府中界隈の散策

分倍河原、高安寺、郷土の森、 サントリー武蔵野ビール工場、東京競馬場、大国魂神社、ケヤキ並木

2017年4月21日、 萩和会の第8回歩こう会として府中界隈の散策をした。一度提案され、中止になった案には分倍河原駅から歩き出して国分寺崖線(ハケ)を横 断して都立殿ヶ公園に至る案だったが、都立殿ヶ公園やお鷹の道、真姿の池湧水群は先に歩いていたため、今回の計画はちょうどよかった。

分倍河原(ぶばいがわら)

小田急線から登戸で南武線に乗り換えて分倍河原駅に向かった。南武線は1970年代に田園都市から乗り換えて川崎まで通勤につかっていた記 憶からすれば随分と発展したものだ。登戸の乗り換え客が増えて駅舎は立派になった。多摩川の源流を求めて一 緒に多摩川土手を歩いた加畑氏は是政橋を歩いて渡って南多摩駅から南武線で帰宅したが、特にこの南多摩駅は立派だった。南武線は立派な吊り橋の是政橋と平 行に多摩川を渡る。橋を渡って北上していたレールは急激に西に曲がる。なぜと思ったが、あとで大国魂(おおくにたま)神社の南側を走るの府中崖線(ハケ)にぶつかって左に 曲がらざるを得なかったことが分かる。府中崖線は野川が作った国分寺崖線より一段低い。南武線はここから立川までこの府中崖線に沿ってその崖下を走ってい るのだ。

分倍河原駅の駅舎は古いままで、南武線の上を交差している京王線が邪魔して外で待っている仲間に合流するまで迷路の中をウロウロする羽目になった。馬上で太刀を振りかざす新田義貞騎馬像前が集合場所だったが、ギリギリに間に合ったため見る暇もなかった。

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馬上で太刀を振りかざす新田義貞騎馬像   背後の住宅はハケの中腹に建つ

なぜこんなところに新田の像があるかとい うと北条泰家率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢との間で行われた分倍河原の合戦があたっためらしい。このとき、新田軍が幕府軍に対し決定的な勝利 を収めたことにより、鎌倉幕府は崩壊に向かうのである。地形的にも高所から攻める新田軍に勝機があったことが分かる。京王線はこの府中崖線から流れ出る川が作った谷間を下って 分倍河原駅駅上をクロスしているのだ。


高安寺(こうあんじ)

この寺は南武線を曲げた府中崖線の崖っぷちにある。そして寺の北側に旧甲州街道が東西に走っている。

平安時代に藤原秀郷が武蔵国府近郊に置いた居館を見性寺に改めたのが始まりとされる。平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経もこの見性寺に立ち寄っ て武蔵坊弁慶が大般若経を書き写したと言われている。ここは武蔵国府の南にあり、国衙荒廃後にはここが重要拠点と見なされるようになり、南北朝時代には、 新田義貞が分倍河原の合戦で本陣を構えている。見性寺は一連の戦乱によって寺が炎上するなどして荒廃してしまったが足利尊氏が武蔵国安国寺として位置づけ られたという。しかし、その後もその地政学的条件から上杉氏・後北条氏などによって軍事的に利用される事も多く、度々の戦乱で衰退・荒廃したという。しか しなかなか立派な寺である。



山門

境内には観音堂もある。


下川原緑道

高安寺を出てその東隣を南北に走る下川原緑道を南下する。下川原緑道とは1976年に廃線となった旧国鉄下河原線の跡地を利用して、甲州街 道より南へと、自転車・歩行者専用道として整備したものだ。みちはアンジュレーションのある緩やかな下りで快適に歩ける。下河原線の前身は、1910年多 摩川の砂利運搬を目的に開通した東京砂利鉄道であったという。



下川原緑道



郷土の森

下川原緑道を南下してゆくとやがて丁字路に突き当たる。左に折れるとすぐ「郷土の森」だ。郷土の森にはいるには博物館の切符を買わねばなら ない。この博物館のカフェテリアで昼食をとる。二階の展示をみて、初めて府中は江戸時代は府中宿として栄え、その中心は今でも大国魂神社。平安時代に作られた武蔵国分寺の南の段丘崖上に作られた国衙(こく が)の柱跡が大国魂神社の東隣で発掘によりみつかっている。神社と国衙は重なっていると考えられる。

大国魂神社は武蔵国の一之宮(一宮)から六之宮までを合わせ祀るため、「六所宮」(ろくしょぐう)とも呼ばれる。 府中宿と六所宮の巨大な模型が当時の雰囲気を再現している。

5月5日に関東三大奇祭の一つに数えられている神輿渡御が夜行われる「くらやみ祭り」がある。



府中宿の模型 横に走るのが甲府街道 中央奥が六所宮 そこから手前の北方に伸び るのが現在のケヤキ並木

模型では六所宮の南西の府中崖線の上の見晴の良い地点にかって府中御殿があったという。これは秀吉が奥州平定後の帰路の宿舎として建てられ、家康らは鷹 狩、鮎漁の際に訪れているという。ここからは多摩川の向こうに、多摩の横山、相模の山々を一望し目の前には、切り下ろすような府中崖線を境にして、水田と 茫々たる武蔵野が広がる“風光明媚”な台地の先端であったというが、いまでは府中本町駅前立体駐車場となり、昔の面影はない。

