多摩川の源流を求めて

奥多摩駅から源頭まで

日時: 2017年5月15日(月) から17日

初日の泊地を丹波山(たばやま)とすると23kmとなり、ちとつらい。 そこで西東京バスで雲取山登山口まで移動し、そこから丹波山まで歩く。第二日は車の安井さんと秦さんも参加して車と徒歩を組み合わせ一 之瀬高原まで歩く。第三日は車は一之瀬の作場平の駐車場に置いたまま、源頭の水干(みずひ)まで登って広瀬湖には抜けず、 同じ道を戻り、車で帰途につくという計画をたてた。

第一日5月15日(月)

本日の計画は秦、安井さん除く本隊3名は奥多摩駅9:22集合。 9:30発の西東京バスで雲取山登山口行きバスの折り返し点の鴨沢西まで移動し、そこから丹波山まで歩くというもの。言ってしまえば奥多摩駅からの小川内 ダムと多摩湖の14.7kmをキセルし、残り8.4kmを歩くというもの。途中レストランはないため、弁当持参。もし、故障者がでたら鴨沢西から丹波山荘 までのあいだにあ るバス停の保之瀬、上保之瀬、小室から丹波に向かうとい う計画であった。本来の趣旨なら奥多摩駅からお祭りまで歩いて、バスで奥多摩まで戻るという計画となるが、それではベストシーズンの5月に源頭には立てな い。そこで退屈な奥多摩湖沿いはバスでパスすることにした。こうすれば3日連続して歩いて源頭の水干にたてる。

私は鎌倉高校前6:05→(江ノ電)→6:22藤沢6:30→(小田急新宿行急行)→7:16登戸7:24→(南武線)→7:53立川8:01→(青梅線 青梅行き)→8:32青梅8:44→(青梅線奥多摩行)→9:22奥多摩であったが、東京組の2人は先に奥多摩駅についていた。バスは奥多摩湖を後に、鴨 沢に向かう。かって雲取山登山の時に歩き始めたところだ。バスの終点は一駅先の鴨沢西である。3名はここから10:00過ぎに歩 き出す。

後で気が付いたが、鴨沢はすでに山梨県である。雲取山が東京都の西端となっているのだ。雲取山登山後、三条の湯から後山林道を歩いてバスに乗ったお祭りも 従って山梨県であったのだ。

さすが丹波川の渓谷は深く、人家も絶えてない。深い谷底を流れる水もほとんど見えない。辺り一面ただ新緑に輝いているのみ。空は深い谷にせばめられて小さ い。大きな葉と大きな花がさくホウノキがあった。ようやく人家が見えるところにきた。調べると保之瀬(ほうのせ)と いう集落である。集落全体が段々畑も含めて電気ショックで武装した金網で囲んである。狭い谷底に密集している。戸数は24軒。集落の南側に集落の規模に見 合わない大きな寺がある。あとで調べると高橋山法興 寺といい平安時代初期の創建だという。11:00となっていたので集落の入口で持参した昼飯をとる。西方の開けたところは多分、丹波山の集落がある所であ ろ う。



保之瀬集落


先を急ぐと甲武キャンプ場がある。やがて開けたところに出る。そこが丹波山の里だ。眼下に大菩薩嶺 登山後 に汗を流した「のめこいの湯」がみえ、その先の小山の頂上に小さな天守閣が見える。丹波山の里は、江戸時代、甲州裏街道(青梅街道)の山の宿場町があった とはいえ、城があるとは知らなかった。「のめこいの湯」がある「道の駅」に立ち寄って夕食までの山梨産の赤ワインとつまみを調達。風呂よりまず、ザックか ら開放されるのが先と今日の宿である「かどや旅館」に急ぐ。

今夜は3名が「かどや旅館」泊だ。(0428-88-0247 1泊2食付き9,000円+消費税+おにぎり600円 朝食は6:00)家族風呂付きで予約してある。「かどや旅館」は宿場町の面影がのこるメーンストリートに面している。

