横浜水道道

歴史

横浜水道道(みち)は横須賀水道道の北側 に平行してある。横浜の代表的な商人である、原善三郎、大倉喜八郎ら18名が資金を出して、水道会社をつくり、イギリス工兵中佐パーマー(Henry Spencer Palmer)を雇い入れ、水道工事を任せ1887年に出来上がった。津久井郡三井村で石炭をもして水をくみ上げていた。(現在 相模原市三井大橋の下あたりと推察される)日本でも初めての西洋式水道として完成した。英国より輸入した鉄管を敷設するために、 横浜市西区の野毛山から水道敷設物資を運ぶためにトロッコを敷設し、その軌道跡の配管を埋葬したのである。歴史的にはこちらの方が早いが横須賀水道道より 距離は短い。

城山ダムと揚水発電

横浜水道は川崎とともに1965年相模川に竣工したコンクリート製の城山ダム(津久湖)から取水するようにアップグレードされ、三井村の取水設備は湖底に沈んだ。城 山ダムは直ぐ北側にある1965年に完成したロックフィルダムの本沢ダム(城山湖)と対になって揚水発電ができる。揚水発電所は発電総合制御所の地下 230mにある有効落差153mの立軸フランシス水車発電揚水式である。地上には送電装置だけ見える。また揚水発電所の真南の津久湖の中にはポンピング時 の吸入スクリーン施設の上部構造が水面上にでているのが見える。2つのダムの集水面積に降り、かつ水道水取水後、余る水は谷ヶ原の南の浸食斜面にある津久 井発電所で発電して相模川に落としている。下図で褐色は三井村取水のオリジナル横浜水道。青色は城山ダム完成後の発電系統。赤色は城山ダム完成後の取水系 統。オリジナル横浜水道に係わる向原揚水ポンプ場跡というものも残っているようだ。



揚水発電と水道取水設備

取水設備

津久井発電所の西側には伏流水をくみ上げる 谷ヶ原浄水場第一取水ポンプ場がある。沼本ダムから流れ込む水を集めた津久井湖から地下トンネルで導水した水は津久井発電所の津久井分水池から第2取水ポンプで汲み上げ、谷ヶ原浄水場で沈澱・ろ過・消毒の工程を経て、各配水池等へ送る。川崎市も津久井発電所の水源から取水 するための取水場がある。地下トンネルは工事中の圏央道より深いところを通っているようだ。谷ヶ原浄水場で浄化された原水はその北の一段高い地下配水場に蓄えられたのち、谷ヶ原加圧ポンプ場で昇圧され、谷津川を渡 る姿がグーグルで見て取れる。配管は国道413号の地下にはいる。200m流れて鍛冶谷相模原線(県道48)で右折する。圏央道のために新たに作られた県道 510号とは交差点新小倉橋東側で立体交差する。交差する天井は直径1.5mのパイプが複数収容できる厚さがある。

水道道

下の地図の水道道をルートラボで計測すると城山ダムから野毛山まで全長36.5km標高差143mである。スタートボタンを押し、+ボタンを押せば詳しい ルートが分かるはず。横浜線とほぼ平行している。

以上の全ルートを前半と後半に分けて2日で走破する予定をたてた。第1日はJR橋本駅で下車し、折り畳み自転車ブロンプトンで城山ダムにゆき、そこから小 田急江ノ島線の東林間まで17.3km(または田園都市線の南町田21km、相鉄線の鶴ヶ峰28.4km、相鉄線西横浜35km)走破して第一日の予定は 終わり。第2日は東林間から野毛山までゆき、桜木町からJR利用。


第一日 2013/6/16

JR横浜線、橋本駅下車、ブロンプトンで城山ダムに向かう。途中、谷ヶ原上水場前を通過。



谷ヶ原上水場

城山ダムは城山の脇にある。下の写真の左手の山がそれ。この城山の山頂には久津井城があった。筑井城とも表記される。後北条氏の時には武田軍への 最前線の城として重要視された。南北の根小屋が残っており根小屋式城郭の端緒・典型とされている。ただし、最近の調査・研究の結果、山頂付近にも物見櫓や 兵士駐屯のための建物が配置された形成も発見されており、落城前には、相応の防御能力があった山城であることが伺えるようになってきた。

取水設備はダム脇にある。谷ヶ原浄水場への水をどこで汲み上げているかわからない。浄水場を半周するがよくわからない。結局帰宅してからインターネットで 調べ地下深いトンネルでダム脇の取水口と津久井分水池が連通しているという結論になった。目下圏央道が建設中であるがこのトンネルはその下を通過している はず。



