三島・大仁・修善寺・韮山周遊

2016年11月28日、富岡会は三島・大仁・修善寺・韮山周遊一泊の旅に出た。富岡会主催者の野本氏の本宅は大仁にあり、そこで年末の富岡会をしようということになった。ついでに周辺の名所を案内してもらうという贅沢な旅である。


三島の楽寿園

JR三島駅集合。野本氏の奥様の案内で徒歩で楽寿園に向かう。楽寿園は小松宮彰仁親王が小浜山と呼ばれ富士の溶岩流が流れとまった小高い場所にあった愛染院(廃寺)、浅間神社、広瀬神社の社寺域であった場所に明治23年に小松宮彰仁親王の別邸として造営されたという。

小松宮彰仁親王は明治天皇の祖父にあたる仁孝天皇の猶子(ゆうし)である。実は伏見宮邦家親王第8王子であるから血は通っていないが明治天皇の伯父に当たる。戊辰戦争や西南戦争の指揮を執った。富士山麓で演習を終えた親王がたまたま立ち寄って溶岩流の岩場に湧き出る泉がつくる景観に感動し、神社を移転させて造ったとされる。



楽寿館と小浜池


宮彰仁親王の没後は日本が吸収した韓国王 李垠(りぎん)の別邸(本宅は赤坂プリンスホテル)となり、昌徳宮と呼ばれた。昭和2年、伊豆の戸田村の貧しい船大工から、造船王となった緒明圭造へ売却。昭和27年には三島市が購入して現在に至るという。

楽寿館という建物は京都風の高床式数寄屋作りで明治時代の襖絵がのこる。建物の南には湧き水がつくる小浜池(こはまがいけ)があるが、富士の裾野に展開する製紙業がくみ上げる工業用水のために枯れている。

昼食は楽寿園南出口にある「江戸変わりそば飯嶋」でとって正門から楽寿館にもどった。


三嶋大社

楽寿園正門から隣接する白滝公園に抜けた。ここも楽寿園とおなじ溶岩流のあとが露頭していて水も湧き出ている。この湧き水のながれる小川沿いに歩くとやがて三嶋大社の横に出る。南の大鳥居から境内に入る。

頼朝が開いた鎌倉幕府は、三嶋社を鶴岡八幡宮や二所権現(伊豆山神社・箱根神社)と並んで信仰した。この時代、鎌倉幕府の将軍・御家人は東海道を従来の足柄越ではなく、箱根越を利用した。これによって箱根路が活性化し、箱根手前に位置する三嶋社には数多くの旅人が参詣したという。

三嶋大社は平安時代に延喜式(えんぎしき)で決められた朝廷から幣帛ないし幣帛料を支弁される官幣大社であったが、現在は神社本庁の別表神社。さすが立派である。日本会議の不穏な動きを支持する神社本庁の意図を警戒して、賽銭は投げなかった。



三嶋大社にて 西沢氏撮影

三嶋大社の前を東西に走る旧東海道を西に向かって散策する。道路のは市役所が管理する花が一杯で、きれいな遊歩道となっている。伊豆箱根鉄道駿豆線の三島広小路駅手前の「桜屋」で午後のお茶とした。小休止後、三島広小路駅から大仁駅に向かう。


大仁ホテル


大仁駅から大仁ホテルまで徒歩で10分だ。大仁ホテルは国土開発のホテルであったが、国土開発が手放したものである。長嶋がこのホテルの別荘に泊まってジョギングしたことで有名。



大仁ホテルの別荘群


1日中働いていた野本氏も加わって、夕食をともにし、就寝までの時間は今回のテーマである、メンバー各位の高校卒業後のそれぞれの人生の概要紹介を行った。



チャット 西沢氏撮影

翌日は野本邸にうかがう。室町時代初期、畠山国清が造った伊豆金山城の断崖を目前に富士山を遠望できる絶好のロケーションにある。その眺望を愛でながら2階のリビングで昨日の自己紹介を継続した。

畠山国清は足利基氏に攻められたとき、この支城である伊豆金山城を捨て、本城である修善寺城に10ヶ月立てこもった。結局、兵糧はつきて降参した。この修善寺城の麓に野本氏が院長をつとめた伊豆赤十字病院がある。

夫妻の運転する2台の車で修善寺に向かう。


修禅寺


修善寺温泉街の中心にある修禅寺では本堂裏の裏山に入園した。



修禅寺


「独鈷の湯」はかっては露天風呂だったが今は足湯になっている。竹林の小経、あさばホテル前などを散策。取って返して昼食を「ホテルサンバレー富士見」でとる。このホテルは敷地内に源泉をもつ。


韮山江川邸

「保元の乱」を避けて従者13人を引き連れてこの地にきたという江川一族の拠点である。小山を背にした豪壮な屋敷である。丘の南面ではなく北側に選んだのは、台風の強風を避ける知恵か?

関ケ原合戦の頃建てられたという主屋は24x18m、高さ12mの巨大なもので、茅葺であった。いまは銅版葺きとなっている。土間には幕末に当主担庵がパ ンを焼いたという窯が残っている。庭には大きな井戸があるが、江川家は元禄時代まで江川酒を造っていて北条早雲や徳川家康も美酒であると評価したが、その酒もこの 井戸水で造った可能性があるという。



江川邸にて 西沢氏撮影


江川家は頼朝の挙兵に応じて参戦。以降北条家の断絶にもかかわらず生き延び、小田原の後北条ともうまく付き合い、ついで関東に入った徳川とうまく主君をかえながらつかえた見事な処世術には感心した。おそらく優れた資質をもった血統をうまく維持させたのだろう。幕末 の当主、担庵こと江川英龍は特に開明的で西洋の資料(オランダ)が入ってきていてそれを読んで反射炉を学んでいたようだ。それに若かった。品川沖に今も残る台場も担庵が提言したものだという。


韮山反射炉

反射炉はピツァを焼く窯と同じ原理だ。石炭を燃した高温ガスが横に流れる間にアーチ状の天井を赤熱させ、そこから赤外線が熔けた炉床を加熱すると いう原理だ。背の高い煙突はドラフトを生じ、空気を吸い込んでくれるため、その空気で石炭が燃え、燃焼ガスを横に流してくれる。煉瓦製の煙突が倒れなかっ たのは奇跡だが早期から鉄フレームで補強したためのように見えた。現在のフレームは戦後の昭和32年のもの。



反射炉の前にて 西沢撮影

大砲は砲身の内部にあらかじめ芯の鋳型(中子)を挿入して砲腔を作ると、中子の周りに気孔が生じ、これが砲弾の発射の際に砲身破裂を引き起こす。このため、 むくの砲身を鋳造し、その後に鑽開台で砲腔を開ける工程を行う必要があった。韮山では水車を使って3台同時に中ぐりできる三連錐台があった。いまなら錐の 先 端につける超硬金属のバイトを使うのだが、幕末には錐の先端のバイトに何を使ったのか調べたがわからない。

December 2, 2016

Rev. December 3, 2016


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