14:00には宿についてしまった。時間がたっぷりある。宿の女将に小山の頂上に立つ小さな天守閣は何かと聞くと、竹下内閣がはずんだ1億円の「ふるさと 創 生交付金」で造ったものだという。「丹波山城」と称している。登る時料金を支払うと、下りはジャンボスベリダイで下れるという。これを聞いていた和田氏が 若きころ社員旅行 で、山形の立石寺でスカートの女子社員をだまして滑り台(今は廃止された)を使わせた昔話を思いだし、ぜひ行こうということになった。宿の車で山の麓まで 送ってもらい、階段を 上って天守閣の2階に登る。 城の形はしているが鬼瓦などは板金加工だ。ここから丹波山集落の全貌が見渡せる。右手に飛龍山(2,069m)に続く天平(てんでいろ)尾 根の急峻な斜面が見える。その向こうの開けたところにはもし雲が無ければ水源の笠取山(1953m)が見えるはず。



丹波山城から丹波山の全貌

ジャンボスベリダイはケッタイなもので、すべり面には無数のローラーが敷き詰めてある。これに厚さ3のゴムパッ ドを置き、その上に膝を抱えて腰を下ろすスタイルで乗る。3人くっついて滑ったほうが良いと言うのだが、先頭が走り出しても最後尾はまだまだ動いていない ので自然離れてしまう。そのうちに先頭のスピードが落ちるとそれに衝突すると言うハメになる。勾配が急になると加速し、後ろにひっくり返るので軍手は必 須。和田氏はもう一度と一人で階段を上って2度楽しんだ。これはもうスカートの思い出を懐かしがるというよりはスピード狂丸出し。

宿から、「のめこい湯」の割引券をもらったが、使わず、宿に帰って、宿の風呂を楽しむ。新築した離れを全て借り切った形で快適に過ごした。床暖房の部屋で 山菜盛りだくさんの食事を満喫。女将は新大久保生れの77才だ。昔「かどや旅館」に嫁いだのだと言う。丹波山の産業は養蚕業だったが、養蚕が立ち行かなく なったとき、農協の勧めで大菩薩嶺の登山客のための民宿を薦められて、旅館業に転業したという。現在は5代目。「かどや旅館」という名は青梅街道と大菩薩 嶺 への登山道が交差する所にあったからだという。幸い息子が帰ってきて板前をしてくれたので旅館業を継続できているという。林業を営んでいる家はないとい う。斜面が急すぎて、林業は無理なのだろうか?



第二日5月16日(火)

5:30起床。6:00朝食。出発前に大菩薩嶺 への登山道を散策。地下水がわき出ているところには洗い場が作られている。7:00女将と板前に見送られて出発。



宿の女将と板前と記念撮影

本日は本隊3名は徒歩で一之瀬高原まで13.6km歩くことになっている。秦さんをエスティマにのせた安井さんがどこかで本隊に追いつくという段 取りだ。安井さんと秦さんはそれぞれ弁当持参のはず。本隊のなかで一之瀬高原までの13.6kmを歩かず3日目の登山に備えたい和田さんと榎本さんが安井 さんの車で一 之瀬高原に向かい、秦さんと青木が全行程歩くという予定であった。

出発すると当初宿泊を計画した丹波山荘が見えた。10名以下の客は取らない方針になったというので「かどや旅館」に変更したのだ。

丹波渓谷はますます狭くなる。丹波となりの奥秋集落を経て林の中を歩くと廃車となった多数の作業車やキノコとか何かいろんなものを売っているらしい売店を 過ぎる。

余慶橋が架け替えられているところで小休止。新余慶橋を渡って少し歩き左90度カーブするところが前飛龍から流れ出る小常木(つねぎ)川 が丹波川に合流して いる小常木谷出合というところだ。谷は深い。階段があり、途中のテラスまで下れるが、それ以上は河床までは垂直の崖でロープがなければ無理そう。ここは沢 登り愛好者に利用されているようだ。そのすぐそばに巨大な岸壁と河床が見えるところがあった。



小常木谷出合付近の岸壁


羽根戸トンネルを抜け、丹波山トンネルに差し掛かると、丹波川が8mの滝となっている。丹波山トンネルを越えると光学フィルムを装填した1眼レフ カメラを持った御仁が車を止めて岩から滴り落ちる水を撮影している。デジカメは発色が悪く、嫌いだそうだ。かって何十万円もした1眼レフがたったの 9,000円になったそうだ。