城山ダム 2013/6/16撮影

次に谷ヶ原浄水場からの送水パイプがどこで谷津川を渡っているかわからない。事前にグーグル地図で見つけた水道橋のようなものに向かって谷津川の谷底の道を 下ると古いコンクリート製の水道橋があった。しかし大分古く今は使われていないようだ。帰宅してか ら調べて城山ダム建設前の明治期からある水道が撤去されずに残っているようだと結論した。現在の配管は谷津川の上流を渡っているのをグーグル航空写真でみつけたのでこれはもう使われていないと断定した。



旧水道橋 2013/6/16撮影

この下流にもう一つの旧水道橋が撤去されているのが見える。グーグルの航空写真ではまだ写っていたので最近数年以内に撤去されたものと分かる。この他にも鋼鉄製のパイプが2本ばかり谷津川をわたっているがいずれも古いものが残っているようだ。



撤去された旧水道橋の取り付け部 2013/6/16撮影

谷津川を下ってしまったので坂を登ってもどるのも面倒と小倉橋まで下ると圏央道への連絡道である県道 510号が走る新小倉橋の美しいアーチを見上げることになる。



新小倉橋

付け根から相模川の川岸を下る。ここはなかなか気持ちのよいところで、釣り人が糸をたれている。



相模川の川岸

相模川清流の里というやけに立派な箱もの行政の置き土産があるが利用されている気配はない。ここから崖を登って相模原台地にでる。旧水道はこの台地の縁にそっていたと思えるが、いまは県道48号の下に埋まっているようだ。



手前相模川清流の里 背後は城山 城山の手前に工事中の圏央道が見える

三菱重工相模原事業所付近で県道48号から横浜水道道に入る。これが野辺山まで延々と続く道の始まりだ。



横浜水道道の始まり

国道129号を横断し、更に行くと相鉄線の下をくぐる。配水設備がないため水溜り。



相鉄線をくぐる

やがて鳩川の水道橋にさしかかる。



鳩川を渡る

鳩川と姥川の間ではパイプの交換工事が行われていた。



パイプ交換工事

姥川の水道橋ではパイプは1本になっている。



姥川を渡る

やがて目の前に小高い丘が現れる。そこには県立相模原公園がある。水道道は1/4周迂回する。菖蒲田で有名な水無月園が付帯している。



菖蒲田

菖蒲田を過ぎると遠隔操作の閉止弁があった。



隔操作電動締切弁

ついで相模原麻溝公園にはいる。遊歩道は蛇行しているが埋設鉄管はあくまで真っ直ぐだ。脇にグリーンタワー相模原展望塔がある。



相模原麻溝公園

相模原麻溝公園でトイレ休憩し、水を補給。

更に行くとやがて在日米陸軍相模原住宅にぶつかる。ここは通り抜けできないので南側を迂回する。



キャンプ内の水道道は芝生

まっすぐゆくとやがて小田急小田原線とクロスする。



小田急小田原線

そしてすぐ続いて小田急江ノ島線とクロス。近くに東林間の駅がある。更にゆくと水道道がつきみの3号公園となる。



つきみの3号公園

境川の谷に下ると境川はアーチ型のパイプでわたっている。



境川の水道橋

対岸の土手は鶴間公園になっている。うっそうとした林のなかを行くと国道246号線とクロスする。第一日はここまでとする。そこに英国から輸入した初期の18インチパイプが展示してあった。現在は1,500mmパイプ3本つかっているという。



英国から輸入した初期の18インチパイプ

田園都市線南町田駅で自転車をたたむ。駅前のグランベリーモールは立派だ。


第二日
2013/7/09

田園都市線南町田駅からスタート。国道246号を歩道橋で渡る。水道道は草ぼうぼう。やがて東名高速が眼前に横たわっているのが見えるが、水道道はトンネルで下を抜けられる。



東名高速とクロス

やがて環状4号と平面交差する。環状4号はそのまま北上すれば青葉台に至る。



環状4号と平面交差

更にすすむと川井配水池に至る。直径1.5mのサンプルが展示してある。この界隈の地形は複雑でアップダウンがはげしい。



川井配水池

国道16号線をくぐって北側にでる。八王子街道(旧国道16号線)にそって東進し、上川井から水道道に入る。水道道はいつの間にか八王子街道に入る。川井 宿町で再度水道道に入る。中原街道と交差する周辺は水道道は横にずれ、遊歩道として整備されている。ここで蕎麦屋で昼食。



