神を愛し、人を愛し、土を愛す 4
|
興農学園
(沼津市明治史料館『興農学園-みかん村とデンマーク教育』より)
さて、ここで時代を戻します。
興農学園の初代校長となった平林広人は、内村の依頼を受け、昭和5年(1930年)1月12日に内村の集会で講演をします。内村の日記には、次のように記されています。
昭和5年(1930年)1月12日
本年第一の研究会である。何しろ壇上に現はる々事が出来た。伊豆久連興農学園々長平林広人が来て丁抹国農聖人グルントビーの信仰に就いて話して呉れた。強く一同を感動せしめた。「活ける言葉とは人の全身全性格を通うして働く所の言葉である」と云ふのであった。まことに其通りである。我等研究会々員は今日まで余りに多く言葉を言葉として受けこれを我等の衷に働かしめなかった。平林君はグルントビーが丁抹を救うた途に依り日本を救はねばならぬと云うた。即ち農業を基督教的信仰化して救はねばならぬと云うた。自分も同意見である。新年早々基督教の実行的方面が高調されて感謝である。今後更に平林君の指導に依るであらう。
前年の12月に、弟子の塚本虎二が内村集会から一部の会員を引き連れて独立しましたので、内村にとっては重苦しい気持ちで迎えた新年であった筈です。そして、「何しろ壇上に現はる々事が出来た。」という箇所から分かる通り体調も崩し、間もなく3月28日に内村は亡くなります。
内村の晩年の弟子であった鈴木弼美(1899〜1990)は、1924年から内村の集会に出席するようになり、塚本虎二のギリシア語クラスの会員ともなって、聖書の研究を一生の仕事とすることを志しておりました。塚本に可愛がられていた鈴木弼美は、内村集会から自分の所に移るようにとの塚本の誘いを辞退して内村集会に残りますので、多分、平林広人の講演を聞いたのではないかと思います。直接聞かないまでも、内村がデンマーク流の農学校建設に関わっているということは充分承知していた筈です。
鈴木は、やがて内村の死後、山形県小国村に移住して「基督教独立学校」を創設します。移住の準備を始めたのが昭和7年(1932年)、学校を創設したのが昭和9年(1934年)のことでした。これは、現在の基督教独立学園高等学校の前身となります。
鈴木弼美が基督教独立学校を創設した時期、静岡県沼津では興農学園が財団法人の認可を受けて久連国民高等学校となり、着々と学園の体制を整えておりました。この両者は、時代的に共存しており、鈴木弼美の基督教独立学校は久連国民高等学校のスタイルを継承し、その影響を受けていたことが推察されます。
しかし、鈴木弼美自身は、基督教独立学園の根底にあるのがデンマークの国民高等学校であり、グルントヴィの影響を受けているとは書き残しておりません。学園創設の動機について、彼は次のように述べています。
(内村)先生は教育をやろうと随分考えておられた。米国から帰って方々の学校で教師をなさった。しかし長く居られない。どうしてもほんとうの教育をしようとすると学校当局と衝突しなければならなくなった。それで結局著述で伝道なさるようになった訳ですから、一つ私は内村先生がやりたくてもおやりになれなかった教育を通して伝道しようと考えたのです。それから信仰の母体が教会ですと、教会に信仰がなくなった場合に困るんですね。中世のヨーロッパの教会はそのため非常な害をしました。信仰のなくなった教会はほんとに困ることになりますから学校を信仰の母体にするということは非常に意味があると思いました。
(「真理と信仰」鈴木弼美著 キリスト教図書出版 P532)
このように学校を信仰の母体とするという発想は、グルントヴィの後継者であったクリステン・コルの発想と通じるところがあります。
鈴木自身は、グルントヴィ−国民高等学校の影響をはっきりとは認めておりませんが、鈴木の支援者であり、基督教独立学園でも講師を務めた山形大学の前野正は、独立学園の根底にあるのはデンマークの国民高等学校であると明言して、次のように書いております。