さらに進むと泉水横手山林道の入り口の三条新橋の袂に「尾崎行雄水源踏査記念碑」なるものがある。明治42年に東京市長尾崎行雄がここを探査して土地の買 収をすすめ、玉川上水に代わる水源を確保したことを顕彰するために設置したとある。現在奥多摩にみられる見事な森はこの尾崎行雄の先見の明にあるという。 森 林が荒廃していた頃は洪水や渇水が頻発していたが、それも見られなくなった。

一之瀬高原から流れ出る一之瀬川は柳沢峠から流れ下る柳沢川がUベンドしている地点で合流する。このUベンド地点はオイラン淵(銚子滝)という崖になって いる。手持ちの2004年版昭文社の地図ではオイラン淵を左手に見ながら一之瀬川橋を渡ることになっているが、土砂崩れが頻発していたため、オイラン淵の ある Uベンドには新しく一之瀬高橋トンネルができて簡単に通過できるようになっていた。そしてオイラン淵前の旧道は現在厳重に閉鎖されて立入禁止となっていて オイラン淵に近づくことができないし、見ることもできない。

時刻も11:00であるし、後から追っかけてくる安井さんに見つかるようにと旧一之瀬川橋から登ってくる廃道との合流点で昼食をとる。予想通り、安井組が やってきた。一緒にここで昼食をとる。

昼食後、青木・秦組は徒歩、安井・和田・榎本組は自動車で一之瀬高原に向かおうとしたが、一之瀬川沿いの道は土砂崩れで通行禁止だという。歩きな ら一之瀬川沿いの道もとおれるのではと安易に考え、車組は犬切峠越えの道を通ることに決めて、車組は出発した。しかし土砂崩れ現場の写真を見ると通るのは はなはだ危険と判断。すぐ携帯で呼び戻そうとしたが、電波が無い。やむを得ず、徒歩組の二人も犬切峠越えの道を歩くことにした。18:00にはつくだろう し、車組が迎えに来てくれるかもしれない。無人の道を行くと釣り堀とコーフィー・ショップが見えた。(SK落合キャンプ場)ここで固定電話を借りて民宿 「みはらし」 に電話して車組に伝言を頼もうとして店に入る。そうすると人家の在る界隈は携帯がつかえるという。その通りで、すぐ仲間と連絡が着いた。

落合橋まで歩き、再び電話し、落合橋の袂で合流することになった。もしこのまま西に進めば青梅街道の最高地点にして日銀券の富士山のモデルとなった写真が 撮影された柳沢峠に向かうことになる。

 犬切峠を過ぎて一之瀬高原を見下ろす大栗展望台で休憩。雲が切れているところは将監峠(しょうげん)と思われ る。笠取山は左フレームの外。今夜の宿の民宿「みはらし」は中央の尾根の向う側の谷にあり左から20%位のとところにあるはず。



大栗展望台からの眺望


作場平の駐車場に入り、明日の出発点を確認。14::00には5名全員が、民宿「みはらし」   (甲州市塩山一之瀬高橋526   0553-34-2109  1泊2食付き6,500円+おにぎり700円)についてしまった。

民宿「みはらし」の脇には、バラポラアンテナ付携帯電話用アンテナがあった。われわれ徒歩組がSK落合キャンプ場からかけた電話が車組に伝わったのは人工 衛星 経由で、かつ、たまたま車がこのアンテナの近くにいたという幸運のためであったと分かる。これはNTTの施設だ。iPadは孫氏が投資していないため不通 のままであ る。



NTTアンテナと民宿「みはらし」


宿の女将が「あれ早いね。16:00ころかと思っていたのでまだ風呂は沸かしてないよ」という。「一之瀬川沿いの道は土砂崩れで通れなかったので 犬切峠経由、車で来たため早く着いた」と説明すると。「あれ!!オイラン淵からの道は土砂屑れで不通のため落合橋まで歩いて、そこから犬切峠越えをしろと 言った ではないか」と活!確かにそう聞いたが、その時は一之瀬川沿いの道がまさか使えなくなるとは考えていなかったため、一之瀬高原から上に沢山ある山道の話だ と勘違いして、認識できなかったのだ。思い込みとは恐ろしい。