甲府街道を使ったのは高遠藩、飯田藩、諏訪藩の3家で東海道の150家と比べようもないが、それでも幕府直轄領化された甲斐国に常在し、甲府城の守衛や城 米の管理、武具の整備や甲府町方支配を担った甲府勤番や近距離旅行者が府中宿を利用した。ここには飯盛旅籠が8軒あり、栄えたようだ。

地方自治体の博物館はたいてい悲しくなるようなものだが、ここだけは立派だった。学芸員が立派なだけでは不可能。広大な庭園もふくめ膨大な金がかかってい る。なぜかと地図をみてハタとわかった広大な東京競馬場、東芝の巨大な工場やNECの工場、サントリーのビール工場があるのだ。これら企業がどんな赤字を 出そうが廃業しない限り、固定資産税と事業税が落ちてくる。

園内には将軍家向け食品を生産する御瓜田(ごかでん)、古民家、記念的建造物、まいまいず井戸、かって川が流れた形跡、縄 文時代の柄鏡形敷石建物跡が残っている。



まいまいず井戸

郷土の森の南端は多摩川の源流を求めて歩いた土手道のはずだと、園の南端まで歩いてそこは広大な梅園になっていると確認できたし、多摩川の土手も確認し た。



郷土の森の梅園から多摩川の土手を見る


サントリー武蔵野ビール工場

郷土の森でUターンし北上するとすぐサントリー武蔵野ビル工場だ。ここは見学を申し込んである。私は元来キリンビール愛飲者だ、なぜかというと、アサヒ ビールはコクがなくアルコール いり炭酸飲料と しか感ぜられないからであった。サントリーは甲府のワイナリー参観後の扱いが悪かったので気分を害し、サントリーのウィスキーは以後、買ったことがなかっ た。しかしその後、価格は高いがサントリーのプレミアム・モルツが旨いと気が付き、客人のあるときはこれを買っている。丁度、府中工場がこのプレミアム・ モルツ製造をしているというので、興味をもった。

どこに秘訣があるか興味を持ったが装置はほぼ同じ。装置でちがうところは攪拌機付発酵槽を使っているところと、横型保管タンクをつかっているところだが、 構内には縦型タンクもあったから??大きな違いは原料に在りそうだ。アサヒビール工場では原料は国産というだけで、どこから購入しているか教えてくれな かったが、国産であるわけがない。そもそも麦芽を作る工場は各社国内にはないのだ。ホップだってそう。サントリーはチェコおよび周辺国の二条麦を麦芽にし て購入しているという。これにチェコ産の非常に硬いダイヤモンド麦芽を加え、ホップもチェコ産だという。秘訣は現地で検査して、もっともよいものを選ぶ ことにあるよいう。あと水がキーだと自慢していた。井戸は構内だという。くみ上げ深さを聞くと100mより深いとしか教えてくれない。宣伝文句とし て水源の保全に気を使っているとはいうが深ければ保全の影響はなく、浅ければ東京都の汚染水が入り込む。

見学後、自慢のザ・プレミアム・モルツと新製品というマスターズ・ドリームをいただく。


JRA東京競馬場

競馬博物館に向かって巨大な競馬場を大回りして東口に向かうが、4時閉門と聞き断念する。とにかく競馬場は大きい。ここで疲れた仲間が数人脱落。

なぜ府中に競馬場?それは府中には馬市がたったからで、ここは軍馬供給センターだったのだ。中央競馬会(JRA)は日本国政府が資本金の全額を出資する特殊 法人である。とにかく巨大な建造物だ。


大国魂神社(六所宮)

競馬博物館から取って返してハケを登り、旧甲府街道に出る。街道を少し西にむかうと六所宮前に着く。神社は北面している。

この本宮は大きな菊の紋章をつけている。巫女さんに理由を問うと官幣総社だからとのこと。平安時代から武蔵野国の中心地であったわけ。



六所宮

ここでケヤキ並木を忌避して数人脱落。


馬場大門ケヤキ並木


六所宮から真っ直ぐ1本の参道が北に向かっている。この道の両側にはケヤキの並木がある。

この参道は平安時代から国分寺と国衙を結ぶ幹線道路だった由緒ある道なのだ。源頼義・義家父子が奥州平定した前九年の役のとき、六所宮に戦勝祈願し、平定後 ケヤキの苗木千本を奉植したのが始まりで、家康は両側に馬場を寄進したという。家康はここで開かれていた馬市のために寄進したとされる。いまではシャンゼ リゼのような美しい並木道となっている。



ケヤキ並木

京王府中駅

ケヤキ並木を北上して京王府中駅に到着するも、サントリーの試飲の結果、打ち上げの酒は不用ということになり、最後まで5人歩いたが駅でれ解散。京 王線で分倍河原駅に向かい、朝と逆コースで帰宅。

参加者:及川、絹巻 、佐藤、須藤 、武漢 、倉見 、内田、南場、藤間、青木

April 22, 2017


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