(9)。

 この学校が「国民高等学校」として日本に紹介され、これをモデルにして、さまざまな形で農民教育の実践がなされた。「日本のデンマーク」と呼ばれた愛知県安城の農村振興の立役者となった山崎延吉、茨城県に「日本国民高等学校」を設立した加藤完治らの名があげられる。しかしこれら戦前の農民教育のほとんどは、戦時体制の中で皇国教育の道を進み、加藤は「満蒙開拓青少年義勇軍」を組織する中心人物となった(10)。

 その中で賀川豊彦らの農民福音学校も、戦時下において例外的な存在とはなり得なかった。賀川自身が「満州開拓基督数村」建設を計画し、当時の日本基督教連盟総会で決議し、連盟農村伝道部委員会が開拓者を募集して200余名のキリスト者を満州に送り出したのである(11)。個々人は純粋な信仰的動機で入植したにせよ、日本の満州侵略政策の一環として実施されたことは紛れもない事実であり、結果的に国策協力の事業であった。いかなる弁明があるにせよ、こうした侵略主義は「外に失いしものを内に取りかえさん」とするデンマークの近代精神と正反対のものであり、グルントヴィの精神にさからうものだ、と清水満氏が指摘する通りだと思う(12)。最近日本に数ヵ所のフォルケホイスコーレが設立されている。河村正人氏は酪農学園大学在学中、樋浦と出会い、農村に入る決意をし、デンマークのフォルケホイスコーレに留学した。卒業後瀬棚町に入植、酪農をしながら20年間準備し、1990年、瀬棚フォルケホイスコーレを開校した(13)

<その2へ続く>