さてオイラン淵とはどういうことでそう呼ばれるようになったかというと昔、武田の金山が鶏冠山にあり、そこには黒川千軒と呼ばれる金山(黒川金山)の遺構 が現在も存在している。武田信玄の時が最盛期でこの時の武田軍の軍資金の多くがここから産出したとされている。武田勝頼の死による甲州征伐の折、武田氏の 隠し金山と言われたこの黒川金山も閉山となった。この時、金山の秘密が漏れることを危惧した金山奉行 依田の主導で、鉱山労働者の相手をするため遊廓にい た55人の遊女と金山に従事した配下の武士を皆殺しにすることを決め、酒宴の興にと称して柳沢川の上に藤蔓で吊った宴台の上で彼女らを舞わせ、舞っている 間に蔓を切って宴台もろとも淵に沈めて殺害した(殺された遊女が55人であったので「五十五人淵」とも言う)。実際に事件があったのは、この場所よりも更 に上流の藤尾橋近くのゴリョウ滝の辺りであったとされ、事件を説明する看板と小さな供養碑が建てられている。また下流の丹波山村には、この際の遊女たちの 遺体を引き上 げてお堂を建てて供養したとされる言い伝えが残る。ただ黒川金山の発掘調査では遊廓の存在は確認されていない。

武田の金山が鶏冠山にあるのはなぜか?となるが、察するに、奥多摩、秩父界隈は「関東山地」といって日本列島がユーラシア大陸から千切れたときできた深い 切れ目であるフォッサマグナの谷の中に取り残された古い大地である。これが浅い海の時、石灰岩が堆積し、それが沈んだところに花崗閃緑岩が貫入し、その熱 で生じた熱水循環で金などの鉱床の濃縮が行われ、最後にフィリピンプレートの陥入で再び押し上げられ たものだからであろう。



フォッサマグナと関東山地

風呂が沸くまで、周辺を散策する。かってここに住んでいた田辺や楠の子孫はみな、都会にでて山には帰ってこないため2軒を除き、空家である。今も住んで いるのは民宿の女将ともう一人の84才の老婆だけ。一時、別荘地となったが、皆来なくなったという。かっての畑は高度1400mの寒冷なヨーロッパ的気候 のためか、全て草原になっている。その草原の草の上にはシカの糞が多数。草原の一部はイノシシに掘り返されていて周辺にはワラビが沢山生えている。みなで 喜んでこれを採集する。

イノシシは何を探して土を掘り起こすのかと女将に聞くとワラビの地下茎を掘り起こして食べるためという。ワラビの地下茎にはデンプンが含まれ、カロリーが 高い。このデンプンから作る餅がワラビ餅である。

風呂は薪を焚いて沸かすので、一挙に風呂桶2個分の湯が沸いた。これを適宜水と混ぜて、汗を流す。トイレは完全なポトン式である。二階の床は水平ではな く、柱も傾いている。深山の山小屋よりはマシという程度。

私の同じ町内会の74才の人が5年前に黒い甲斐犬をつれて200名山の和名倉山(白石山2036m)にでかけ、行くへ不明になり、犬だけ帰ってきたと聞い たが、知って いるかと夕食前にに女将に聞くと、知らないわけがない。車はうちの駐車場に置き、将監小屋に一泊し、翌日の弁当を頼んだまま忽然として犬と一緒に姿を消し てしまった。家族が秩父警 察署に捜査依頼をだしたため、秩父警察の捜査隊が民宿「みはらし」  を拠点にしたという。部屋に平成24年の秩父署の感謝状が飾ってあった。毎年家族が登山にくるという。7年経過しないと、この事件は終了とならないとい う。犬を山に連れてくるとかってに危険地帯に入り込むので注意が必要だという。

夕食は山菜中心で満足した。キリンの缶ビールが生きた。


第三日5月17日(水)

一之瀬高原の作場平橋駐車場から源頭の水干までの水平距離は5km、登り高低差573m。

当初は一之瀬高原の馬止めから多摩川源流の東の尾根を登り、水源を横切って西の尾根に向かい、雁峠(がんとうげ)分岐、雁 峠小屋にでて雁峠分岐から亀田林業林道を広瀬湖の「新地平」まで下ることにしていたが、水平距離は9km、高低差700mのため、峠越えはしないで作場平 橋駐車場にもどるルートとした。