中原街道と交差前

築池で再度八王子街道と交差し坂を下り帷子川沿いに出る。



帷子川沿いの水道道

今宿東町で帷子川を水道管が横断していた。サイズからみて枝管であろう。



帷子川を横断する水道管

水道道路はやがて鶴ヶ駅入口交差点で厚木街道を横断する。あとで知ったのだが、鎌倉幕府樹立に貢献した畠山重忠は 北条時政に謀られて武蔵国・菅屋館(埼玉県比企郡)をでて鎌倉に向かう途中、二俣川にさしかかった時、長男が殺され、牧ヶ原(現在の二俣川駅南の万騎ヶ 原)に北条氏の大軍が待ちかまえているとの報に接する。家臣達はいったん菅谷館にかえって軍勢を整えるよう進言した。重忠は「一時の命を惜しむようなこと はないし、かねてより陰謀があったように思われたくもないので、いさぎよく追手を迎え撃つ」と諭し、鶴ヶ峰の麓、二俣川を前にして布陣した。追討軍は数万 騎。激闘4時間、押し寄せる北条軍を相手に重忠軍は熱戦を繰り広げたが、多勢に無勢、ついに弓の名手愛甲三郎の放った矢に当たり、42歳の生涯をこの地で 閉じた。郎党もことごとく戦死。これにより北条氏は武蔵の国を掌握し、執権として幕府を独占した。周辺に首塚、首洗い井戸跡、六ツ塚などがある。後日その 時政も、息子義時に出家させられている。

相鉄線を鶴ヶ峰駅付近踏切で横断。



鶴ヶ峰近くの相鉄踏切

坂道を登ると眼下に東海道新幹線が見える。



東海道新幹線との交差

更に坂道を登ると丘の上に出る。ここには県営の団地がある。やがて木陰の坂道(みずのさかみち)を下ると3本あるパイプのうち1本が道路際に敷設され向うに環状2号が見える。



環状2号との交差

環状2号脇にある陣ヶ下渓谷公園では1.5mパイプ3本とマイナーパイプが谷川を渡っている。



陣ヶ下渓谷公園

水道坂を登るとやがて横浜市水道局西谷浄水場に突き当たる。このなかに水道記念館があったのて立ち寄り、休憩。展示には興味あるものなし。客はだれもおらず、やけに威張り散らす掃除婦がいた。

水道記念館をでて自動車道路を下ると横浜市水道局西谷浄水場から出る水道道と合流する。この合流点の三角地にレンガ造りの川島町旧配水計量室上屋がある。 西谷浄水場から横浜駅周辺・桜木町・元町・山手・本牧方面に給水する3条の配水管の量を計る量水装置(水銀式ベンチュリーメーター)を設置するため大正 期につくられた。



水道記念館


配水計量室から水道坂を更に下るとJR新横浜貨物線と立体交差する。



JR新横浜貨物線

やがて相鉄線と平行する。北に向かう支線は峰岡町のレンガ坂を登る。今は石段になっているが元は総レンガ敷きだったという。

本線は相鉄線と平行にすすむ。相鉄線は高架工事中であった。帷子川を西横浜駅近くで渡り、東海道線は跨線橋で渡る。



帷子川を渡る水道橋

東海道を歩道橋で渡り、やがて藤棚町につく。そこから野毛山に登る細い水道道の登り坂が見える。



藤棚町から水道道を見上げる

ここから野毛山山頂への登りは自転車を押して2つのピークを越えなくてはならず。足がつるハードな登りであった。第一のピークの上には道があり、願成寺坂 という。更に進むと西中にゆく道と交差する。そして西中の東側には「くらやみ坂」がある。



野毛山動物園

そしてついに野毛山動物園入り口に到達。ここから桜木町駅までは下りである。

2014/7/28野毛町をあるいておて街角の空地にHenry Spencer Palmerのレリーフをつけた英国直輸入の初期の18インチパイプが記念碑として保存されているのを発見。



野毛山の18インチパイプ 2014/7/28撮影

かって横浜市つつじが丘に住んでいたころは三保市民の森で川井鶴ヶ峰導水路が谷にか かる橋の上をながれてをみたことがあるが、これは支線のようだ。三保市民の森にある川井鶴ヶ峰導水路はローマの水道橋のように重力流下方式のため空中にあ る。ただこちらは鋼鉄製である。

June 30, 2012

Rev. January 30, 2016


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