(学究生活を捨て、小国に移住するという)この確信を得た時、彼(鈴木)の胸に浮かんだのは鑑三に学んだデンマークの国民高等学校のことであった。敗戦のため疲弊のどん底に沈んだデンマークを救ったものはグルンドウイ創設のこの国民高等学校だという。一人の教師を中心にして少数の学生が寝食を共にし、その間に人格的感化をうけながら学問を身につける。鑑三はこの教育をどれほどか実践に移したく願ったであろう。しかし不屈の節を持する彼を容るる学校はこの国になかった。ミッション・スクールとは名のみで、モダニズムとセンチメンタリズムを除けば、校舎だけ残る現代の基督教主義学校でどうしてこの教育が行われよう。一企業として成立する大量生産の学校は、本質的にグルンドウイの教育理念とは相反する。そうだ。鑑三の苦杯を重ねたくなくば、どんなに貧弱であろうとも独力で学園を建て自らその主になるにしかず。見果てぬ恩師の夢をこの弟子が充たしてみよう。 (「神に依り頼む」所収「内村鑑三と鈴木弼美」 P214)
しかも見込み違いはただに企業だけではない。彼(鈴木)の教育理念も厳しい現実を前にしてはたじろがざるを得なかった。もともと学園は基督教精神を経としデンマークの国民高等学校の教育理念を緯として成立した。少数の子弟と教師とが同じ屋根の下で起き臥ししてその間に教師の人格が自ずから生徒に浸透するのである。またこの学校を特殊技能授ける専門学校とせず、一般教養に重点を置く全日制としたのも優秀な農民である前にまず教養のある人間であることを要求するからである。この教養が「考える人間」を作り、この考える人間が農村を因習と貧困から解放すべき使命を持つと信じた。「考えるに不適当な都会に考える能力のある知識人が集まり、考えるにふさわしい田舎には考えない人々が残る。考えるにふさわしい田舎に於いてこそ考える教育がなされなければならない。」とは彼の口癖である。(「神に依り頼む」所収「内村鑑三と鈴木弼美」 P220)
前野正の文章は、基督教独立学園と国民高等学校の関係を明示しています。前野正ばかりではなく、石原兵永も、基督教独立学園高等学校の創立式(1948年5月26日)で、
「われわれはペスタロッチによってなされた愛の教育について、またデンマークの再建に根本的な役割を果たした国民高等学校の創立精神について、また信仰の自由のためにあらゆる迫害に耐えてついに新英州プリマス植民地を創設して、アメリカ建国の礎となったピルグリム祖先たちの歴史について学んだ。」(「神に依り頼む」P50)
と祝辞を述べ、地元の叶水小・中学校長旭鶴太郎も
「此の山間しかも僻地に忽然として一つの高等学校が生まれた。敗戦日本への尊い教訓としてしばしば人の説くデンマルクを思わせる。かの荒涼たる三千方哩ユトランドの荒野を緑と化し剣で失ったものを鍬でとりかえし、林業及び牧畜の一大富源をつくったダルガスと其の子、また国民高等学校を創始せしめた偉大なる指導者グルンドウイ、輝かしき未来の希望を田園に求めた数名の学士達、私は其の人達が今こぞってこの高等学校に集められているような気がしてならない。」(「神に依り頼む」P53)
と述べております。独立学園の根底には、グルントヴィが唱えたデンマークの教育の理念が確かに息づいています。
久連国民高等学校と基督教独立学園高等学校の大きな違いは、久連国民高等学校が農業学校として農業の専門教育を中心にしたのに対し、基督教独立学園高等学校は、農業に理解を示しつつも生徒の一般教養を高めることを主眼とした点にあります。グルントヴィ自身は、国民高等学校(フォルケホイスコーレ)に職業訓練を導入することを認めず、これとは別に、農業学校や家政学校が国民高等学校を卒業した後に学ぶ場として設立されました。厳密に言うならば、デンマークの国民高等学校の伝統に忠実なのは基督教独立学園の方であり、久連国民高等学校は、むしろ、デンマークの農業学校を手本としたものと言えそうです。基督教独立学園の経験は、やがて、島根県にキリスト教愛真高等学校と言う姉妹校を生み出し、久連国民高等学校の経験は、松前重義の東海大学の他、小山源吾による三愛教育振興会(三愛講座)に実を結びます。