車で宿から作場平橋駐車場に移動して駐車、全員でヤブ沢峠→笠取小屋→水干→小さな分水嶺→笠取小屋→一休坂→作場平橋駐車場のコースを採用。下のトラッ ク記録は水干と小さな分水嶺の中間点から駐車場までのトラック記録である。


Viewrangerで自動的に描いた下りトラック

5:30起床、6:00朝食。7:00出発前に84才の老婆が住むお宅の「しゃくなげ」を見に行く。



「しゃくなげ」のお宅


作場平駐車場からヤブ沢峠に向かって歩き出す。霧がかかって幻想的な林だ。霧が樹木にふれて水滴となって降るのでザックにカバーをかけて歩く。



途中の水たまりに体長8cmの黄色いカエルが集まって産卵していた。ヤブ沢峠までははじめは平坦であるが次第に勾配がきつくなる。ようやく峠にたどり着 く。



ヤブ沢峠にて


峠以降笠取小屋まではは東京都水道局の作業車が通る広い林道で歩きやすい。やがて笠取小屋につく。小屋は休日以外はは無人で施錠されている。ここで小休 止。



笠取小屋にて

笠取小屋から上は勾配も緩やかで防火帯沿いにあるくため、草原が広がって気分が良い。道も木材を敷き詰めてあって心地よい。依然濃い霧の中を歩く。シカの 食害防止のプラスチック網をしているものはかろうじて立っているが、そうでもないものは倒木となる運命である。

霧の中ついに水干に達する。水干とは笠取山の山頂直下にあり、地下水が滴り落ちている岩だという。確かに時々地下水が滴り落ちているのを確認。こ こで記念撮影。ここから河口まで138kmの多摩川が始まるのだ。正面には柳沢峠、大菩薩嶺や富士山がみえるはずだが、霧で何も見えない。



水干にて


11:00になったので少し戻ったベンチで昼食とする。昼食後、流れる水を目視しようと水干沢に下るも、全て伏流水となっているのを確認。



干上がった水干沢


帰りは行きのときパスした小さな分水嶺に登る。防火帯になっているため、草原で見晴はよいが生憎遠くは霧で見えない。

ここの三角点の東南に降る雨は多摩川に、北側に降る雨は荒川に、南西に降る雨は富士川に流れるとある。理屈ではわかるが多摩川河口から延々と苦労してここ までたどり着いた身にとっては不思議な感覚である。



小さな分水嶺


小さな分水嶺から笠取小屋に向かって防火帯のなかを三々五々下る。



防火帯


膝を保護するサポーターの持参を忘れたが、ゆっくりと下ったため、膝はなんともなかった。クマよけのカプサイシン・スプレーも携帯したが、使う機会はな かった。

下の写真は2003年の大菩薩嶺登山のおり、丹波山に下る途中でノーメダワより笠取山から飛龍山に至る稜線を撮影したものである。柳沢峠と六本木峠の中間 にある展望台からも同じ稜線を望むことができる。手前左端は武田の金山のあった鶏冠山(1,710m)である。

左端のひらべっ たい山が笠取山、 黒塊山、唐松尾山、将監峠、竜喰山、大常木山、飛龍山

車で丹波山に移動し、「のめこいの湯」で汗を流し、前回立ち寄った「木古里」というコーヒー ショップでコヒーブレーク。ついで御嶽駅前のラーメン屋で餃子・ラーメンの夕食後、東京組は御嶽駅から、鎌倉組はそのままエスティーマで圏央道経由帰宅。 古いナビのため青梅ICに入るのに苦労した。

反省:東京都が水源管理で予算を多量に投入しているから笠取山はクマを除き、安全安心。それでも週日の登山者はゼロ。奥多摩駅からの小川内ダムと多摩湖の 14.7kmを補習することも考えられる。

2泊 参加者: 和田、榎本、青木 3名
1泊参加者: 秦、安井、 2名

源流を求めてへ

March 14, 2016

Rev. May 26, 2017


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